醜い日本の私 (新潮選書)

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著者 : 中島義道
  • 新潮社 (2006年12月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (205ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106035739

醜い日本の私 (新潮選書)の感想・レビュー・書評

  •  筆者の鋭敏な感性と思想自体はともかく、日々の生活の中で何気なく受け入れていた「当たり前の光景」に一石を投じて論じている名著だと思う。

    ゴミ溜めのような街
     「日本文化は「間」を大切にし、「無」を尊ぶ簡素なもの」と文化人はのたまうが、果たして本当なのか。明大前商店街を始めとする街中は、夥しい数の自転車の不法駐輪、耳をつんざくような街からのスピーカ音が飛び交い、綺麗な建築物の周りにもけばけばしい広告や電柱が乱立し、効果の程がよく分からない横断幕が垂れ下がっている。
     かつて欧米から「醜い」とレッテルを貼られた日本の町並みは、今日の価値観では「古風で良い」という評価がなされている。そして、この雰囲気は何も日本のみならず、アジア諸国にもありふれているのだが、日本独自のものと思い込み、あの醜い商店街のことを棚にあげて、中華街の綺羅びやかさを嘲笑している。きちんと自分たちの身の回りを見つめ直さなければ、この歪な空間は改善されないのではないか、と論じている。

    欲望自然主義
     ここでの「欲望自然主義」とは「自分の利益に基づくがむしゃらな要望の大きさ」のことではなく、「自分に向けられる世間の視線を気にかけた欲望の実現」の事を指し示している。
     自国の価値を客観的に見ることの出来る日本人が、街の風景といった感受性の問題に触れられると無関心でいられたり、怒り出すのは「日本人は「美」と「醜」が共存していても目障り・耳障りではなく、生活の中で工夫をこらしていく中で「自然に」そうなったもの(街中の風景)に対し違和感を感じること無く、「自然な風景」と捉えているため」、そして「日本人は自然の中に人間的な物が入り込んでいるものに趣を感じる(花見なのに幔幕を使って内と外を仕切ったり、花を見る際にも「個」で見るのではなく、マイカーなどの「自分の関係」を持ち込んでいる)ため」と、丸山眞男・木下順二・森有正らは述べている(「日本人は自然を見て「西行や芭蕉がどう言った」などを心に思い浮かべて自然をみるが、この時芭蕉を思い出しているのであって、自然なんか見ていない」という森の指摘は鋭い)。
     そしてその素養は、幼い頃からの生活の中で養われ、その事により、一輪の花に趣を感じ、障子や襖を隔てた物音を「ないもの」とし、あるはずの電線や電線を見えなくしていくのでは、と筆者は述べている。
     ちなみに、文人永井荷風も帰国後の日本の有様にはうんざりしているようで、「自国の文明を欧米諸国のように発展させることを急ぎ、過去2000年の特有な歴史に告別してしまった。それでいて得意になっているのだから、改良でも進歩でも建設でもなく、明治は破壊だ。一夜作りの乱雑粗悪が元あったものに成り代わってしまった」と自著『新帰朝者日記』に綴っている。

    奴隷的サービス
     筆者が体験した限りでは、日本のサービス業の接客は海外のものよりマシではあるが、その定型化された姿勢から「とにかく謝っておけばいい、頭を下げておけばいい、衝突しなければいい」という考えが透けて見えるという(ちなみにオーストリアの客室乗務員には「なにか用か」という態度で接客され、ポーランドのホテルではパンフレットを特に視線を合わせることなく手渡されている)。日本は「何故店側はそれほどまでに下手に出るのか。欲しい物が手に入ったときにありがとうと伝えるのだから、対等な関係でいいではないか」。また、店側から「いらっしゃいませ、ありがとうございました」と声をかけられても、かたくなに無言を通してサービスだけを要求している。これは「儀礼的無関心(ritual inattention)」とよばれる、西欧型社会に共通して見られるものらしい。
     それにしても、筆者の家の近所にあった居酒屋のトイレの標語「試みに そっと手を添え 井戸端に 落ちこぼ... 続きを読む

  • 著者の中島氏は、騒音や雑然さに対して感受性が極めて高い。だから騒音垂れ流し乱雑な街路の日本では不満だらけになる。多くの人は、どうしようもないとあきらめて感受性をマヒさせてしまうのだが、中島氏はそれができないので常に衝突することになる。また表面的で心のこもっていない行動に対しても怒りを覚えるようだ。確かに中島氏自身は自分の心に素直で感じたことをストレートに表現する人だ。ストレートな人にはこの世間は生きにくい。

