医療の限界 (新潮新書 218)

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  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106102189

感想・レビュー・書評

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  • 「医療崩壊」の新書版。医療問題の本というより思想書として興味深く読んだ。特にオルテガの引用のくだりは、医療現場のみならず、現代日本の病理を如実に示しているようで、慄然とした。

    大衆は、「文明の利点の中に、非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持しうる奇跡的な発明と構築を見て取らない」、故に「自分達の役割は、それを生得的な権利であるがごとく、断固として要求することにのみあると信じる」。

    安全も平和も決して当たり前のことではない。自分の知らない所で誰かが汗や血を流し、かろうじて現状が維持されているのだ。そういうことに人々が思いを馳せることができなくなった時、システムは崩壊への道を辿るのだろう。せめて崩壊を加速させないために、今の自分にできることは、学ぶことしかない。

  • 医師側からの視線を踏まえて、現代医療の問題点が包み隠さず書かれています。このままでは、医療従事者がいなくなるという結論に納得します。

    医療と司法の関係、アメリカの資本主義が介入した医療制度などが書かれていたところが、私的には☆5つの要素です。客観的意見をきちんと踏まえた上で、主観的意見を述べているところに僕は魅かれます。震災のとき皆で助け合うということが、当たり前になっている日本人に生まれて幸せだと思います。

    著者は賢い人だというのが、文面で伝わってきます。おススメです。

  • 「医療崩壊」の作者が新書に書いてあるもので、「医療崩壊」の本と内容が重なる部分が多い本。

    内容的には、死生観がなくなった現在、医療に対する過度な期待(医療には必ず不確実性やリスクがある)があること、司法が医学的な不確実的なものを法的に裁くことができるのか、医療現場での教育、評価、人事等で改善する点や、実際の現場での取り組み、日本の皆保険制度のメリット・デメリット等を経済思想やアメリカの保険制度等と比較しながら紹介されている。

    説明されれば当たり前なのですが、論理的に説明されないと、自分の住む世界の価値基準(司法や一般会社)等で判断していまうのが人間の性なのかもしれないと感じた。

  • 死生観の話がすごくしっくりきた。これから日本の医療はどうなっていくのか。

  • 医療にリスクはつきものなのである.
    名著.

  •  理想と現実,なかなか折り合いをつけるのはむづかしい。ただ理想を追い求めていけば幸せが得られるのかというとそうでもない。そうかといって,現状に甘んじて改善をおこたっていては,何の進歩も得られない。この本を読んでそのことを強く感じた。市民からの過酷な要求に晒され,日本の医療が疲弊し崩潰していくことへ警鐘を鳴らす。
     人生なにごとも,思い通りにはいかないもの。自分や家族の生死にかかわることだって当然そう。医療に百パーセントの成功はなく,患者・医者がどんなに努力しても,救うことができない命もある。医学は万能ではないのだ。昔から,さまざま手をつくした上での死という事実を,患者や家族は受けとめてきた。医師と患者の信頼関係に問題がなければ,今も多くの人がそうだろう。そうして現実を受けとめるのが人類誕生以来の死生観だった。
     もちろん理想を言えば,医学が長足の進歩を遂げた現代にあって,医療行為に誤りがあってはならない。患者は医療によって最大限の利益を享受すべきであり,医師は安全かつ効果的な治療を提供しなくてはならない。近年とみにそういう考え方を助長する風潮がある。「神の手」だの,「ヴァルハラ」だの,医師を描いた漫画やドラマ,ドキュメントはそういった理想に相当程度傾斜している。だが,これはあくまでも理想論で,完璧な医療など幻想にすぎない。先生はよくやってくれたけど,思い返すとあれは最善の治療でなかったかも,ということなんか現実にはざらにある。そのようなとき,果たして医療側の責任が問われるべきなのか。最善ではなかった以上,悔やまれる。どうしてもあきらめきれない。そこでは,伝統的な死生観が変容を受けている。
     医療事故の民事裁判では,弱者である被害者の救済にもつながるため,司法は過失責任を認める方向にバイアスを受けてしまう。マスコミでは特にそのバイアスが強くはたらく。患者側もその尻馬に乗り,訴訟を起こす。この循環が医療従事者を追いつめている。刑事告発→強制捜査の可能性すらある。
     新しい術式などは,動物実験を重ねて培った技術を思い切って人間に適用し,多数の症例を蓄積し分析することで確立してきた。その過程では当然失敗も多く,ほとんど人体実験の様相を呈する。以前,生体心移植(脳死移植)の黎明期を追った吉村昭の「神々の沈黙」を読み,当時の医師の驕り(もちろん使命感が先立つのだが),患者の扱いのひどさに衝撃を受けたが,それが医療技術に大きく寄与したのは事実だ。理想をふりかざし,医療事故のたびに医師が過失責任を問われる世の中では,萎縮効果によって医学の進歩は停滞してしまう。そのために将来不利益を被るのは患者であり,社会全体である。
     筆者は虎ノ門病院の医師。責任を回避するのか,プロ意識が足らん,こんな医者にかかってたまるか,と言う人もいるだろうが,現状を憂え,本音を隠さず堂々と発言する態度は賞賛に値する。患者のエゴ,法律論の空虚さ,マスコミの姿勢など,言いわけばかりでなく,医療側で改めるべき点や,筆者が実際に進めている取り組み,望ましい制度についても触れており,バランスよく好感がもてる。歴史的,思想的観点からの考察も試みており,とても興味深く読んだ。

