輿論と世論 (新潮選書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (350ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106036170

作品紹介・あらすじ

「世論の従って政治をすると間違う場合もある」(小泉純一郎)…この"世論"はセロンか、ヨロンか?"公的意見=輿論"と"世間の空間=世論"、両者を改めて弁別し、戦後を検証したい。終戦記念日、安保闘争、東京オリンピック、全共闘、角栄と日中関係、天皇制、小泉劇場などエポックとなる出来事の報道を分析し、メディアの世論操作を喝破する。甦れ、輿論。

感想・レビュー・書評

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  • 輿論(よろん)と世論(せろん)について。いまでは輿論という概念はほぼ失われてしまっている。輿論という言葉が使われないばかりか、「世論」をそもそも「よろん」と読むことも多い。例えば、「世論調査」はほぼ「よろんちょうさ」と読まれるだろう。だがこの二つは異なる概念であり、輿論という言葉が失われ、その読みが世論に取って代わられているのは単なる言葉の問題ではない。そこには概念上の問題がある。本書はこの二つの区別と、世論が輿論に取って代わっていく過程を様々な場面で追っていく。そして、世論に抗して輿論の立ち位置を確保することの重要性を訴える。

    輿論と世論という言葉は戦前まで区別されていた。その言葉は明治時代の幕開けにその意味を宿している。つまり、まず輿論とは論を興すという意味であり、これは「五箇条の御誓文」(1868年)の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」から来ている。それは公開討議された意見を意味している。一方の世論とは「軍人勅諭」(1882年)に見られる「世論に惑はず」から来る。輿論とは対比される、私論のことである(p.23-30)。輿論は理性的・客観的な意見であり、世論は国民感情に基づく。したがって、意見(輿論)によって感情(世論)を制御することが民主主義の原則と見なされる(p.35)。英訳すれば、輿論public opinionと世論popular sentimentsである。

    もともとこの輿論と世論という概念は混同される傾向にある。戦前は区別されていたとしたが、戦前に混同されている例も多く挙げられているし、それが増えていく。輿論と世論の区別は1925年の普通選挙法成立に至る「政治の大衆化」の中で曖昧になっていき、まともな輿論が許されなくなった軍国主義ファシズムのなかで一体化していくことになる(p.30-35)。

    戦後になって、輿論という概念が消失するのに大きな役割を果たしたのは、漢字の使用制限である。1946年11月16日に内閣が告示した当用漢字表において、「輿」の使用が制限されてしまった。この当用漢字表に対して、新聞社は「輿論」という漢字の代わりに「世論」を用いることにした。これにより、輿論という概念は世論によって塗り替えられてしまった(p.82-90)。

    ここから著者は戦後の「輿論」と「世論」を様々な場面で追っていく。まずは戦後の世論調査である。戦時中には戦時プロパガンダの形で、国民の輿論を形成するための輿論指導が行われていた。戦後、GHQは日本国民にアメリカ流民主主義の考えを普及させるべく、この戦時中に輿論指導を行っていた人物たちを採用する。ここではプロパガンダと民衆へのマス・コミュニケーションが連続しているのである(p.59)。戦時中にプロパガンダに関わっていた人たちは転向などしておらず、まったく同じ手法で戦後も活躍した。変わったのはメッセージの内容だけである。これらは国民の間に同質性と均質性をもたらそうとする点で何も変わらない。
    「小山栄三や米山桂三が行った戦時宣伝研究は、戦後民主主義の世論調査研究として開花した。それは単なる歴史の皮肉ではない。総力戦は民衆の支持と自発的な参加を何よりも必要とするが、世論調査は一人一票の平等性の擬制であり、戦時宣伝も世論調査も国民全体の同質性・均質性を理想にしている。つまり、戦時宣伝と世論調査はともに「戦争国家=福祉国家」の学知なのである。」(p.99)

    それから、8月15日を終戦記念日と設定される流れが、戦争犯罪への責任追及に関する輿論ではなく、むしろそうした忌まわしい記憶を忘却して単なるお盆という伝統行事の中に包み隠す忘却の世論に基づいていることを論じている(p.124-126)。

    他には1960年安保闘争において、6月15日にデモの中で死去した樺美智子の父親である社会学者、樺俊雄の見解を巡ったものがある。娘の死の前には輿論を訴えた樺俊雄は、死後には世論に急に傾いていく姿を見せる。さらに東京オリンピックの熱狂、全共闘運動、田中角栄内閣の人気、昭和天皇の崩御を巡る自粛の嵐、小泉純一郎内閣での郵政選挙などに輿論と世論の展開を見ている。ほぼ、世論ばかりが見られ、その陰にわずかに輿論が見られるという印象を受ける。

