- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106035784
作品紹介・あらすじ
『下流志向』の内田樹と日本の知恵袋、養老孟司が火花を散らす。「ユダヤ人問題」を語るはずが、ついには泊りがけで丁々発止の議論に。それぞれの身体論、アメリカ論、「正しい日本語」、全共闘への執着など、その風狂が炸裂し、日本が浮き彫りになる。なぜこんなに笑えるのか。養老は「"高級"漫才」とこの対談を評した。脳内がでんぐり返る一冊。
感想・レビュー・書評
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ちょっと前の本だけれど
気になるお2人の対談だったので購入
読み応えあり
内田樹さんは武道をやられてる方だから
感覚的(身体的)な表現をされる所があり
面白かった
ブックオフにて購入詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
養老先生の話しって、きっとおもしろいんだろうけど、
難しいなあって思ってました。
この本では、内田先生との対談でお二人の相乗効果が
どかんときた、そんな感じがします。
ものの考え方について、こんな会話ができるような
大人に、おじさんになりたいなと思わせます。 -
ユダヤ人のことが少し分かった。レヴィナスという難しげな哲学者がどういう人物か少しだけ分かった。いったい本書では何が語られていたのか。昨日読み終えたばかりなのにほとんど思い出せない。ユダヤ人のことしか覚えていない。ユダヤ人の問題は実はユダヤ人のことだけではなく、もっと大きな枠組みで考えるべき問題らしいということがおぼろげながら分かった。「夜と霧」でフランクルは決してナチスだから悪だとはとらえていないということには気付いていた。話はどんどん多岐にわたっていく。話がかみ合っているようですれ違っているようで。それぞれの自己主張が強いけれど、2人とも大声で意味のないことを自身ありげに話す人ではない。全共闘のこと、政治のこと、アメリカという国について、「蒟蒻問答」という落語について、おもしろい。一気に読み通しました。内田さんがあとがきで養老先生のことを「師匠」と呼んでいます。確かに、いつも近くにいるとそれだけで、自分が高められていくのかもしれない。
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この対談全て理解できる人は、なかなかいないと思う。特にユダヤ人論は難しい。内田さんに、ユダヤ人論の新書があるので、今度読んでみたい。
五章六章、八章はおもしろかった。対談って話がスッーと流れてしまいがちな傾向があるが、お二人の場合、養老氏を師匠と崇める内田さんが、噛み砕いて分かりやすくしているケースが多々あり、そういった話題のほうが、私たちには理解しやすいように感じた。逆だと少し難しい。
ともあれは知的なおじさんになりたい。頑張ろう。 -
内田さんのよさがすごく表れてる。そんな細かいことぐちゃぐちゃいわなくったって、なんとかなるよ。問題がおきたら、そのとき考えようよ、的な内田さんの考え方が好き。
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養老氏だけでもワカワカンナイことばかり言っているのに、内田氏が加わり、さらにワケワカンナさが増したような、でもそれでいてハッとさせられるような発言がちりばめられている、不思議な本です。
前半のユダヤ人論に始まり、徐々に時事ネタへ。
「ユダヤ人とは誰か」なんて、今まで考えてもみませんでした。恥ずかしながら、この本がなければ僕はここまでユダヤ人について考えなかったかもしれません。
僕らが何気なく「ユダヤ人」と言っている時、果たして「ユダヤ人とは何か」をどこまで知った上で言っているのか。そう考えると、当たり前のように世の中にある「ユダヤ人像」というのはことごとく崩壊していくのではないでしょうか。
文中にもありますが、「ユダヤ人とは何か」だけではなく、「ユダヤ人とは何ではないのか」という視点で考えていくことも、この問題を考える上で非常に有効なのではないかと思います。
後半は、いつも養老氏がとりあげるトピック(個性や全共闘など)に内田氏が加わった感じです。基本的には養老氏がいつも通り好き勝手に喋ってますが、内田氏もその都度、的確な意見を挟みこんでいます。
「内田:「みんな英語ができるから私も英語ができないと」とか「みんなが家を建てるから私も建てないと」って、やればやるほど自分がいなくてもよくなることにどうしてみんな努力するんでしょうね。自分と同じことをしている人の数が増えるだけ、単純計算でその人の固有性が減じてゆくのに。」(p171) -
