- Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106037108
作品紹介・あらすじ
第三次近衛内閣から東条内閣まで、大日本帝国の対外軍事方針である「国策」をめぐり、陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省の首脳らは戦争と外交という二つの選択肢の間を揺れ動いた。それぞれに都合よい案を条文に併記しつつ決定を先送りして、結果的に対米英蘭戦を採択した意思決定過程をたどり、日本型政治システムの致命的欠陥を鋭く指摘する。
感想・レビュー・書評
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共同謀議なんて,なかったんだな…。コンセンサス偏重で決められた「国策」には,多様な選択肢が盛り込まれすぎていて,重要な決定は先送りする矛盾に満ちたものだった。
外務省・大蔵省などの政府と陸海軍,軍部の中でも軍政部門と統帥部とで,国家の政策に関する考え方はかなり異なっていた。それを調整するために大本営政府連絡会議(懇談会)が開かれ,国家の方針「国策」が話し合われてきた。第二次近衛内閣以降,開戦までの一年半で出された「国策」は十にのぼる。
明治憲法下の国家意思決定システムは,強力な指導者を欠く寄合所帯からなるものであった。各メンバーがそれぞれ自分の組織に都合のいい政策根拠を求め,作り上げていった「国策」は,曖昧な玉虫色の内容にならざるを得なかった。本書は具体的に「国策」を検討することで,それを例証していく。
開戦の決定に至ったのは,組織間の対立の回避を重視するあまり,戦争を避ける重要な決定をすることができなかったため。元勲→元老が退場していった後に遺された,明治憲法の不備がその根本にあった。独裁とはまったく正反対の国家指導によって,日本は勝ち目のない戦争に突き進んでしまった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『経済学者たちの日米開戦-秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く-』、「なぜ必敗の戦争を始めたのか―陸軍エリート将校反省会議」参照。
以下、引用。
それでは臥薪嘗胆、外交交渉、戦争という三つの選択肢から、なぜ臥薪嘗胆が排除されたのだろうか。それは臥薪嘗胆が、日本が将来に蒙るであろうマイナス要素を確定してしまったからであった。これに比較して、外交交渉と戦争は、その結果において曖昧だった。つまり、アメリカが乗ってくるかどうかわからない外交交渉と、開戦3年めからの見通しがつかない戦争は、どうなるかわからないにもかかわらず選ばれたのではなく、ともにどうなるかわからないからこそ、指導者たちが合意することができたのである。
ここで、改めて日本が検討した選択肢と想定された結果を整理してみよう。審議の過程で排除された英米不可分論(対英蘭戦)も含めて表3にまとめてみた(P159)。採択されなかった英米可分論と臥薪嘗胆が1と2、実際に採択された外交交渉と対英米蘭戦が3と4である。このように並べてみると、採択された選択肢が最良の結果を期待していたことが、一目瞭然である。
採択されなかった選択肢は最悪の結果を恐れて排除されていた。英米可分論は、危険な要素(英蘭の植民地を攻略したとしても、石油などの輸送ルートの横腹をアメリカに晒すことになる。アメリカが突然参戦に踏み切ったら、守る術はない)という最悪の結果が早々に選択され、日本の取りえるオプションとして排除された。もうひとつの臥薪嘗胆論は最後まで残ったが、やはり、日本の身動きがとれなくなった段階でアメリカ艦隊に来攻されるという最悪のケースへの懸念を排除できずに却下された。