    かくして著者によれば我々は戦後に失われた「輿論」を取り戻す段階に至っていない。「輿論への復員は未だに終わっていないのである」(p.73)。輿論は民主主義が拠って立つところである。世論のみに動かされることはポピュリズムの極地となり、世論の暴走を止めることはできない。世論を批判し輿論を形成することこそ、新聞を始めとするメディアの役割なのだ(p.269)。たとえ一人であっても、世間の空気・世論に抗して、公的な意見を叫ぶ勇気が必要である(p.314)。そのためには何よりもまず、輿論と世論を区別して意識的に使い分けていくことが第一歩となるだろう。
    「また、「読み方はヨロンでもセロンでも正解」と教え、「(読み方はどうでもよい)世論尊重こそが民主主義」と説いてきた戦後教育こそ改革すべき対象である。世論が「ヨロン」である限り、世論の暴走、あるいはブレーキを欠いた民主主義--ポピュリズムと呼びかえてもよい--を正しく批判する枠組を私たちはもてないのである。この点に限れば、「輿論」のための教育改革は必要である。」(p.270)
    「民主主義とポピュリズムの境界に目を凝らすためには、「輿論=公論」と「世論=私情」を意識的に使い分け、「輿論の世論化」に抗することがまず必要なのではあるまいか。/もちろん、公論と私情は現実には入り混じっており、きれいに腑分けすることは不能である。にもかかわらずというより、だからこそ、いま目の前にあるものを輿論と書くべきか、あるいは世論と書くべきかをたえず自らに問いかける思考の枠組が不可欠なのである。」(p.315)

    さて、著者も書くように輿論と世論の概念区分は完全に分けられるものではない。輿論(理性的討議による公論)と世論(雰囲気として漂う私情)(p.132)ははたして区別できるのだろうか。戦後の様々な場面を通じて論じられているのは基本的に世論であって、読み進めていくと輿論とは一体何なのかよく分からなくなってくる。輿論も基本的にはそれなりの感情に基づいていて(嫌いなものを客観的・理性的に論じられる人は少ない)、ある意見に反対する人はそれは公論でなく私情だと批判するだろう。好き嫌いが世論であるのは分かりやすいとしても、著者は尊敬する・しないを輿論に割り振っており(p.236)、混乱する。また輿論/世論の概念対が、都市的欧米文化/農村的国粋文化、エリート的密教/大衆的顕教、男性的総合雑誌/女性的家庭雑誌、岩波書店/講談社という概念対と一緒に置かれており(p.221)、これはかなり危険なミスリードのように見える。もしかしてこれはメディア学的手法の限界なのかもしれない。メディア学的手法は事実がどうであるかよりも、それがどう伝えられているかを扱うのだから。著者は輿論と世論がどんな形式で扱われてきたかをずっと追っているが、この対概念そのものの概念分析はこの手法ではなされないかもしれない。世論ではどう伝えられているかが重要であるが、輿論では何が伝えられているかが重要であり(p.216)、メディア学的手法で浮かび上がるのは世論の方だ。

    輿論と世論の概念対が重要であることは納得するが、輿論とは何かがいまひとつよく分からない。輿論はどこにあるのだろうか。最近極めて低レベルなものが増えた新聞の社説がそうであるには到底思えない。輿論の世論化は著者も書くように(p.36-39)、実は世界的な傾向である。それは当然だ。政治が一部の特権階級のものではなく民衆に普及していくとき、輿論は世論化する。いちいち理性的・客観的な立論をすることは面倒くさいし時間もかかる。カーネマンの概念で言えば、システム2は高コストなのである。システム1で応答したほうが早いし安上がりだ。一部の暇な特権階級が担っていた時代では輿論を作ることができただろう。だが、万人にそれを求めることはできない。

    戦後の日本が世論に抗して輿論を構成することができた例を探すとしたら、脳死臓器移植問題がそれに当たるかもしれない。あの事例こそ、比較的冷静な議論が広範に行われ、死生観という極めて私的感情に関わる問題でありながら、一応の国民的理解を得ることができた事例に思われる。輿論の分析は、著者が見たような輿論が世論に押しつぶされる過程ではなくて、ここに(わずかな希望を含めて)見ることができるかもしれない。

