- Amazon.co.jp ・本 (202ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106037160
作品紹介・あらすじ
今まで何を聞き書きしてきたのか-。厳しい自己認識から再出発した著者は、土地の記憶を掘り返し、近代の残像を探りつつ、剥き出しの海辺に「将来の日本」を見出していく。津波から逃れた縄文貝塚、名勝松島の変貌、大久保利通が描いた夢、塩田から原発、そして再び潟に戻ったムラの風景…。災厄から学ぶべき思想とは何か。問いと発見に満ちた一冊。
感想・レビュー・書評
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かなりのページをさいて野蒜(東松島市)の話アリ。そして意外にも「潟環境を再生するプロセスがあっても良いのではないか」というのが締めくくり。主にiPadを持ち歩いて書かれた文書だそうです。
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784106037160 -
震災を受けた東北の人びとの心の在り様や復興の目指すべき方向性について、震災の数か月後から1年数か月後までの期間に新聞への連載記事などの形で書かれた文章をまとめて整理したもの。
東北を歩き身の丈の視線で見つめるフィールドワーカーとして感じたことと、民俗学者としてその背景にある文化や歴史にも思いを馳せながら人びとの心や生活の姿を思い描く言葉が、短い文章の中に交錯している。
東北地方は気候風土の厳しさや地震・津波をはじめとする災害を乗り越えて人々が暮らしてきた地域であり、回復力の強い地域ということもできる。
一方で、そのような環境で暮らしてきた人びとの今後の復興の在り方を考えるときに、外から一概に捉えるような視点で一筋縄にはいかないものも感じる。
復興支援というのはどうしても外部からのものにならざるを得ないものであると思うが、現地で生活している人々にとっては当たり前であったり無意識に受け入れられているようなその土地その土地での生活様式や考え方に敏感でなければ、適切な支援を行うことは出来ないのだろうと感じる。
筆者のような民俗学の立場からの地道な「東北学」の研究は、今後の息の長い復興の支援にとって非常に有意義なものになるのではないかと感じた。
口述したものを文章に起こして整理したものも多いせいか、最初から文章として書かれたものよりも、筆者が感じた気持ちのひだが伝わってくる文章に感じられた。 -
干拓地が潟、浦に戻って行った、と繰り返し語られる。
テレビ映像でみた水が引かない津波の跡の風景を思い出し、元は浦だった場所なのなら、なるほど…。
元からその地を知っているからこそ津波がずっとおそろしかったという野蒜の奥さんの話が印象に残る。 -
やっぱり赤坂憲雄と相場英雄を組み合わせさせてみたい。と、つい考えてしまう。東北の「外」から東北と関わる、その場所からなにがしかの言葉を発信する行為。あ、宇都宮裕三さんもだ。
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前半の「新章東北学」が素晴らしい。著者はご自分のことを中途半端なフィールドワーカーと言うが、それは専門職だからこそ言いうる。その謙遜、ある意味での沈黙こそが本書を豊穣なものにしている。
後半は、民俗学がベース。前半との重複も散見される。
・そこで見たこと、感じたこと、考えたことを起点にして、これからの表現がはじまるはず。
・時給300円の仕事場。もの作りの拠点の現実。
・原発から自然エネルギーへの転換は、東京一極集中の中央集権的なシステムを地域が主役となる地域分権型のシステムへ変えることにつながっている。
・「までい」。汚染の中にというのではなくて、この困難な状況のなかに踏みとどまって、覚悟を決めて、すべてを引き受けようとしている。
・分断のラインは幻想的。グラデーションの中に無理やり裂け目をいれて、あちらとこちらを分断する。
・犠牲者の2/3が60才以上の高齢者だった。
・世代間の対立。個と家、ムラ。
・「どんな発現にも敬意を持って耳を傾けよう」
・一本の線で自然と人間を分けられるという建築や土木の手法は間違いだった。
・所有と入会。新しい公共のモデル。
・「大丈夫だ、きっと立ち直るから」 -
非常に読みやすい文体で書かれていて、さらっと読めます。
時々胸につまるような体験者の記録が書かれている。
時が流れるにつれて、薄れていく被災地の記憶は、風化ではなく浄化で
あるべきだという一文に気を惹かれた。
浄化の意味で忘れていくことは、決して罪ではない。
被災地に限らず、誰かを喪った体験を持つすべての人に、
訴えるものがある本だと思いました。