一方、再検討の結果として採択された外交交渉、そしてこれが不成立の場合は戦争というに段構えの方針は、共に希望的観測を根拠としていた。その点で、最悪の想定を理由に排除された英米可分論や臥薪嘗胆とは、対蹠的である。つまあり、日本は最悪のケースに追い込まれることにおびえ、もっと最悪の事態を自ら引き寄せたことになる。もし、外交と戦争がその後の現実となった最悪のケース(外交で失敗し戦争に訴えて惨敗)を想定し、臥薪嘗胆が最良のケースを想定していたら、結論は逆になったに違いない。 -
交渉をまとめるための
ペーパー(書面)の上での戦争。
国内で意見をまとめることだけでも難事。
個人的な意訳。
海軍は、「陸軍が中国から撤兵すればいいじゃん」として
対米交渉を進め
陸軍は、「いざとなったら対米戦争を海軍にやってもらえばいいじゃん」と。
お互いに、「自分の利害のみ」で判断をしていた。
海軍は対米戦争に自信が無かったが
それは言いだせなかった。
なぜなら、「対米戦争準備」を根拠に
予算を確保してきたのであって
それを認めてしまえば、存在意義を失うからだ。 -
[暗黙の尻込み]1941年12月8日を迎えるまでに幾度となく決定がなされ、大仰な名称を冠せられながらも幾度となく覆された戦争に関する数々の「国策」。その策定プロセスを眺めながら、当時の日本の中枢が「非(避)決定」の状態に陥っていた様子を紐解いていく作品です。著者は、日米戦、特に情報・インテリジェンス部門の研究を専門とされている森山優。
セクショナリズム極まりない状況にもかかわらず、ボトムアップ型で国運を賭す決定を作り上げようとしていく過程に空恐ろしいものを感じるはず。また、複雑な政策決定のためのプロセスをくぐり抜けていくうちに、当初想定すらされなかった「国策」ができあがってしまう点にも、当時の政府の決定に方式に本質的な過ちがあったのではないかと思いました。曖昧な希望を加味してしまう様子など、公的機関のみならずビジネスの現場でもよく見られる光景かと思いますので、本書は単なる歴史解説にとどまらない実用性もあるかと。
また、明治憲法下における制度的な政策決定のための仕組みがわかりやすく解説されている点も本書の良い点の1つ。特に当初、その仕組みが法的な制度の枠外にある「常識」で補完されていたという指摘には、当時の政治の動きを顧みる上で忘れてはならないことのように感じます。少し学術的で取っつきにくいところはあるかもしれませんが、あの戦争を知らない世代だからこそ書けるあの戦争に関する研究としてオススメできる作品です。
〜政府の方針を文書で決定して、それに拘束力を持たせようという発想そのものが、明治憲法体制における政治的統合力衰退の象徴的表現なのである。そもそも元勲や元老に権威があれば、このような文書は必要とされない。統合力がない故に文章による政策決定が幾度も試みられ、まさに同じような理由で明確な方針を確定することができなかったのである。〜
書かれた言葉のおそろしさを痛感させられました☆5つ -
本書は、日米戦争における日本の開戦過程を詳細に検証したものだが、本書のような緻密かつ大胆な検証は読んだことがないと、興奮する思いを持った。
現在では「侵略戦争として断罪」されている昭和の戦争について、なぜ当時の日本はあのような無謀な戦争に踏み切ったのかと常々思っていたが、本書の「日本の政策決定システム」「昭和16年9月の選択」を読むと、当時のリーダーが単に無能だったのではなく、明治憲法にもともとあった政治システムの欠陥によるものであったことがよくわかる。
本書で読んだ「効果的な戦争回避策を決定することができなかったため、最もましな選択肢を選んだところそれが日米戦争だった」ことには、ため息が出る思いがした。
当時の日本が、政治のリーダーシップがないままに、流されるままに「日米開戦」という国家の重大な岐路に至ったとは驚きである。
また、本書では「陸海軍」首脳の動きも詳細に追いかけている。日本は一気に日米開戦になだれ込んだわけではなく「結局、組織的利害を国家的利害に優先させ、国家的な立場から利害得失を計算することができない体制が、対米戦という危険な選択肢を浮上させた」という。