  • 街並みが汚い、道路が狭い、都市計画が無計画すぎるって私も常々感じている1人。
    なかなか独特なお考えですが、言われてみればそうよね、と共感できる部分がたくさんありました。

  • 「ゴミ溜めのような街」という出だしからして椎名誠が絶賛していた訳が分かった。椎名さんと同じ視点だ。

    ハワイに行った時居心地がいいのは町並みがきれいだったことを思い出す。店の看板でも控えめでなんとも上品。ここに日本風の看板をつけたら野暮で客は引いてしまうだろうとどの会社も店も上品な看板になる。もっとも日本の看板が少しずつ侵略していて景観を壊してるとこもあったが。

    といってこの上品な表示を日本でやったらいいかというとこれは確かに目立たないのだ。

    ランチをとるのに何もアピールしてないと入りにくい。のぼりなど盛大に立ててるほうがヤル気を感じて入り安かったりするのだ。声も臆せずだしたほうが売り上げにはプラスと聞いたことがある。このあたり中島さんも認識しているけどそうしたお国柄なのだ。

    「奴隷的サービス」なんてくだりはワタシもよく思うことなので何度もクビを振った。元は江戸時代にあるとは知らなかった。こうした奴隷的サービスがまた「ゴミ溜めのような街」や次の「言葉を信じない文化」にも通じている。上から目線の客の苦情に「何かしてる」ということをアピールするために過剰な注意書きやアナウンスになってしまう。

    総じて文化的レベルが低いということでしょうか。

    となかなか面白かった本ですが、しかしどこまでも自分の考えから苦情を言うところがすごい。文化的背景まで分かっていてそれをなおらないと分かっていても向かっていくんですね。止むに止まれないのかもしれないがチョット引いてしまうとこもありますね。

  • 街の電線や看板などを「醜い」と感じることを訴えても通じないという、少数の「不快」問題は、マジョリティによって「迷惑」と切り捨てられるという話。感受性や信念を普遍化していく作業が哲学。「言葉」を信じない文化。

  • これ、好き過ぎるwww
    文字通り日本についての作者なりの批判があれこれと書かれています。
    作者は間違いなく中二病だし、究極のKYだと思うけど、景観についてとか、サービス業の姿勢だとか、納得させられることも多い。

    たまには異端児の言葉に耳を傾けてみては?