    • nekosaburoさん
       大変参考になりました。レビューを読ませていただき、この本に俄然興味がわいてきました。ありがとうございました。
       大変参考になりました。レビューを読ませていただき、この本に俄然興味がわいてきました。ありがとうございました。
      2016/09/04
  •  政軍関係と言われる領域を少し深耕りする為に読む。ナチスの抬頭にせよ、日中戦争にせよ、軍部が企図したものであっても、それを世に知らしめ、”世論”の形成を輔けたのは当時の新聞・ラジオなどのマスメディアである。

     しかし、日本においては明治以来("1946年"まで)のそれは”輿論(public opinion)”という共通認識のものに彼我(発信元と報道する側)は了解しており、かつそれは”世論(popular sentiment)”とは別のものとして認知されていた、と本書は解題する。

     手元にあるウォルター・リップマンの「世論 上・下(岩波文庫版・掛川訳)」は、かつて(改訳前まで)は「輿論」として訳されていた。

     それは"1946年"の「当用漢字表」による漢字の制限によって「輿」が当用漢字から外れ、「輿論」が「世論」と”混用”されたことに、今の日本における”世論の定義”の混乱が始まったと本書は説き、その影響を「東京オリンピック」、「全共闘運動」、「戦後政治」等の実例を交えて丁寧に解題していく、非常に興味深く、かつ普遍性を帯びた一冊である。

     悲しいかな、この”混用”による影響は大きく、様々な場面において"opinion(多数意見)"と"sentiment(全体の気分)"の相違を峻別することなく意思決定を行ったことによる弊害の反省を、我々は戦後数多く繰り返してきた。個人的には民主党への政権交代(2009.7)と、その崩壊(2012.12)が、その最も大きなイヴェントであったように思う。

     今の”自民党一強”の要因の一つには、(民進党のだらしなさもあるが)こういう”輿論”と”世論”の”都合の良い混用”による”曖昧な意思決定”にも一因があるように思える。

     それは、政権の安定にも寄与するが、(政権が)流動化した際には、その安定化を阻害する要因にしか働かないことに留意すべきだと個人的には思うところである。

  • p.295 紋切型の危機予言は、誰でも容易に口にできる。社会が悪くなると予想する者は、つねに倫理的に「正しい」立場に立っており、悪いことが起こらなかった場合でも、自分の警告が流れを変えたのだと強弁できる。つまり、危機予言は外れても歓迎こそすれ責任を問われない絶対安全な予言である。

  • 1323円購入2011-06-28

  • 友人のおすすめで読了しましたが、「普段あまり意識しないで使っている言葉や概念を問いなおす」というコメントはまさにそのとおりで、興味深く読むことができました。

    よろん、せろん、世論。
    あれ、全部同じ意味なんじゃないっけ?せろんなんて読み方あったっけ?と、あやふやな気持ちになってしまいましたが、本著を読み進めるとなるほどそんな経緯があったのか、と思うほどなんとも面倒な(しょーもない?)事情があったのです。
    ちゃんとした定義は以下の通りなのですが、漢字の「輿」の字が常用漢字から外れてしまって、「世」で代用されることになったのだとか。。ただ、輿論と世論では全然意味が違うもの。
     輿論(よろん):公的意見、public opinion
     世論(せろん):大衆感情、雰囲気、popular sentiments
    今までテレビで良く聞き流していた「『よろん』の声にしっかりと耳を傾けて…」なんてフレーズも、これからは「ん、それってどっちのこと?」となることうけあいです。

    本著では、日本で民意がどのように形成されてきたのか
    が扱われていて、メディアによる「誘導」の歴史なども触れられています。
    最終章では、労力をかけてでも、自らの責任で「輿論」を考え抜いて作り上げ、発信していくことの重要性が述べられています。
    インターネットの普及で誰でも発信できるようになった時代だからこそ、「肉うまい」系のツイートも大好きではあるのですが、テーマに真摯に向き合って述べる「輿論」を考え、時には発信していくクセをつけていきたいなぁと感じた次第です。

  • 【版元の情報】
    「世論」はいま、ヨロンともセロンとも読むが、戦前は「輿論=公的意見」「世論=大衆感情」と区別していた。日本戦後史は“輿論の世論化”に他ならない。終戦記念日、安保、東京オリンピック、全共闘、角栄と日中関係、天皇制、小泉劇場など、エポックとなる出来事の報道や世論調査を精査し、権力者とメディアの大衆操作を喝破する。
    http://www.shinchosha.co.jp/book/603617/