いい本!世の中を斜に構えて見ながら、常識を疑いながらそれが根元論につながる。スルドイと思わせるところしばしば。読み続けていきたい二人です。
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皆何がしかのイデオロギーはある
でも、人間が生きやすくあるために存在するのがルールだ
自分の立場やイデオロギーに固執しすぎるのでなく、棚上げや両論併記、継続審議などの「大人の知恵」を許容しよう
この2人の言葉はいつも、附に落ちる -
買ってから読みかけて、しばらく積読にしていた。出たのはもう10年以上前になるのか。養老氏にしろ、内田氏にしろ、ずいぶん若く見える。それでも言っていることはを、古びているとは感じない。刺激的だった。
この本は、知的なキックを得るために、何度も読み返したいな。 -
解剖学者の養老孟司とフランス文学者の内田樹の対談を収めています。
レヴィナスに私淑する内田は、「他者」の歓待というテーマをその多彩な議論の中心に秘めているといっていいでしょう。これに対して、解剖の現場で死者に向きあいつづけてきた養老は、けっして動くことのない死者から自己のうちの動かないものへと折り返していくことで思索の出立点を確立し、その成果が『唯脳論』(ちくま学芸文庫)にまとめられることになりました。そうした両者の思想には、身体の知を重視するという共通するスタンスが認められます。
世間に流通する「問題」に対してその「対偶」をとるという、著者たちの独特の身振りはきわめて啓発的で、非常に興味深く読むことができました。ただ、わたくし自身は以前から、著者たちの身体への偏向にある種の戸惑いをおぼえていたのですが、本書を読んでもそうした印象は変わらず、むしろ強められることになりました。両者の思索のスタイルは広い意味で構造主義的と形容することが可能だとわたくしは理解しているのですが、リニアなロジックに対置するしかたで性急に身体の知を掲げることは、構造主義以前の疎外論的な構図に議論を回収してしまう恐れがあるのではないでしょうか。
本書の最後に収められている内田の文章は、『無門関』における「南泉斬猫」の公案を紹介しつつ、養老を禅の宗匠になぞらえているのですが、わたくしには養老も内田も、宗匠というよりむしろ猫なのではないかという疑いをぬぐうことができません。 -
脳みそ揺さぶられる面白い本!
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2007年に出版された、内田樹、養老孟司両先生による対談。
テーマは「日本論」という実に曖昧でざっくりとした話なので、逆に2人が肩肘張らないの世間話のような対談となっています。
本書では「日本人をとはなにか」を考えるのにユダヤ人の話が出てきます。これはなぜかというと、「ユダヤ人」という概念が非常に哲学的な考察を必要とするからだといいます。かつて日本の出版界に「ユダヤ人ブーム」というのがありました。それほど読書家でもない父がイザヤ・ベンダサン(実は山本七平という日本人とされる)著の「日本人とユダヤ人」を持っていたほどなのでかなり売れたのでしょう。
ユダヤ人というのは定義がはっきりしないそうなのです。まず人種ではない。ヘブライ語を話す人ということでもない。勿論イスラエル国籍の有無でもない。そしてユダヤ教を信仰する者ということでもないようです。それぞれがゆるく集合に入るけれども、絶対的な定義ができない。
そこで「あいつはユダヤ人だ」と、主に反ユダヤ主義者から名指しされることによって逆説的に「ユダヤ人」と定義される、という仮説を立てます。もう2000年以上もの間、世界中で反ユダヤ主義が興り、その都度被迫害者としての「ユダヤ人」が生まれてきた…。従って「ユダヤ人」の定義を探すには、自分が「反ユダヤ主義者」だとしたら何をもって誰かをユダヤ人だと規定するのかを考えてみる。
というように、世の中の様々な事象を「逆さまに見る」。逆に考えたらどうなるか、という考え方をする。そうしたことで自分にとっての世界の見え方が変わってくる。
それはなかなか面白い体験です。どうやら倫理とか哲学とかを考えるには、そうしたちょっと意地悪でひねくれた脳の使い方が必要なようです。 -
【感想】
ファンなら「買い」の一冊です! 季刊誌の連載を書籍化したものですが、新潮選書ではなく新潮新書のほうが自然だと思いました。
【目次】
まえがき(養老猛司) [003-006]
