日本仏教の創造者たち (新潮選書)

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著者 : ひろさちや
  • 新潮社 (1994年8月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106004636

日本仏教の創造者たち (新潮選書)の感想・レビュー・書評

  • ひろさちや"日本仏教の創造者たち"を読む。

    94年の作。宗教思想家のひろ先生が日本仏教の主だった僧たちについて語ったもの。各雑誌へ寄稿したもののとりまとめ。

    他力と自力、親鸞と道元、一休の風狂と良寛の遊、多元的に生き方が浮かび上がります。


    ○親鸞はたんに法然を継承しただけではない。彼は、法然の思想のうちにある修行(努力)の残滓を完全に切り捨ててしまったのだ。人間の側に努力が要求されるかぎり、必ずそこに落ちこぼれが生ずる。まったく無力であって、努力のできない人間がいるからだ。そういう人間は救われないことになる。そういう落ちこぼれの存在は、じつは仏の慈悲の不完全さを立証するものだ。親鸞はそう理解した。

    ○最澄の仏教は…凡夫が努力に努力を重ねて、修行によって仏になろうとするものである。
    空海の仏教は…われわれ人間はすべてはじめから仏であるのだから、赤ん坊の仏が大人の仏に成長するようにすればいいのである。いわば仏らしく生きるのが仏教である。
    これが、二人の仏教理解の差であった。

    ○『徒然草』には、法然のおおらかな人となりが紹介されている。
    「或人、法然上人に、『念仏の時、睡りにおかされて行を怠り侍りける事、いかがしてこの障りを止め侍らん』と申しければ、『目の醒めたらんほど、念仏し給へ』と答へられたりける。いと尊かりけり」

    ○そこで「常識」を否定した一休禅師は、「禅」を呈示せねばならない。その禅は、「非常識」の禅である。「非常識」の禅ーその象徴が骸骨である。だから一休は墓場からされこうべを拾ってきて、京の街の人々に突きつける。

    よの中はくうて糞してねて起きて
    さてその後は死ぬるばかりよ

    死ねばそこには骸骨がある。この骸骨が、われわれの本来の面目であろう。

  • タイトルうろおぼえ!

    仏教いいなー 身を任せてるかんじ
    いや一休さんほんまに素敵で感激したわ 風狂の禅者 かっこええ
    仏教にもいろいろあって 知ってたのに気づかんくてびっくりした
    宗教って決まったもんちゃうくて 例えば親鸞とかは法然師匠の教えから自分の哲学でまた新しい考え方で教えを広めてさー
    深いなー


    批判家とかもいたわけで 批判しただけで島流しにされたりするような世の中で自分の考えを言うってめちゃくちゃすごい

    禅僧みたいに必要最低限で生きれたらなあ その状況におかれたらできるんやろけど自らその状況になる勇気なんてないわ できる限りでやろう

  • ■「仏教ライター」の楽しい仏教講義■
    空海、法然、親鸞、道元、日蓮…。わが国の仏教史は多くの名僧たちの歴史である。ブディズム・ライターを自認する著者が難解な教義を鮮やかに解り易く解き明かす。

    例えば、
    ■仏教は宗教というより『仏道』
    ■本来、仏教に異端はあり得ない
    ■念仏は仏という親元への電話
    などなど。専門書では出てこない言葉が一杯。

    紹介されている名僧
    最澄:空海と共に日本仏教の基礎を築いた功労者
    空海:仏教史2500年の中でも飛びぬけた天才の一人。仏教体系を完成。
    法然:専修念仏という新説。至って大らか。念仏唱えりゃみな仏。
    親鸞:専修念仏という異端。偏屈。念仏唱える時は既に仏。
    道元:銘家生まれで根っから指導者。「皆が仏性を持つ」なら修行は要らんはず。と悩み悩んで禅の道へ。「苦行したら成仏できる」は誤解。もとから仏だから何でも修行。
    日蓮:

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