- Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106100611
感想・レビュー・書評
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・日々変化する自分とは反対に、変わらないのが「情報」です。
・エリート、人の上に立つ立場の人というのは、本来こういう覚悟がなくてはいけない。常に民衆を犠牲にしうる立場にいるのだ、という覚悟です。
・死は不幸だけれども、その死を不幸にしないことが大事なのです。
・ふだん、日常生活をおくっているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。
2021.4.21詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
死について色々な視点で書かれている。「死んだら共同体から追い出される」という考えは面白いと思った。冷淡で単純だけど的を得ているような、合理的とも言えるような言い回しがかえって納得させられる感じがした。死について考える事はとても大事だけど、自分の死を怖がって不安になっても仕方ねえよな!って話
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淡々と死について書かれていて勉強になった。
死を穢らわしいものと思い込んでいたが、生は死と隣り合わせなので、死について考えることは必要である。
一人称の死は考えない。二人称、三人称の死は大事にせねばならない。
死は回復不可能。だから簡単に死んではいけない。
脳死、安楽死は殺すことと同じ。明文化することは難しい。曖昧さも必要?
毎日が取り返しのつかない日。今日というのは明日にはなくなるから。
覚悟を持つエリートがいなくなった。乃木大将はエリート意識があった。
昔、産婆さんは間引きしていたことに恐ろしくなった。 -
解剖学者だった筆者が思う"死"について書かれた本。
自死は自分は死んでしまって関係ないが、周りに与える影響は大きい。
だから、"死"というものを軽く考えて自殺をしてはいけない。
医者である筆者が考える安楽死。医者も人間で人を殺めるということはしたくない。十字架を背負いたくない。
よく考えれば、わかりそうなことだけれど、気づかせてくれたような気がする。
コロナ禍で自死が増えている今、すごくおすすめの一冊です。 -
「バカの壁」の続きで養老孟司さんの著作。
本書は「死」を中心にした著者の考えが纏められています。
と書くととてもスッキリシンプルな感じがしますが、そうでもなく、様々な角度から「死」を見つめています。
「人を殺してはいけない理由」に対しての著者の意見の示し方が最近になって死の概念が希薄になってきた(私を含め)現代人にとっての最適解のように感じました。
さらに日本人の深層心理と言うのでしょうか、”メンバークラブ”からの脱退についてや入会審査など、とても想像しやすい比喩を使って説明されていて、日本人の根深い「死」に対する思想を、感覚と想像を以て理解できたような気がします。
余談ですが、医療の前提として「人を助ける」「人命を尊重」としていながらも、そこには「人は死なない」という潜在意識が働いており、そのことが「安楽死」とぶつかるのでジレンマであるというくだりは、昔読んだ手塚治虫氏の「ブラックジャック」に登場する主人公「間黒男」と「ドクター・キリコ」のやりとりを彷彿とさせるものがありました。
「自由連想」の結果、著者が過去のトラウマを発見し克服に至ったというのを知り、私も自由連想をやったら何か面白いことが分かるのかなぁ……と思ってしまいました。
内容は「死」についてのものでしたが、私の中から出てきた感想は思い切り「今の自分の生き方」に関するものでした。
著者の言うように、一人称の死体など存在しないということでしょうか。 -
解剖学者の養老先生は、死体漬けだったろう。
ゆえに、体が実体であると考える。
個性的な発想をしている人は少ない。本当に個性的な人とは話が通じないはずである。話が通じている時点で、さほど個性的ではない。では、個性はどこにあるかというと、体である。マツコデラックスの発言は個性的ではない。体が個性的なのだ。
しかし、現代人は体が実体だとは考えない。意識が実体であると考える。では、「寝ているときは無意識だから実体はないのか」と聞けば「実体はある」と答えるはずである。「どこにあるか」と聞けば「体だ」と答えるはずである。
しかし、脳=意識が実体であるという勘違いを矯正するのは難しい。意識は「同じ」ことを基本にするから、「自分は変わらない」という勘違いも起きる。
すなわち、老いない、死なないという勘違いが蔓延する。現代は、死を忘れた文明である。
死なないという思い込みが本書のタイトルである「死の壁」である。つまり、「死なないという思い込みの壁」である。
死体を解剖しながら、死体すなわち死についてたくさんのことを考えてきた養老先生である。「死」というテーマでこれだけのことを関連づけられる氏の洞察はさすがだ。 -
『バカの壁』から続いて。
生れたからには致死率は100%。どういふわけかさういふことになつてゐる。ところが、生きてゐる人間しか暮らしてゐない。死んだ人間など誰もゐない。死に直面できるのは、他でもない死体を目の前にした時だけなのだ。
しかし、この死体といふものも一概に死体とは言い切れない。九相図が示すやうに、死体といふものは長い時間をかけて別々に死んでゆく。
かうして、死といふものは、よくわからないものとして常に生きてゐるものの傍にあるはずなのだ。そもそも、死に対するあれこれ、「死」といふことばさへ、生きてゐる者の営みである以外の何ものでもない。ここに死の壁が存在する。
生きてゐるものたちがどうにかして、「これは死だ」と’みなす’ことがある意味人間社会の発展であるとも言へる。死の基準なんてものは、生きてゐる人間たちで’みなす’ものなのだから、時代や環境、文化が異なれば当然その基準も変はつていくものである。
総じて、死といふものは遠ざけられるやうにできてゐる。死といふものに神聖さや特別性を見いだしてゐたところから、恐怖や汚れの対象として隔離され、つひには死体はその形がわからないくらい隠されるやうになつてきた。まるで死体など存在しないかのやうだ。
だが、どんなに隠さうと、どんなに死体を残さないやうにしても、死そのものがなくなるわけではない。わからぬものなのだから、恐れやうのないものだ。しかし、確かにそこに在る。 -
「バカの壁」に続く書。2004年発行。
解剖学者ならではの視点で「死」を語っている。テーマが絞られていて、「バカの壁」より良かった。
生命は精巧・高度なシステムであり、壊してしまったら二度と元には戻せない。だからこそ生き物は尊い存在だというのが、著者流の人を殺してはいけない理由。
また、西欧近代化、都市化は、カラダに関することをどんどん遠ざけ、消していく傾向を持つ。人の死しかり、トイレ、服装しかり(古代ギリシャでは、オリンピックは全裸、ギムナジウムでも全裸だった。ただし女性は冷え性のため全裸ではなかったとのこと)。だから、現代人は死を身近なものとして実感できなくなってしまっている、という。
死生観については、あっさりと、自分の死(一人称の死)については考えるだけ無駄。敢えて言えば、毎晩経験しているような、眠るようなものだと思うしかないと言い切っている。むしろ考えるべきは、「二人称の死」「三人称の死」。すなわち、周囲の死をどう受け止めるか、ということだという。 -
哲学に興味を持った時、図書館で見つけた。
「バカの壁」より先に読んだ。
死を失う事だけだと思っていたが、
観点が3つぐらい増えた。