第一章 われわれはおばさんである 013
われわれは「おばさん」か?/脳はその日暮らし/「世間」しか考えていない/解剖と武道/死体は武器になる/長い足が嫌い
第二章 新・日本人とユダヤ人 039
ユダヤ人とはだれか/日本における「ユダヤ的」なもの/「口」はどこまでを指すか/逆から入る/日本人だから書ける/ユダヤ人は「神に選ばれた民」/自分はここにいていいのか/ユダヤ教の天地創造/脳が行う「調整」/ユダヤ人の視覚への禁忌/アウシュビッツの「証人」/新・日本人とユダヤ人/武道とレヴィナス/『唯脳論』の誕生
第三章 日本の裏側 091
「よくわかりません」/縄文時代の世田谷区民/国籍はいい加減なもの/インターナショナルは辺境/鎖国志向/小泉純一郎という「変人」/総長賭博型ソリューション/政治的になるということ/周りの情勢で決まる日本/フェアネス/数とアイデンティティ
第四章 溶けていく世界 127
個人情報保護村へようこそ/首尾一貫という病/アメリカ・バッシング/疲弊するアメリカの土地/「生きているうちはこれでいい」/トランポリンの上の相撲/振り込め詐欺のある「いい社会」/無駄なもの/敵味方複合体/高層ビルが建つ理由/イギリスの足腰
第五章 蒟蒻問答主義 159
怒りっぽい人/丈夫な脳を持て/会議は大嫌い/ドラマティック中間管理職/羅生門/正解はひとつじゃない/「個性」とは「人を見る目」/呼称権の有無/蒟蒻問答
第六章 間違いだらけの日本語論 179
顰蹙を買え/漢文を復活せよ/「嫌がらせ」が七割/「正しい日本語」なんてない/言葉を楽器のように/リズムと朗読/感覚としての言葉/説教させて
第七章 全共闘の言い分 201
皮肉をもっと言おう/福沢諭吉は全共闘/全共闘はなにを言いたかったのか/ああ言えばこう言う/俺にしかわかんない/空気の通っている本/土俗と普遍
第八章 随処に主となる 219
市民的自由/大人になれない国/成熟というモデル/「対偶」の考え方/翻訳は裸でするもの/師匠の存在/親切すぎてもダメ/随処に主となる
養老斬手――あとがきにかえて(内田樹) [251-255] -
印象に残ったフレーズ…
ぼくは、本音を言うときに必ず「ケースバイケース」という言葉が出てきます。(養老:p160)
ぼくは「デスクトップに並べておく」という言い方をしてます。自分の意識の「デスクトップ」に開いたファイルをどれくらいたくさん載せられるか。どれだけデスクトップが散乱しているのに耐えららるか。この無秩序に対する耐性というのはけっこうたいせつじゃないかと思うのです。(内田:p162)
ぼくは、呼び方は基本的に相手まかせです。(中略)呼称命名権は他人に属する、というのがぼくの持論です。(内田:p174) -
読むたびに騙され気になってしまう養老先生と最近、本を読み始めた内田先生の対談は、やはり騙されて終わりました。しかし、この爽やかな読後感はなんなのでしょう?いきなりのおばさんロジックの話は目からウロコでした。
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いかに自分が、物事に対して一辺倒な見方しかできていないか。
歳を取れば取るほど、世界に触れる時間が長くなるわけで、そうすると世界との折り合いもまあぼちぼち上手くはできていくような気がするんだけど、この二人についてはいつまでも「反骨心」という言葉が似合うような。
しかしその反骨も共感をもって迎えられる現状を見るに、実は誰もが心のなかで「なんかおかしいんじゃねーの?」と反発しながら生きているってことなんでしょうかね。
世の中に反発しながら味方を増やす(もしくは敵を作らない)。
そんな生き方を今後共両氏から学んでいきたい。 -
解剖でご献体に触れ、合気道で相手に触れ、獲得してきた理屈だけで空回りしていない地に足の着いた智恵がいっぱい詰まってる本。
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養老孟司と内田樹、本を読んだりポッドキャストで話を聞いたり、ここ数年チェックし続けているお二人の対談本。この方達のものの考え方は、思想界でどんな風に分類されているんだろうか。イデオロギー的ではないし、右翼でも左翼でもない。政治的立場が同じという事でもないし。でも何か共通するものの考え方を感じる。
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「思考がひっくり返る」のうたい文句の前に、理解できない部分も多かった。「公正・中立・客観的な放送なんてありえない」の意見には激しく同意!