これが「官僚組織の割拠性」というものなのか。陸軍は「中国からの撤兵」を断固拒否しているが、著者は「アメリカと戦って敗れれば、中国大陸の利権を失うというレベルでは済まない・・・最大の問題は、日米戦と中国からの撤兵を天秤にかけて判断する政治的主体が日本のどこにもなかったことである」と語っている。これは日本の政治システムが内包する欠陥だったのだろうか。
しかし、この「日本が開戦に向かう政治過程」を読むと、現在の日本と重なるところも多い。
「省益あって国益なし」「政治のリーダーシップの欠如」「官僚の力の増大」「決定ではなく非決定の構造」等々。みな現在の政治風景と重なる。ということはこの日本の政治システムの欠陥はいまだに是正されていないということなのだろうか。
本書を読んで、日本は戦後60年以上たってもあまり変わっていないのではないのかとも考えてしまった。
本書は、歴史の検証の面白さと凄さを知ることができる良書であると高く評価したい。 -
今まで読んだ開戦モノの本の中でも非常に分かり易い。内閣と統帥部。軍令と軍政。開戦と外交について、とかく二元論で語られがちな開戦へのプロセスにおいて、体裁を繕うことを重視したために明るそうなシナリオとしての開戦が残ってしまい、かつそれがアメリカの思うツボだった、と理解すべきなのだろう。
最も希望を持てそうな選択肢が南方資源確保のための開戦であり、しかしながらそれは希望的観測に根拠を置く粉飾に満ちた数字合わせの所産であった…P.157のこの言葉は重い。
プリンシプル(原則)が無いと言われても仕方なかろう。また、外交か戦争かという対立軸ではなく本来なら臥薪嘗胆と戦争・外交のセットの間により本質的な対立があったという一文も重要である。 -
タイトルどおり、「日米開戦」にいたる41年9月以降の政策決定プロセスを丹念にミクロにおっかけて説明した本。
「日本はどうしてアメリカを相手に負けるに決まっている戦争を始めたのだろうか?」という長年の疑問が解けたような気がする。
結局のところ、だれもが自分の部門の利益とか、メンツとか、責任を追いたくないとか、そういうレベルでしか考えていなくて、国全体の利益という観点で考える人がいない。
そして戦争を通じて得たいものが明確にあるわけではない。というか、これまで得た権益を失いたくないというだけ。「自衛」も立派な動機かもしれないが、どっちかというとこういう事態になったことの責任を負いたくないだけ、に見えてしまう。
残念ながら、そんなプロセスで、多分、だれも勝てると思っていない戦争がきまってしまう。勝てないけど、座して死を待つよりはいいだろうと。。。。。でも、座していたら、ほんとに死ぬのかどうかもわからないわけで。。。
こうしたことが、わかったからと言って、すっきりするわけでもなく、なんか脱力してしまった。
そして、こういうのって、今も違うテーマでやっているな〜。
政府だけでなくて、会社とかでも。 -
やや難しい専門的な部分もあるが、基本的にあ分かりやすくコンパクトにまとまっている。東郷や昭和天皇の関わりなど勉強になったし、あいまいにせずるをえなかった国策など、考えさせられた。
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しごく簡単に言えば,対米戦への意思決定に参加した政府+軍部の責任ある立場の者で日米戦争を本気で誘導したものは少なかったのにも関わらず,それぞれが属している組織を守り,他の組織のでしゃばりを押さえつつも最低限の顔をたて意思決定をおこなった結果,常に両論併記になり,米国(及び英国等関係国)の出方+ヨーロッパ戦線の経緯で決めようという非決定が横行したということである.そのような国としてのどちらつかずの態度は,国際的に(特に米国側からみて)信頼のおけないものとみなされ,疑念を深く持たれる結果となり,最終的に日米戦争を誘起したということになるのか.
しかし,その間の世論はどちらかといえば対米戦争に好意的であったことを忘れてはならない.