  • 僕が普段「これって言われても(言っても)現場がやるのは無理だよなあ」と思っていることが、現場の医師の立場からしてもやっぱり無理で、そのために限界に来ているという。
    「そうだろうなあ」と思いつつ、同情しながら読んだ。

  •  日本人を律してきた考え方の土台が崩れています。死生観が失われました。生きる覚悟なくなり、不安が心を支配しています。不確実なことをそのまま受け入れる大人の余裕と諦観が失われました。

    慢性的な栄養不足があると、ちょっとした病気で人はすぐに死にます。バングラデシュには、医療援助より、経済援助がはるかに重要だということなのです。

    中世、ペストが大流行したヨーロッパでは、短期間に地域の三分の一もの人が死亡するような状況があった。不可避の死を常に意識し、だからこそより良く生きることが求められたのです。

    日本にも昔から「無常観」という、長い歳月のなかで磨かれた死生観があります。多くの人が生まれ、それぞれの生を営み、あるものは子をなし、死んで行く。家族の誰かが死ねば悲しい、それは当然です。しかし家族の死の悲しみは、歴史的に無数に繰り返されてきたことです。悲しみは死があってこそであり、死がなければ、人は死を望むに違いありません。

    医療行為は不確実です。医療の基本言語は統計学であり、同じ条件の患者に同じ医療を行っても、結果は単一にならず、分散するというのが医師の常識です。

    では、安心とはどういうものか。人は必ず死にます。しかもいつ死ぬぬかわかりません。医師の医療上の予想はあくまで過去の統計に基づくもので、確立で表現されます。五年後の生存碓率が50%セント、という程度の表現しかできない.個々の人間について、将来の生命を正確に予慰することは不可能です。厳密にいえば、ある個人が明日生きているかどうかも、医師には正確に予想する能力はありません。死ぬことを恐れる限り、誰でもいつか必ず死ぬわけですから、絶対に安心はできないということです。死を受け入れない限り、安心は得られません 安心というのは、病院が提供できるものではなく個人の心の間題でしかありません。

    「今日の人は、『覚悟』 というと、何か特別な危機に見舞われたときに心を決めることのように考えております。しかし、『覚悟』 が特別なことのように思えるというのは、むしろ我々の覚悟のなさを証し立てているのです」 菅野氏:『武士道に学ぶ』

    「人は誰も、人生において成すべきことが皆遂げられたときに、はじめて死がやってくるもののように思いこんでいます。しかし、よく考えればそんなことはありえないので、用事が済もうが済むまいが、こちらの都合とは関係なしに死はやってくるのですし、人生というのも本当はそういう仕掛けになっているわけです。ですから、我々
    の思い込みこそはまさに夢なのであって、人生の本当のところは、死がいつも 『足下に来る』 ということなのです」

    当然ですが、誰かを非難するときに、自分が非難される可能性を担保しておかなければ、自分の正当性が損なわれます。戸外で小さな子どもに箸をくわえさせたまま歩かせることの責任をどう評価するのか。さまざまな考え方があると思います。それゆえに、救急医療を担当した医師の責任について議論するのとは別に、親の責任についても落ち着いた議論が必要だったと思うのです。

    がんの免疫療法の総説論文を読んだことがあります。総説とは、原著論文のように、自分のデータに基づいて新しいことをいうのではなく、ある分野についての多数の論文を読んで、その分野の知見と動きをまとめるものです。この論文を記憶しているのは、最後の結論部分にあった言葉のためです。「がん治療のこの分野では、しばしば、期待は結果と混同されてきた」と書かれていました。