話が微妙にずれている部分もあるように感じたけれど、そこから自分の論の軌道に相手を乗せてしまう考え方と話術はやっぱりほれぼれ。一見とてつもなく知識が深いとも思えるし、広いように見えて狭いとも思う。たくさん吸収してたくさん吐き出せる人になりたい。
(20130219) -
養老孟司さんと内田樹さんの対談。このお二人の名前を見るだけで、高尚な対談なんやろうなあと思えるような一冊。
読んでみると、完全になめてました。かなりむずかしいです。ユダヤ人と全共闘の話はほとんど理解できませんでした。
第四章らへんくらいからは読みやすくて、おもしろくなる。
特に個性の話に関しては、自分が思っていたことを養老さんが言うてくれていた。
個性は自分で主張するものではない、とにかく他人を見る目を養え、これ、ほんまに大事やと思う。
まあ、全体的にお二人の掛け合いは刺激的で、よい本やと思います。もっと賢くなってから、また読みたい。 -
敬愛する養老孟子、内田樹の対談本。おもしろくないわけがない。身体で保証された抽象思考、整理しない思考鍛練などが参考になった。「養老さんは邪道の師匠」。なるほど。
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内田氏と養老氏の対談話。二人の発想がそれぞれそれらしくて、それぞれ
面白く読めます。ユダヤ人・おばさん・総長賭博・アメリカバッシング・蒟蒻問答・全共闘などなど・・・
高級漫才とかいてあるように、読みながらわらってしまうところもあります。
なるほどと感心するところもあり。 -
養老孟司と内田樹の高級漫才。養老氏は聞き役だといった上で、それでもまあ好きな事を仰っている。ユダヤ人って何なのか、ユダヤ人問題とは何なのか。なぜか蒟蒻問答の話。そしてやっぱり虫の話。それぞれの、身の置き方、ひねくれ方、僕は好きです。
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AはBであることよりも先に、では、Aは何故Bではないのかということを考えてみる。これすなわち対偶。ユダヤ人と日本人、国籍とは、蒟蒻問答、日本語論など二人の論者による対談集。
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2人の老師の掛け合いが楽しく読める本。
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(以下引用)
(内田)日本の右翼は伝統的に心情的には反米でも、反米を公言できない。先の大戦で敵国であり、国内に基地があり、自分たちの住んでいる町にフェンスがあって中が治外法権という状態に対して愛国的情熱が湧き上がるのが本筋でしょうけど、伝統的に反米闘争を担っているのは左翼です。右翼はなぜかアメリカの世界戦略を支援している。この点については、ナショナリストたちはきちんと「分業」している。反米は左翼ナショナリストの仕事で、反ロ、反中は右翼が担当。右翼において当然噴出してよいはずの反米感情は抑圧されている。その抑圧された反米感情が屈折して、靖国参拝のような「アメリカに対する無意識ないやがらせ」というかたちで迂回するんでしょう。(P.108)
(内田)特に成功した人でフェアネスを語る人はほとんどいないでしょう。成功した人は成功を100%自分の努力の成果だと思っているからだと思うんです。努力と成果が完全に相関しているなら、成功者の成功の鹿実を100%占有するのはフェアなことです。けれども実際はそうではないでしょう。もののはずみとか、他人の支援とか、生得的な才能とか、そういう自助努力でないファクターが成功に大きく関与している。その分は占有すべきではないと思うんですよ。よそさまからいただいたものなんだから、よそさまへ返さなければいけない。でも誰に返したらいいいかわからない。だから、周りを見渡して、とりあえず「他人の支援」があればいい仕事ができるかもしれない人を見つけてそこに「パス」するというのが実践的な意味でのフェアネスだと思うんです。(P.120)
