天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書 312)

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  • Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106103124

作品紹介・あらすじ

平家から維新までの約七〇〇年間、天皇は武士に権力を奪われていた。しかし、将軍職や位階を授ける天皇は権威として君臨した-。このしばしば語られる天皇像は虚像でしかない。歴史を直視すれば、権力も権威もなかったことはあきらかだ。それでも天皇は生き残った。すべてを武士にはぎ取られた後に残った「天皇の芯」とは何か。これまで顧みられることの少なかった王権の本質を問う、歴史観が覆る画期的天皇論。

感想・レビュー・書評

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  • 著者が世間の学説と違う天皇(の歴史)論を展開するというもの。
    なかなか面白かったです。
    ただ一般的に知られた学説ってのを私があんまり知らなかったので、どこまで評価していいのか…星印の数は結構適当な評価です。

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  • 大嘗会もできない
    最後に残った仕事は改元
    将軍の代替わりには改元したが
    天皇の代替わりに改元できないことがあったと
    麒麟がくる、太平記を見ていたので正親町天皇や三条西実隆が出てきてもイメージができて面白かった

  • 自分の考えをもって歴史を語りたいですね
    天皇家へのそんけいの念が薄いのか、身もふたもない事を書いていますが、武士の世界が成立、揺り戻しなどの政治的な激動を、ターニングポイントを明確に説明しているのでわかりやすい!

  • 天皇の役割がずっと一定だったわけではない。そのことを少し学んでみたくて読んでみた。主に戦国時代までの変遷が描かれていた。役割がどう変わっていったか書かれていて面白かった。ただ、今に至るところまで描かれてないのでそこは、限定的な満足。とはいえ、描かれている範囲では丁寧に描かれてよかった。徳治と法治の社会観の話なんかが面白かった。

  • 2009年刊。中世史専門の著者が、主として中世の朝幕関係から天皇・朝廷の役割を解明するもの(書名は誤導ぎみ)。少々物足りないのが正直なところ。ただし、その理由は、もっと書けたはずだからで、著者への期待の裏返しである。まず、政治の説明にあたり、税の徴収過程の実例が少ない。訴訟の実態とは別の政治の実例を詳しく書いて欲しかった。また、権門体制論批判であれば、他の権門(特に寺社)との関係の記述がもっと欲しい。しかも、本書の主張は権門体制論の亜流とも読めなくない。同論の否定には、天皇家の断絶が必要ともいえるからだ。
    もっとも、本書は、権門体制論が実は何らの内実を備えていなかったことを気づかせる。つまり、元々モザイク状に権限を分属させていた権門の変容過程を、各時代毎に細かく検討しないと、もはや天皇制の意味は捉えられないのだろう。その意味で、本書の提示した結論や、そこに至る検証過程は極めて興味深い。網野史観とも一味違う中世の天皇・朝廷論が本書には詰まっている。なお、本筋ではないが、天皇制を考える上で、文献の引用のない主張、中世の天皇を考慮しない主張には説得力のないことが、本書からよくわかる。
    備忘録。①当事者が自ら、訴状送達。②鎌倉幕府も武家優先派と公平政治派とで対立。霜月騒動で武家優先派が台頭。そのため各地の御家人、非御家人の離反を招き、北条氏滅亡に帰着。③後鳥羽は、実朝を利用して幕府のコントロールを図ろうとしたが、鎌倉武士の反発を買い、実朝暗殺に向わせた。首謀者は北条氏か三浦氏?④後醍醐天皇は朝廷内で浮いていた。余りに旗色鮮明な倒幕姿勢と、中堅実務貴族層の信を得られなかったため。⑤権門体制とは、天皇・朝廷・武士・寺社が天皇を中心として対立競合・相互補完しつつ各々の権力を行使する体制。

  • 天皇制は武力が無くても権威があったから生き残ったと思っていたが、権力の空白や偶然も作用していたとは驚きだ。そういえば、古代の天皇制の歴史は習ったが、戦国時代や江戸時代の天皇制の歴史は学校で教わらなかったし、本も少ない。何かを隠しているのだろうか。

  • 天皇制がなぜ続いたかを、天皇制をいわゆる皇国史観に囚われずに分析しようと試みた一冊。

    大きな転換点は承久の乱、南北朝の騒乱にあったと分析。
    特に承久の乱は、朝廷にとっては鎌倉幕府設立より余程インパクトがあっただろうというのが目から鱗。
    南北朝の騒乱は、南北朝並立というとあたかも互角の勢力を保ってたように感じるけど、それは最初だけで、実際には武家勢力(つまり足利幕府≒北朝方)が少数勢力の南朝を利用してただけ(実際に足利尊氏や直義は一時的に和睦した)みたい。