    私は、外科医は 「勇気あるペシミスト」でなければならないと若い医師に教えています

    複数の選択肢があるとき、治療法を決定する場面で、医師は控えめにならざるを得ない。医師のライフスタイルや人生への処し方は患者のそれとは異なります。最終的に 「えいや」と決めるのは患者本人しかいないのです

    そもそも医療は、こうしたらよかったのでは、あのときはこちらの選択の方がよかったかもしれない、という反省を始終反復しながら進歩していますふ医療は多くの選択を伴うものであり、同時に取りえない方針もしばしばある。

    賠償には非嫌というものが含まれています。無理なことの責任を負わせて.現場を非難すると、現場の上気が低下します。また、父母に対して、あらゆることを学校に要求してよいというメッセージを送ったことになります。これが教育規規にいかなる悪影響を及はしたか、私たちは考える必要があると思います。
    医療についても同じて、賠償は金銭の負担だけでなく、その中には非難が含まれるそれが医療に対する攻撃を承認しているのです。

    脳性まひの子どもを持った親は、その後の人生を、障害を持った子どもの世話に捧げることになります。自分の人生がなくなってしまう。私は、医療過誤の有無に関係なく社会が全面的に援助すべきだと思っています。このような患者に対しては、無過失補償制度で、患者側と医療側を対立させることなく、補償すべきです。無過失補償制度とは、スウェーデンを例にとると、避けられた傷害かどうかを検討する。過誤の有無を立証しようとしない。互いに対立させないようにして、避けられた傷害に対して補償をする制度です。

    「偏りの無い客観データの集積と分析が何より大事な我々の世界と、主観と結論に基づいた証拠の恣意的取捨選択や、〝ストーリーがよくできていること〞 が大事な彼らの世界と。違いすぎて、想像もしなかった世界」

    「なぜ 『暴走』 かというと、しつこいようだが、この過程に個人の責任と理性の関与、すなわち、自立した個人による制御が及んでいないからである。一定の条件を持つ言説を報道システムに投入すると、自動反復現象が発生するようにみえる。報道の反復現象、すなわち、『世論』 形成は、システムの制御の問題であり、マイクとスピーカーを向き合わせたときにおこる音量の急激な増幅のような、機械的エラーに似た一面がある」

    人間は環境の影響を受けやすく疲れやすい。そのためしばしば間違えます。ミスをしたいと思ってミスを犯す人はいません。人間をシステムの部品とみた場合、信頼性は非常に低いのです。ヒューマン・ファクター工学では、人間の過失の多くは原因ではなく、誘発された結果と理解される

    「多くの診療行為は、身体に対する侵襲 (ダメージ) を伴います。通常、診療行為による利益が侵製の不利益を上回ります。しかし、医療は本質的に不確実です。過失がなくとも重大な合併症や事故が起こり得ます。診療行為と無関係の病気や加齢に伴う症状が診療行為の前後に発症することもあります。合併症や偶発症が起これば、もちろん治療には最善を尽くしますが、死に至ることもあり得ます。予想される重要な合併症については説明します。しかし、極めて稀なものや予想外のものもあり、全ての可能性を言い尽くすことはできません。こうした医療の不確実性は、人間の生命の複雑性と有限性、および、各個人の多様性に由来するものであり、低減させることはできても、消滅させることはできません。過失による身体障害があれば病院側に賠償責任が生じます。しかし、過失を伴わない合併症・偶発症に賠償責任は生じません。こうした危険があることを承知した上で同意書に署名して下さい。疑問があるときは、納得できるまで質問して下さい。納得できない場合は、無理に結論を出さずに、他の医師の意見を聞くことをお勧めします。必要な資料は提供します。他の医師の意見を求めることで不利な扱いを受けることはありません」

    【原則】1(医師の責任) 医師の医療上の判断は命令や強制ではなく、自らの知識と良心に基づく。したがって、医師の医療における言葉と行動には常に個人的責任を伴う。
    【原則】4(診療行為とその正当化の手続き) 医療は個々の診療行為とそれを正当なものにする手続きからなる。診療行為正当化の手続きとは、診療行為実施の前に、適切な手順で適切な内容の説明を行ない合意を得ること、また、実施後、結果と診療行為を通して得られた情報を患者に伝達して理解を得ることからなる。
    【原則】5(医療の不確実性) 医療はしばしば身体に対する侵聾を伴う。人間の生命の複雑性と有限性、及び、各個人の多様性ゆえに、医療は本質的に不確実である。医療が有害になりうること、医療にできることには限界があることを常に自覚して謙虚な態度で診療にあたる。