(内田)「北欧では」という議論は「目黒区では」という議論と同じだと思います。目黒区で成功している事例だから国政レベルで通用するというロジックを口にする人はいませんよね。フィンランドでできることが日本でできないのは日本社会が後進的だからだと解釈する人が多い。それは違いますよ。日本だって人口500万人だったらフィンランド程度のことはすぐできますよ。
(養老)オレオレ詐欺やら振り込め詐欺が流行らない世界にぼくは住みたくないんですよ。だった、いい人だから騙される。騙される人がいるという社会は、いい社会でしょう?(中略)子どもが大変な目にあっているなら、なんとしてもお金を出してやろうとする親がいるわけです。それは愛のあるいい社会ですよ。(P.145)
(内田)日本でもアメリカでも「算盤を弾く人」がいなくなりましたね。ことの当否はともかく、どちらの政策がお金がかかるかというクールな計算を立てることができなくなっている。学校でも病院でも福祉施設でも奨学金でもいくらでも使い道がある。平和で豊かな社会からはテロリストは生まれない。だからテロ対策に金属探知機つけるよりは、中東に人道支援したほうが安上がり、という判断は算盤上は「あり」でしょう。こういうのは正しい、正しくないというのではなく、コスト計算なんですけどね。
(内田)当今の高校生が「ビミョー」というのと似てますね。ぼくも、それ好きですよ。鄧小平が領土問題のときに「こういう面倒な問題は未来の叡智に委ねよう」といったのも好きですね。面倒なことは決めないで先送りする。きちんと決めてしまうと原理と原理がぶつかってしまうから、棚上げ、両論併記、継続審議。これは大人に知恵ですよ。
(内田)「みんなが英語ができるから私も英語できないと」とか「みんなが家を建てるから私も建てないと」って、やればやるほど自分がいなくてもよくなることに、どうしてみんな努力するんでしょうね。自分と同じ事をしている人の数が増えるだけ、単純計算でその人の固有性が減じてゆくのに。みんなが英語できるなら「じゃあ俺はインドネシア語やるよ」となったほうが、社会全体にとってはるかに利益が多いはずなんだけど、どうしてそういう方向に行かないのでしょう。(P.171)
(内田)無生物主語って日本語にはほとんどないですよね。でも、欧米語の構文はしばしば無生物主語を頭にドンと置く。「彼が無知なせいで、彼は真相を知ることができなかった」というふうには書かずに「彼の無知が、彼が真相を知ることを妨げた」というふうに。文頭に無生物主語が来て、それに他動詞が続くという構文がフランスの知識人は好きなのです。)P.183)
(養老)ぼくは政治家を含めた立場で政治を考えていると思う。逆に新聞は、自分が首相になったりする可能性は絶対にないというスタンスで書いています。つまりいつも権威にたてつく立場で書いていて、統治者の立場に立つことは一切ない。市民的自由社会に必ずあるであろう交換性を忘れているから、首相はああすべきだ、こうすべきだと簡単に言うのです。(P.220)
(内田)言論の自由ということについては、実際に政治的な抑圧があるというより、内面的な自己規制のほうがずっと強いと思う。
(内田)アメリカがうまくいっているのは、あそこには五十の週があるからなんです。このシステムって、よく考えると、江戸時代の藩と同じなんです。州ごとに法律も教育制度も違っていて、それぞれが自治的に機能するようにできている。だから、多少中央が手荒なことをやっても個別システムがそれぞれに補正の動きをすることができる。(P.228) -
教育・文学・政治にと
種々雑多なお題から、日本を縦横無尽に解き明かしていく。
日本を代表する有識者お二人の対談から、
読者も得るものがたくさんあるだろう。 -
前半の第一章と第二章は非常に面白かった。
特に、第二章の「ユダヤ人は神に選ばれた民」から「ユダヤ人の視覚への禁忌」までに、この本の面白さの8割が詰まっている気がする。
他の部品は、ぶっちゃけ俺にはよく分からなかった。
人間の本質的な「遅れ」の議論、時間性と宗教性、言語による思考の限定、自己同一性、時間と「主体と他者」の関係性、視覚と聴覚のズレ…。
