べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

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制作 : Jhumpa Lahiri  中嶋 浩郎 
  • 新潮社 (2015年9月30日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (136ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901202

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)の感想・レビュー・書評

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  • 自分が探していた何かが見つかった。今まで自分でそれを探していたことにすら気がつかなかったけれど、見つけて初めて、こんがらかっていたホースがピンとなった。今、その中を水が通っている感じがする。素敵だ。

  • イタリア語に魅せられ、イタリアに移住したジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いたエッセイ、というので、勝手に、もっと日常的な軽いエッセイを想像していたのだけれど、そういう部分もないわけではないけど、やはりジュンパ・ラヒリなので、軽く読むような感じではなく、一語一語丁寧に読むべき本、といった感じだった。わたしは丁寧に読めなかったな、と自覚があるのでいつか再読したい。。。

    ラヒリが、両親が話すベンガル語と幼少時に習得して今では完璧に身につけた英語と、大人になってから学んだイタリア語のあいだでの苦しみみたいなものが伝わってきた。出自と、欧米人に見えない容姿のせいで、英語もイタリア語も、完璧だとしてもそうは思われず、育ちのせいでベンガル語も完璧とは思われないという。。。

    あんなふうになにかひとつの言語に魅せられるっていうのはどういう感じなのかなあと思う。わたしなんかが英語をマスターできたらいいなとか思うのとはまた違うような気がする。

  • ベンガル語、英語、そしてイタリア語… イタリア語への情熱が印象的。「変身」がよかった。あまりほかに類を見ない、実験的なエッセイ。気まぐれでもあり、自分のアイデンティティを求める旅でもある。書くことや読むことと生きることが不可分な、作家の性というか業というか。とても印象的な本。

  • どうしてイタリア語の習得にそんなに熱心になるのか、最初は理解できずに読みすすめた。(途中で説明してくれたので、そこでわかった)そんな感じで、共感はあまりできないのに、文章には、自然にひきこまれてしまった。そこはラヒリの筆力のなせるわざだろう。
    ことばのはしばしから、ラヒリの謙虚さ、率直さ、ひたむきさが伝わってきて、素敵な方なのだろうなあと思う。
    そして、エッセイとともに収められている短編2編がこれまた秀逸で、うなった。エッセイのテーマとも重なる異国や旅や不在などを描きながら、あらがえない自分の変化と変わらなさを伝えていて、こちらは、すごくよくわかる感覚。エッセイでは、個人的な体験・感覚をひたすら掘り下げているのに、小説(創作)では、それを普遍的なものにしてしまう。やっぱり作家ってすごいよなあ、と感嘆せざるをえませんでした。

  • 『停電の夜に』で、衝撃的なデビューを果たした後も、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と確実にヒットを飛ばし、つい最近は『低地』で、その成長ぶりを見せつけていたジュンパ・ラヒリ。その彼女がアメリカを捨て、ローマに居を構えていたことを、この本を読んではじめて知った。単に引っ越したというだけではない。英語で書くのもやめてしまい、今はイタリア語で書いているという。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。もちろんこの本もイタリア語で書かれている。もっとも読んでいるのは当然のことながら日本語に訳されたものであるわけなのだが。

    コルカタ生まれの作家の両親はアメリカに来てからも家ではベンガル語を話しつづけた。ロンドン生まれで幼い頃アメリカに渡ったラヒリは、小さいころは両親の使うベンガル語をつかっていたが、幼稚園ではまわりの子とまじって英語を話すことを強制された。ずいぶん居心地の悪い思いをしたことだろう。その当時の気持ちは、ここに所収の言語習得に関する自伝的エッセイにくわしい。しかし、成長するにつれ、英語で話したり書いたりすることがあたりまえになると、今度は両親と話すときにだけつかうベンガル語が疎遠になったと感じるようになる。そのへんの喩えを、メタファーの名手であるラヒリは、実母と継母の喩えを用いて説明している。無論、英語が継母である。

    しかし、この実母と継母は仲が悪かった。コルカタに帰れば、周りはベンガル語を話す人ばかりで、今や英語で書く作家になったラヒリにとって、そこは父母の祖国ではあっても自分の祖国という気にはなれない。では、アメリカが祖国かといえば、それもちがう。そのあたりのことを作家はこう書いている。

    「ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。」

    そう感じる作家には、「べつの言葉」が必要だった。しかし、イタリア語との出会いはそんなふうに理詰めに進んだわけではない。その美しい出会いについては、本文中に、時系列に沿って、水泳や雷の一撃といった的確かつ美的なメタファーを使用しながら詳しく書かれている。すごい美人ではあるが、どうみてもオリエンタルな印象を与える彼女の外貌のせいで、買い物をした店でイタリア語の発音の流暢さを、スペイン語訛りのイタリア語を話す夫に負けてしまう悔しさなど、笑ってはいけないのだが、つい笑ってしまうようなエピソードもまじえながら。

    いくら好きでもラヒリがイタリア人でないのはその外見だけではない。歴史や土地との結びつきそのものがネイティブとは決定的にちがうのだ。パヴェーゼが『ホメロス』の訳について書いている書簡の内容に触れて、その深さ、広さに到底追いつくことのできない限界を感じながら、それでも言葉を覚えはじめたばかりの少女のように、目を輝かせて、新しい世界に飛び込んでゆくことの感動を語るジュンパ・ラヒリにまぶしいほどの感動を覚えずにはいられない。それと同時に、人間というものと言葉との結びつきの深さにも今一度再考させられた。