    【目次】
    目次 [003-009]
    凡例 [010]

    第一章 輿論は世論にあらず 013
    日本的「世論」への不信 013
    万機公論に決すべし 023
    世論に惑わず 030
    市民的公共性とファシスト的公共性 035

    第二章 戦後世論の一九四〇年体制 040
    「あいまいな言葉」の深層 040
    プロパガンダの代用語「マス・コミュニケーション」 043
    輿論指導の戦時科学 050
    「戦争民主主義」の科学 060

    第三章 輿論指導消えて、世論調査栄える 074
    情報局とGHQ民間情報教育局 074
    当用漢字表による「文化の民主化」? 082
    輿論調査協議会から国立世論調査所へ 090
    公共的意識管理システムの成立 096

    第四章 終戦記念日をめぐる世論調査 100
    八月十五日の世論と九月二日の輿論 100
    国民の世論と国会の輿論 109
    「祝祭日に関する世論調査」 112
    「平和の日」消滅と「終戦記念日」成立 124

    第五章 憲法世論調査とポリズム批判 127
    空気(せろん)の変化と議論(よろん)の停滞 127
    一九五〇年代の再軍備世論 134
    マルクス主義者のポリズム批判 139
    世論調査の自己成就 147

    第六章 「声なき声」の街頭公共性 152
    近代日本史上最大の大衆運動? 152
    五・一九運動と「声なき声」 157
    父の輿論と娘の世論 166
    安保闘争のパラドクス 174

    第七章 東京オリンピック――世論の第二次聖戦 178
    聖火と聖戦と 178
    新聞輿論と低い参加意識 185
    テレビンピックの視聴率 189
    高度化への国民的ドラマ 195

    第八章 全共闘的世論のゆくえ 199
    大学全入時代の落とし穴 199
    インテリの輿論と全共闘の世論 202
    「東大紛争」をめぐる輿論と世論 208
    安田砦決戦前の緊急世論調査 217

    第九章 戦後政治のホンネとタテマエ 229
    田中角栄人気の構造 229
    メディア権力としての田中派 235
    戦略性を欠いた日中外交 239
    「日本社会の影(シャドー)」としての田中=中国 245

    第十章 テレビ世論のテンポとリズム 249
    教育問題という議題設定 249
    中曽根支持率の特異性 254
    「神の声」を伝える巫女 260
    世論を製造する私的諮問機関 266

    第十一章 世論天皇制と「私の心」 271
    過ぎ去らぬ記憶 271
    シンボル天皇制の世論調査 278
    自粛現象とXデイ報道 284
    「沈黙の螺旋」と歴史認識 290

    第十二章 空気の読み書き能力 294
    小泉劇場の歴史的教訓 294
    「よろん」に関する世論調査 301
    メディア操作という神話 308
    一人からはじまる輿論 314

    あとがき――よみがえれ、輿論!(二〇〇八年初夏 佐藤卓己) [317-322]
    註 [323-350]

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784106036170

  • 輿論とは、Public Opinion であり、世論とは、Popular Opinionである。

    著者の提言、「民主主義とポピュリズムの境界に目を凝らすためには、輿論=公論と、世論=私情を意識的に使い分けよ」。また、「1. ある発言を前に、それが輿論か世論かを見分けるリテラシーを磨く。 2. 世論に流されず、自分も担おうと思える輿論を起こすリテラシーを磨く(公共的意見を担う覚悟をもち、発信する)」に共感。

  • 敗戦以降今日までを安保闘争やオリンピック、日中国交回復といった折々の世論調査と識者のコメントで振り返り、国民感情や空気としての世論と、責任ある公論である輿論のあり方を探る。
    それにしても最期まで著者の言う「輿論」のイメージがつかめないままであった。輿論が空気のような多数派の感情を理性により善導するものであるならば、世論調査の数字と、実際になされた議論や決定とが食い違っている状況は特に批判されるべきではないという気がするが、本書の論旨は必ずしもそうではない。(たとえば終戦記念日を8月15日としたことは国民世論と一致しておらず、お盆と重ねただけのご都合主義だと批判している)
    結局「世論」と「輿論」が違うものだということ、あるいは現代史として定着している「史実」と当時の「世論」との間に意外な相違が見られるということ以外に著者が何を言いたかったのか、よくわからないままであった。

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著者プロフィール

佐藤卓己(さとう・たくみ):1960年生まれ。京都大学大学院教育学研究科教授。

「2023年 『ナショナリズムとセクシュアリティ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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