  • この人の書く本はときどきものすごく的を射ているんじゃないかとずっと前から考えている、ちょっと日常の何かについて考えたくなったら読んでいる

  • もうパンク。商店街やコンビニに突撃する姿なんて札幌の社長ではないか。
    こう言った生き辛さを抱えた人間に共感を覚える。心を許せる。ただ絶対会いたくはない‥でもこの人の感性や現況は露と同じだと思う。通念に必要なのは実は合理性・整合性ではない。だからどれだけ理のある意見を述べようと社会に認められることはない。彼にも俺にも残されているのは一般社会に背を向け自分の王国を築くこと?ただ街の景観、特に電信柱については自分はまだ醜さを見出せない。こりゃあやっぱり欧州へ修学旅行に行く必要があるな‥日本人は清潔さ洗練さなど世界最高峰の美意識を持っているにも関わらず猥雑な街をなんとも思わないことが著者にとって理解不能だそう。
    嶽本にしろ太宰にしろ三島にしろ‥生き辛さを持つ人間。
    ■私は桜の花が大好きなのだが満開のシーズンになると行く気がしなくなる。屋台や宴会、スピーカーが並び人間の体臭で充満してしまう。
    こう言う形で桜を愛でることが日本人の感受性の根幹にあるのだ。
    ■日本人は内から外が美しく見えることにはこだわるが外から内がどう見えるかについては関心が無い。日本の商店街の外観は恐ろしく猥雑であるが店内に入るとこぎれいなことにうなずける。
    ■赤と白の東京タワーは醜悪、わざとエッフェル搭より高く設計したと言うことに貧しい国の貧しい発想が見える。
    ■芸術家はかつて「美」とされてきたものに「つまらなさ」を見出そうとし「醜」とされてきたものに「おもしろさ」を見出そうとする。
    ■日本人はお洒落なベンチを設置したりきれいなタイルを路面に張ったり凝った街灯を設置したりと“付け加える”運動を熱心に開始する。醜を排する欧米に対し醜と美を並立させれる日本文化。
    ■「日本文化は簡素である」と言う評価が誰からも飛び出す。
    ヴェルサイユ宮殿やシェーンブル宮殿を見て装飾過多のしつこさは耐えられない、我々だったらもっと「間」と「無」を大切にするのに、と言う。その間あのけばけばしい歌舞伎町や秋葉原を忘れているであるから不思議である。
    横浜中華街のけばけばしさに驚くが六本木や渋谷センター街と大同小異ではないか。
    つまり欧州文化は脂っぽく濃厚でアジア文化は派手すぎて胃にもたれるが我々の日本文化は和室やお茶漬けのように淡白で質素だと思い込んでいる。
    ■←ではそれはなぜか?仮説であるが明治政府が自分達の武家文化を日本文化として宣伝したからではないか。しかしそれらは人口の1割にも満たなかった武士達の文化である。9割以上の日本人が先祖は農民であったくせに侍魂のようなものを受け継いでいる様に考えている。
    そもそも日本の街や商店街に「無」も「間」も存在しないではないか!
    ■相手を見ず、同じ口調で同じ口上だけを述べる日本のサービス業。客を人として扱わない、ただの物体・金を払う道具としてしか扱わない。罪の意識はないと言うが冠婚葬祭でそのような受付は絶対行わないであろう。
    ただヨーロッパはヨーロッパで別種の不快の連続である。自分の非を認めない、これは近代ヨーロッパを支えているとりわけ醜い礎石である。■自分の本心を言わない人はなにが自分の本心か分からなくなってしまう。また社会的に期待されることを期待されるままコメントしそれを自分の本心と思い込んでしまう。北朝鮮の拉致被害者を可哀相と言わなければならず手鏡でスカートを覗いた教授を異常だと言わなくてはならない。日本には感受性のファシズムが存在しそれがいじめを生み出す。
    ■自分の感受性を異常なのではないか、と考えてしまう。「拡声器騒音を考える会」のメンバーのほとんどが周囲からは奇人扱いされており、だから益々凝り固まり益々周囲を憎むと言う悪循環に陥っていく。

  • 中島先生らしいタイトル。「醜い」はもちろん「日本」にかかる。色のはげた看板、原色で目に痛々しく刺さってくる広告、空を覆いつくす大蛇のような電線などなど、日本の「醜い」景観に異を唱え、それに何も思わない日本人の美意識を解明して行く。大学の教授会や街の商店街、役人とのやりとりを描いたエピソードは(恐らく)事実なだけに非常におもしろい。

  • 個性的な観点から書かれているけど、それがとても興味深いのです。
    「クレーマー」なんですが、説得力があるんです。
    「きれいに使っていただいてありがとうございます」の分析にかなり共感します。

    ”「美しい国」が好きな人には、読んで頂かなくても結構です”
    こう言い切ってしまう作者が、すごく好きになりました。

  • 「変な人」が書いた本。
    日本人は美に敏感で、細かな心遣いを持ち合わせている(らしい)。しかし、それ故に溢れる「醜さ」がある。


    <「美しい国」が好きな人には、読んで頂かなくても結構です。>

    と、書いてあったので、思わず手に取ると「戦う大学教授」こと中島義道の新作でした。

    「音漬け社会」を扱った『うるさい日本の私』の延長線上にあり、今作では景観・接客・日本人的態度の「醜さ」にまで対象を広げた一風変わった日本文化論。
    「感受性ファシズム」に対する感受性のマイノリティである著者の極端な不快感と問題意識を表明している。

    具体的には、
    電線や原色にあふれる街並みや、優雅にデザインされた建物の形を破壊する看板の氾濫といった景観の醜さと、それに気付かない美に敏感な人々の鈍感さ。
    客に対して卑屈すぎる「奴隷的サービス」。
    実効を伴わない「バカ管理放送」など
    を取り上げている。

    著者のような人が身近にいたら、はっきりって煩わしくて仕方がないだろうが、言ってること自体は間違いじゃないと思う。(極端すぎると感じる一方で、概ね納得はできる。)
    特に終盤、「言葉を信じない文化」には同感する点が多かった。