    「小さいころからわたしは、自分の不完全さを忘れるため、人生の背景に身を隠すために書いている。ある意味では、書くことは不完全さへの長期にわたるオマージュなのだ。一冊の本は一人の人間と同様、その創造中はずっと不完全で未完成なものだ。人は妊娠期間の末に生まれ、それから成長する。しかし、わたしは本が生きているのはそれを書いている間だけだと考える。そのあと、少なくともわたしにとっては、死んでしまう」

    このような深い省察が、二十年にわたる努力はあったにせよ、まったく自由に選び取られた言語で綴ることのできる才能に呆然とするばかりだ。ただ、その達成のために、自分を世界的に有名な作家にしてくれた英語を捨て、アメリカを捨て、ローマに移住してしまう行動力、意志力にも驚かされる。

    はじめは誰にも見せない日記からはじめたイタリア語は、やがて週刊誌に毎週寄稿するにまで至る。原稿はまずイタリア語の先生に見てもらい、その後知人である二人の作家に目を通してもらい最後に編集者の意見を聞くことになる。それを作家はローマ時代のポルティコを支える足場にたとえ、その足場にありがたさを覚えると同時に、今はまだ足場がなくては崩れてしまいそうな段階だが、いずれは足場を外しても建っているだけの文章にしたいと決意を語っている。

    イタリア語に惹かれるようになってからこれまでの経緯をつづる短いエッセイが二十一篇。いずれも、この人の手にかかると読み応えのある、しかも端正でみずみずしい筆致にあふれる読み物になっている。それに図書館で突然降ってきたかと思われるようにして書かれた短篇、というより掌編が二篇付されている。英語で書いていたころとはひと味もふた味もちがう新生ジュンパ・ラヒリがそこに息づいている。これからも、この人から目が離せない。そんな思いにさせる一冊である。

  • 母国語でも母語でも、仕事で使うためでもなく純粋にある言語に惹かれてやまない気持ちを短編小説や様々な比喩で描いている語学好きにはたまらない一冊です。使うあてもないものだけれど、なぜか惹かれて触れ続けてしまう。言語に限らずなぜか心惹かれるものがある人。学んでも学んでもゴールが見えないと思いつつ取り組むものがある人にオススメしたい一冊。

  • インド系アメリカ人の著者がイタリア語を学ぶこと通じ、マイノリティーの人生を語るエッセイ。

    額縁の中の空白をうめるのが彼女の創作の源泉か。

  • ベンガル人の両親のもとロンドンで生まれ幼い頃に渡米しているジュンパ・ラヒリの中には、両親から受け継がれたベンガル語と、完璧に話すことができる英語という二つの言語が流れています。

    とりわけ彼女にとっての英語は作家としての成功へと導いてくれた言語でもありますが、彼女の物語の中で、他の国のルーツを持つ人の内面、かすかで繊細なやりとりなどが空気感を含めて描写されていることからもわかるように、この二つの言語は、彼女自身が内外に感じる所在なさ、存在としての不安を強く意識させるものでもあったようです。

    『べつの言葉で』は、そんな思いを抱えていた彼女が初めてフィレンツェを訪れて以来恋い慕い、20年間学び続けたイタリア語で紡いだエッセイであり、アメリカを去ってイタリアで出会った人や風景、何より自ら「泳ぐこと」を選んだイタリア語への、湿度さえ感じられるような慕情で埋め尽くされています。

    単調な紀行文に染まらず、短い文章ながらも(新しい言語でものを語ることの難しさは、本書にも丁寧に綴られています)落ち着いた速度で読み進められたのは、自身にとっての新しい海であるイタリア語でベースにある二つの言語への思いを並べ、その工程で生じる「(自分で感じてきた)不完全」が彼女にもたらすそれぞれの違いを素直で平明な言葉で表現する、という、まるで建物の断面を思わせるような構成のせいだと感じます。

    彼女の初めての長編『低地』は、読書に夢中になる気持ちを思い出させてくれた作品でした。

    このエッセイや今までの作品はもとより、インタビューを読んでも強く余韻を残すのは、彼女の人生に対する静かな視線と、誠実さです。
    彼女はイタリアのことを「居心地がいい」と表現していますが、彼女の筆致は、私にも同じ言葉を連想させてくれます。

  • 「停電の夜」などの作品を書いた著者が、英語を捨てアメリカからイタリア・ローマへ移住。完ぺきではないイタリア語で日常生活も仕事にも臨んでいく日々をイタリア語でつづる。もちろん日本語に訳してありますが。
    同じアメリカ人でありながら、スペイン語に堪能なご主人のイタリア語は、勉強には不熱心なのにインド系のアメリカ人である著者よりうまくネイティブのように聞こえるらしい。

    著者の決断の深いところは、よくわからなかったけどすごい決断だなあ。

  • 両親の話す言葉・ベンガル語、幼少期以降に長年生活したアメリカの母国語である英語、そして自発的に選んだイタリア語。
    言語の中で揺れながら自己を探し見つめ、表現への道を模索しつづけた著者によるエッセイ。

    外国語を身のうちに取り込む歓び、楽しさ、難しさ、もどかしさ、切なさが詰まっている作品だった。
    イタリア語→日本語の翻訳文からも伝わる、メタファーや文章の秀逸さ美しさ、様々な言語体験による思考の多様さ。
    言葉に向き合い続けた人の文章はこんなにも美しい。

    言語と自分の思考やアイデンティティーは切り離せないもの。
    外国語を知ることで自国語をより理解し、手放したものとして客観的にみることができるのだなあと改めて感じた。
    ある意味外国語の習得は一つの客観性の習得でもあるのだ。

    図書館で手にしたけど「イタリアの小説」に分類されていた。
    自発的に選び取った言語・イタリア語でこの作品を描いた著者のラリヒさん。どの言語にも安息を見出だせなかったラリヒさん。この分類についてはどう感じるのだろう。聞いてみたい。

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べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)の作品紹介

「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。

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