だた同著者のものだと「日米開戦と情報戦」 (講談社現代新書)のほうが深みがあるような気がしますので,こちらもオススメです. -
>「どの選択肢が自分の組織を守れるか」そう考えて話し合っていると、戦争が選択肢になっていた
というレビューが絶妙。
リーダーも国民も決定できない、リーダーが責任取ることも許さず、国を動かすエリートたちによる保身圧力が現代の日本と重なる -
当時の日本の選択を政策決定の状況に焦点を当てて考察している本。
なぜ戦争突入したのかと考察する本はいろいろあるけれど、この本は白眉だと思う。
当時を考える際、考慮するものがたくさんありすべてを見て考えるのはあまり現実的でないので、「誰」によって、「どのような政治過程」を経てああなったのかに焦点を当ててみることでとても明瞭な話になっていてとても分かりやすい。
この手の話は陸軍が諸悪の根源とされがちで、この本でもそれは変わらないのだけれど、天皇の責任、海軍の責任も重要だとしてるところが興味深かった。
とくに海軍が戦争を容認しなければ絶対にアメリカと戦争をすることなどなかったとする話はそれほど重視する人が居ない気がするが、とても重要な指摘だと思う。
なぜそういう話になったのかと言うのが副題にも書かれている「両論併記」と「非決定」だという話は、現代においても同じような話にあふれているように思う。
政治にかかわっていた人間が無能だとか悪意を持っていたという話ではなく、みなが自組織の利益のためにと合理的に行動した結果が、だれも得をしない破滅への道だった――しかもその決定がもっとも自分達の利益にかなうと信じていた――となると笑うに笑えない。
現代でも総論賛成各論反対と言った話は無くなってないし、反対勢力を納得さえるためとはいえ論理が一貫してない話を用いたり、超絶と頭につけたくなるくらいに楽観的な見通しを基に計画を立てて話を進める。それでいて決定をひたすらに先送りにする。そんな組織にまともな決定ができるわけもなく。
示唆に富む話が多く、当時の政治における大変さや緊張感がとてもよく伝わる本でした。
特に御前会議を開催して天皇の前で審議、採決された「国策」が何度も何度も、時には依然とは相反する話が間を置かずに新たな「国策」として採用されてた話などは、義務教育できちんと教えておく必要がある気がする。 -
本書は、1941年、まさに開戦の年の陸海軍、外務省三つ巴のすさまじい「文書と権限の戦い」を、公式記録を徹底的に検討して再現した一冊。
著者は序盤で、一般に言い習わされている「軍部の台頭」という表現にまず着眼する。「軍部」という抽象的な悪玉を具体的に見ていけば、陸軍省、海軍省という巨大な官僚組織の一部門、一部署に行きつく。そこでの意思決定はステレオタイプな「独裁」では決してない。むしろ、今の我々にとってなじみ深い「関係各部との摺りあわせ」の連続なのだ。対米戦争は厳しい、と陸軍も含めすべての関係者が認識しながら合意はなされない。
明治憲法の下では、内閣総理大臣は内閣の「全会一致」なしには何も決めることができなかった。誰か一人が抵抗すれば非決定に進むしかないのだ。
このような制度上の欠陥は、それまでは維新の元勲たちが密室で議論することで補われてきた。が、ある意味制度が成熟したからこそ、この戦争は初めて形式的な仕組のみにゆだねられてしまった、との趣旨の著者の指摘には考えさせられた。 -
歴史
戦争 -
[評価]
★★★★☆ 星4つ
[感想]
この本を読み平常時と非常時では求められる政治体制は異なっていることに気がついた。とはいっても全くダメというわけではなく、ある程度までは問題なく運営できるのだろうけど、一つの決断が生死を分けるような決断には向いていなかったということなのだろう。
日米交渉や陸海軍の対立などはある程度は把握していたが、本書では多くの史料や議事録を丁寧に取り上げ、解析することで開戦にいたる流れが解説されている。