何を言ってるのかさっぱり分からないけど、とにかく全く聞いたことのない発想に感銘を受けてしまう。
とりあえず、最初からここまで読んでおけば脳みそが嵐になるのではなかろうか。
個人的には、「哲学的な何か、あと科学とか」の哲学史メニューで言っていた
「人間は、気がついたら生きていた。なぜ生きているのか全く分からぬままに。」
みたいな部分とのリンクを感じた。
うーむ、これをよく理解して言語化できるような知性が欲しい…。 -
内田樹氏と養老孟司氏による高級漫才本(笑)。興味深い話題が次々と出てくる。たとえば、死体は武器になるという話。日常に死体という非日常が入り込んだとたんそれが、最優先事項になってしまう。絶対に無視することができない。だから、やくざがもし乗り込んできたら、人体標本の手を机におもむろにゴロンと置けば、その状況に対応できなくなる。これを俗に先手を取るというのである。(冗談) 表題にもなってる逆立ち日本論は、ユダヤ人問題を考えることから、はじまっている。ユダヤ人というのは、どうもどういう存在なのかはっきりしない。日本人というような同種の集団カテゴリーと同一のものと安易に設定することはできないのだ。そこで「ユダヤ人はなになにである」という命題を立てるのではなく、「ユダヤ人はなんではないのか」という「AがBでないとはどうしたらいえるだろうか」という対偶の問いを立てることで問題設計する方法を逆立ち思考としているのである。ユダヤ人は「私ならざるもの」に冠された名であって、それゆえに、それについて語った瞬間に自分自身を語ることになってしまう。またその根底にはレビナスのいう「始原の遅れ」があるという。わかりやすく例えるなら、「気づいたらすでにゲームは始まっていて、自分はフィールドでプレイしているんだけど、ルールがわからない状況」があって、プレイしているうちにルールらしくものがいわば、遅れてわかってくるというものである。彼らのこういった「遅れ」の感覚が私はこう思うではなく、私がこう思うようになったのはなぜだろう?という一段上の思考を可能にしているという。こうしたユダヤ人とは何か?という問いは日本人とはなにかという疑問を揚棄させずにはいられなくなる。 当たり前と考えていることが、実は共同幻想に過ぎないのだということを意識させられた刺激的な本であった。
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結局ユダヤ人とは誰かについての一義的な定義にはいきつかない。
ユダヤ人とは誰かについての本質的な問いに答えないままにユダヤ人人口を云々するのは論理的にはまことにナンセンスなことであるが、現にユダヤ人は存在する。
ユダヤ人というのは入口だけあって、出口のない世界、恐ろしく奥が深いのだ。日本のようにユダヤ人がほとんど存在しない社会でさえ反ユダヤ主義が存在することができる。
反ユダヤ主義がなぜあれほど圧倒的な大衆動員力を持ったのかは彼らの内側にうごめいている名づけようのない不安や恐怖に創造的に共感してもないとわからない。
サルトルはユダヤ人とは、他の人々がユダヤ人だと思っている人間だと定義した。一方レヴィナスは、ユダヤ人とは他の諸国民よりも多くの責任を負うために神n選ばれた人間だと定義した。
ユダヤ人はよくものを考える人たち。つまり意識という機能を徹底的に使っている。
ユダヤ人は迫害されるものであり、だからこそフランクルの話も迫害から始まる。フランクルは運がよく生き残れた。運命だ。
フランス・ユダヤ人はヨーロッパで一番どうかが進んでいました。
中国のトップなんか13億人を率いて権謀術数に長けていて党内闘争を生き抜いてきたんだから、小泉さんやらでも勝負にならない。
ユダヤ今日五の共同体が解体するのはインドと中国。仏教の本家と老荘思想の国だとさすがのユダヤ教も個性を発揮できない。
頭の悪い人とは話せない。ロジカルじゃないから。
フランス語がどのくらいできますか?って聞かれたら、頭にいいうランス人とだったら結構しゃべれるけれど、頭の悪いフランス人とはほとんどしゃべれません。ってのが内田さんの名言。
言葉には力のある言葉と、力のない言葉があって、力がある言葉に人間は反応する。