    これは他の施設との交流がなさすぎたため、他の施設がどの程度の水準なのかを知らなかったからだと思います。外部委員会は院内の管理体制を整備することを提案していましたが、私は外部委員会の提案に従っても、この大学の泌尿器科の医療水準を向上させることはできないと思います。これは、院内だけで解決できません。世界の水準を知らず、向上のための指標を持たず、自己の水準に満足していたことが、このような結果を招いたのだと思います。

    医師が、個人の能力を伸ばすための条件は、①たくさんの患者を診られる ②勉強する時間がとれる ③議論できる仲間がいる ④他との交流ができる、ことです。この四条件の中で、研修病院には、勉強する時間が足りないこと、仲間が少ないこと、交流がないことが決定的な問題です

    一国の医療ではアクセス、コスト、クオリティ、これらすべてを満足させることはできないとされています

    アメリカではあからさまな競争を通じた生存が可能で、自律、欲望追求と移住の自由が尊重される。個人の利己的欲望を追求する努力の総和がそのまま社会の利益であると理解され、「自我拡張的意識」が形成されます。こういう場所での自己実現とは、自己の才能や欲望の具現化です。典型的な閉鎖系の場として、江戸期の日本が挙げられます。閉鎖系の場では移動が制限され、異文化的人間との交流が少ない。貧しく狭い場所で、少ない資源を奪い合うと共倒れになります。こういうところでは自我縮小的心理が形成されます。謙遜、自責、協調が重視され、対立や競争を避けるようになる。自己の欲望は抑制されるべきもので、自己実現とは他者から期待された自分の役割を果たし、人間関係を良好に
    することです。「足るを知る」 「分を知る」という言葉に象徴されます。

    日本の現在の医療や教育の崩壊は、特殊な人たちの過大な自由をあまりに尊重しすぎるために、多くの人たちの自由を阻害しているところにある。義務教育は身勝手な親に破壊されようとしています。万人の適切な自由を確保するために、特殊な個人の自由を制限することを制度化すべき段階ではないでしょうか。私のこの考えは当たり前のことだと思いますが、現在の日本の問題は、当たり前のことが当た
    り前として通用しなくなっていること

    「この競争社会で、年に数回しか日本語をしゃべらないような生活をしたことは、自分では気がつかなかったものの、わたしの価値観、思考態度に深い影響を与えていた。たとえば、時として対決をいとわぬ姿勢や即座に意思決定を行う自我が形成され、能力主義的価値観という偏光プリズムを通して世界を見るようになっていた。

    医師法第一九条で 「応召義務」 が規定されています。正当な事由なしに診療を断ることができないということですが、逆に言えば、正当な事由があれば断ってもいいということです。私は、断るための条件を明確にすることが、医療を保全して普通の患者を守るために必要だと思います。

  • 『患者はこう考えます。現代医学は万能で、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を受ければ、まず死ぬことはない。医療にリスクを伴ってはならず、100パーセント安全が保障されなければならない。善い医師による正しい治療では有害なことは起こり得ず、もし起こったなら、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護師はたとえ苛酷な労働条件のもとでも、過ちがあってはならない。医療過誤は、人員配置やシステムの問題ではなく、あくまで善悪の問題である。』
    ここまで書かれたらさすがに誰でも「これはおかしいな」と思うだろうが、実際に大病をすると動転して本性が現れてくる。
    著者は「死生観」がなくなったと述べる。
    感情のレベルで「いつかは死ぬ」ということを納得するためには、やっぱりどうしても若いうちに誰かの死を見る必要があるのだろうと思った。
    今の社会では出産も死も生活から隠されている。

  • 生きる=老いるも死ぬも避けがたいという事実は、医療が発達しようと変わりない。漫画ブラックジャックの本間医師が言った「人間が生物の生き死にを左右しようなんておこがましいとは思わんかね」が、浸透した心持ち。
    医療が発達していなければ、かつての出産リスクなどにより、私は今生きていないだろうが、多産であったそのときと、今では心づもりも違っている。この本で言われているかつてと現代との死生観の違いは、実は医療が作り出したのかも知れない。

    ・・・
    (読み途中)

著者プロフィール

医師。NPOソシノフ運営会員。1974年、東京大学医学部卒業。山梨医科大学泌尿器科学教室助教授、虎の門病院泌尿器科部長などを経て、2010年5月より2015年9月まで亀田総合病院副院長。
著書に『慈恵医大青戸病院事件 医療の構造と実践的倫理』、『医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か』、『医療の限界』など。

「2018年 『地域包括ケア 看取り方と看取られ方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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