それにしてもこの本を読むまで外務省や陸軍、海軍といった組織内においても様々な意見が存在し、多くの対立が発生していたということが分かる。それらを抑えつつ方針を決定するために多くの人に配慮を行った決定を行う必要があり、それは戦前の日本の政府の構造に原因があったということがよく分かる内容になっていた。
この辺りは元老が存在していれば、国内勢力を抑えた結論が出せたのだろうか。 -
いくらでも戦争を回避する機会と手段はあったはずなのだが、それがことごとく失われていく過程は、読んでいてかなり空しいものがある。
陸軍参謀本部の好戦的雰囲気にも嫌気が差すが、終始煮え切らない態度を取り続けた海軍にも腹立たしさを感じる。
詰まるところは、明治憲法下での国の政策決定のあり方が決定的であったということか。
膨大な資料にあたって、精密に論を進めようとしたことはわかるが、もう少し焦点を絞って、筆者の考える「なぜ開戦に踏み切ったか」ということを論じた方がよかったのではないか。いささか論述に煩雑な感を禁じ得なかった。 -
冷静な現実感覚を持つためにおすすめの二冊。
歴史家が一般向けに書いた日米開戦の政策過程分析本である。開戦は日本全体としては不合理な決定であっても、陸軍と海軍の妥協としては合理的な決定だったという論調。現実はこうやって決まるのだ。消費税増税も日本全体から考えて不合理でも実行される可能性がある。日米開戦のように。
何十万、何百万の死傷者がでようが自分たちの組織的利害が一番大切。これが政策担当者の本音。景気がどうなろうが財務省は知ったこっちゃない。覚悟しておいた方がいい。
一般に、合理性は日本全体を考えてと思われがちだが、合理性の追求は個人、局、省などの利害に基づいて行われる。覚悟を決めて冷静に準備しておく必要がある。 -
近現代史を専門にしている先生の著書だけあって、論考は精細かつマニアック。日米戦争直前、当時の政策担当者が、いかに決定を避け、責任から逃れ、希望的観測にすがっていたかが詳しく述べられている。太平洋戦争を、日本人論、日本的組織論から解釈した本は多いが、本書はより具体的。
今の日本の状況(特に大企業など)を見ていると、当時の人を指さして笑えないよなぁと思う。当時の状況は今でも十分教訓になる。今の人は戦争というと耳をふさいで思考停止する場合が大半だが、少しは知っておいて損はないと思うのだけど。 -
基本的な内容は「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」シリーズ(NHK出版)と同じであり、サブタイトルどおり、政策決定層の「両論併記」と「非決定」から戦争にずるずる入っていったとしている。
陸軍中堅層が上を突き上げ(そしてかつて中堅層だった武藤章は軍務局長時代は不拡大と対米交渉推進に努力し下から突き上げられた)、北進論と南進論併記の「帝国国策要綱」に続き「帝国国策遂行方針」では外交努力継続と戦争の曖昧な両論併記。陸軍が中国からの撤兵を飲まず対米交渉が困難になると、「日米戦と中国からの撤兵を天秤にかけて判断する政治的主体が、日本のどこにもなかった」ため、近衛内閣もその「主体」になるよりも総辞職してしまった。そして海軍も東郷内閣も、長期的にどうなるかに思いが至らず、これ以上日本が不利にならないうちの開戦と短期決戦の誘惑に傾いていく。そして、ハル・ノートにより開戦反対派の異論はほぼ粉砕されてしまった。 -
日米開戦という亡国となる重大な決定が、政治家、陸海軍、外務省をはじめとする官僚(陸海軍を指導した軍人たちも官僚といえるだろう)の組織利害を第一とする姿勢によって決められたことを描いたノンフィクション。玉虫色的な両論併記と非(避)決定という要素が現在の日本の組織にも通じる宿痾であることには、皮肉な笑いが漏れる。敗戦の前後を通じて、日本の組織は変わっていないことを証明する一冊ともいえるだろう。