    個々の事例は批判的に感じても、あとがきには納得する人も多いのではないでしょうか。最終章とあとがきだけでも読む価値アリだと思います。


    やや自嘲気味でいて、尚かつ饒舌。読んでいて面白く、具体例や体験談にはおもわず笑いも・・・。

  • 中島さんは『うるさい日本の私』以来のおつきあいである。『醜い日本の私』もそうだが、タイトル初めの"うるさい"も"醜い"も「日本」と「私」の両方にかかる形容だそうな。分かってはいたけど。
    基本的には先に紹介した『うるさい日本の私』の続々編である。著者の思想を知るにはまずはこの本が最初であるかと思う。おざなりな同情をすることはあっても、決して多くの人とは共有することのできないマイナーな感受性の提起こそこの本の狙いである。読み進むうち、世に存在する終わりのない問題と通底することに気付くだろう。   隠された意図に気付いたらもう最後。どんどんこの著者の本を読みたくなる。
    他の本にはもっと毒がたっぷり盛ってありますぜ。

  • この国では、人々は客になったとたん、ふんぞり返り、自分にかしずくばかりのサービスを相手に要求するのだ。我が国の客はサービスに対して、多分世界で一番要求が高い。
     自分を表面的に知っている人々に対しては思いっきり気を使い、だから嫌なやつに遭遇してもとっさににこにこ顔で挨拶するのだが、その世間の外に位置されるに人間に対しては、その分だけ全くの無関心を貫く。儀礼的無関心
     言葉を定型的に使うべきことを骨の髄まで学んでいる。つまりそれにいささかの疑問を感じない日本国民は嘘に対してすこぶる寛大である。なぜなら真実より大事なものがあるからであり、それは対立をさけることである。対立をさけるためにはどんな嘘でもつくというのが平均的日本人のあり方であろう

  • 日本は美しい国ではなく、醜い国だ。過激な表現だが、電線などに汚された街、騒音が溢れている街、その他サービスや言葉遣いなど、日本の醜いところを挙げている。少し偏執的だが、理解できる面も多い。

  • 美しい日本という馬鹿げた言葉を多分電通と一緒に考えた脳細胞のなさそうな総理大臣はさておき、この時世にわざわざ「醜い日本の私」という本が出た。タイトルは基本的に賛成。日本が美しいなんて間違っている、という基本的なところで賛成。中島義道著、新潮選書。
    途中までは楽しく、そうそうおかしいよ、で読めるのだが、哲学を振りかざしたあたりから議論が歪んで来る。前提がよくない。この著者はその場ごとに自分の立場と議論の土俵をすり替えていくのだ。おかげでけっこう賛成して読んでいても反対に回らざるをえなくなったりもする。問題は問いかけの方向性にあると思う。
    日本は電柱があって景色が汚いと言う。圧倒的に賛成。人々が気にしないのが判らない、と著者は言う。子どもの頃から見慣れた風景なのだ、誰もそうは思わない。「明日のジョー」だって曲がった電柱の列がないとさまにならない。確かにそうだ、と思う。しかし問題の源泉を問う気が著者にないのだ。電柱には既得権益があって、それを逃す気は電力会社にもNTTにもない、ということだ。特に今の時代に電柱を撤去し、地下に埋めた場合、今後相当に簡単に利益を生むはずの無線LAN絡みの事業を見直さないといけない。著者はこういう撤去しない理由にはまったく言及していない。電柱が空中に立っていることで得られる既得権益がある限り、撤去したくないのは当然であり、美観論争の前にこれが存在しているのだ。(都市化の早い段階で撤去し、共同溝を作った都市ではインフラはそこに集中させるように動いているが、日本ではその動きは遅かった。)
    電柱はなくしてほしいと思っているのはマイノリティではない。この本はこうした基本的な視点がずれている。普通の人々はもっと著者に近い。しかしインフラ側が遠いのだ。
    垂れ幕、標語についてもそうだ。行政がインフラと同じ対応をしていて、既得権益を逃さないように動いている。問題はむしろここにあって、美観論争ではないところに原因がある。ここについてこの本はかけらも論じていない、いや、触れていない。
    挙げ句、読んでいけばわかるのだが、著者は堂々と自らクレイマーであると公言している。しかもその発言を読む限り、素直なクレイマーではなく、嫌なクレイマーを演じる自分が好きなようだ。これはもう閉口だなあと最後の方では感じていた。このおっさん自身が醜いのも確かだと思った。
    でもそれはもう合わせ鏡のようで、日本の醜さとこのおっさんの醜さが見事に照らし合わされてひとつの形になっている。さて、読み終えて、明日も渋谷のセンター街を通り抜けて職場へ向かう。あの道は本当に醜い。

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