    基本的に鎌倉時代以降は、武家勢力が勝手に天皇を立てたり廃嫡したり配流したりやりたい放題とい感じ。
    分析自体も江戸時代初期の家康まで。

  • 本書の主張の概要は、以下のとおり。
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    朝廷(天皇・上皇)は、平清盛以後、徐々に実権を武士に奪われた。
    承久の乱の後は、皇位継承にすら干渉を許すようになった。

    そこで、朝廷は、「道理」に拠る裁判によって積極的に統治者としての地位を示すよう努力し、それは後嵯峨上皇・九条道家によって達成された。
    また、伝統的宗教勢力の頂点「祭祀の王」としては、依然として君臨していた。
    そして、武士に対しても、従前の統治のノウハウを教示する立場、「情報の王」として対峙し得た。

    その後、霜月騒動において、統治を重視する一派が、武士の利益を優先する一派によって鎌倉幕府内から駆逐された。
    これによって、恩恵を受けられない下級武士や武士以外の勢力の不満が爆発。鎌倉幕府は自壊した。

    南北朝を経て、皇室は相対化(絶対的な存在でない事を露呈させることによる弱体化)を余儀なくされ、影響力を著しく失った。
    「祭祀の王」としての立場も、足利義満によって奪われた。

    その結果、天皇は、「情報の王」「文化の王」として存続することになった。
    室町幕府が、旧来の朝廷と同様、「職」の体系(都の上位者に奉仕することで自領の安堵を目論む方法)を採用したため、そのノウハウを持つ天皇(朝廷)は、なおも武士に教示する立場を維持し得た。
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    中盤までは、中世における朝廷のシステムについての解説が続く。
    それは極めて興味深い。
    けれども、結論である「情報の王」「文化の王」の内実にほとんど触れられていない。
    戦国時代において朝廷が存続した理由についても紙幅の制限を理由としてほとんど記載がない。
    なお、織田信長が本能寺の変に斃れなければ、天皇は廃されていたかも知れない、と主張する(が、詳細な理由は示されていない。)。

    黒田俊雄の権門体制論を中世世界全般に適用することに対して批判的。
    石井進を引用し、中世には「国家」なるものは存在したとは言い切れず、国家権力が統治対象である人民を強く拘束できなかった当時の状況に鑑みれば「体制」という文言も不適切であるとする。
    ただし、個別の事象に同論を援用することは有用である年、特に、同論は院政期にこそよく適合するもので、藤原信西が目指した当為(政権構想)をよく説明出来る、とする。

    また、平清盛御落胤説に極めて否定的(91頁)。

    今谷明にも、批判的。

  • 天皇家はなぜ残ってきたのかという疑問に対して答えようとする、かなりの意欲作だと言える。天皇家が残ってきたのはなかなか不思議である。平安時代後期には藤原氏をはじめとする貴族に実権はあって、天皇はほぼお飾りにすぎない。武家政権になってからはなおさらそうである。江戸時代として戦乱の世が終われば権威付けとしての天皇すら不要である。むしろこうした権力の担い手の交代によって王朝・王統というのは廃されるのが、歴史的には普通である。必然であれ偶然であれ、天皇家が残ってきたのはなぜか。イデオロギー的に議論の多い領域であるが、著者は情念でなく論理によって議論を進めようと試みる(p.5)。

    とはいえ、その議論図式はやや硬直しているようにも思える。全体を貫く鍵となるのは、当為と実情という概念対である。これはお馴染みの建前と本音と置き換えたほうがはるかに分かりやすい。天皇は建前として必要とされる時代と、本音として天皇自体が権力を振るう時代に分けられている。律令制を取り入れた日本だったが、この律令制は所詮は外来の行政組織であって、日本には長く続かなかった。例えば、律令制では土地はすべて公有であったが、三世一身法、墾田永年私財法をもって早くもそれは崩れる。令外の官の頻発や権力の移行も律令制のほころびを表す。こうした中で律令制とは「当為」、すなわち建前のものとなっていく。古代における輝ける天王の像は人々が頭で考えたこうあるべき、という当為の王であって、現実にはそんなもの通用しなかった(p.33)。天皇そのものでさえ摂関政治という天皇の外戚、母系の権威から上皇による院政という父系の権威へ移っていく。太上天皇とは位官からすれば天皇よりも下のはずだが、強い権力を持つことになり、位官制はますます形骸化していったのだ(p.59-62)。この上皇は院宣による専制を行うようになる。上流貴族が介在する官宣旨は減っていくことになり、上流貴族の伝統的権力そのものも形骸化していった(p.74ff)。

    初めての武家政権である鎌倉幕府の成立もこうした文脈にある。信西のつくった権門体制から平家のクーデターを経て鎌倉幕府へ至るが、この過程で天皇という王は将軍という武家の王との対比で新しい姿を取っていく(p.104)。天皇は実情の王として権力を持っているわけではない。鎌倉幕府にあっても朝廷の将軍としての認可によって鎌倉幕府の権力基盤が確立するわけではない。朝廷の認可は現実を作り出すことはなく、実情の追認にすぎない。鎌倉幕府の成立を1192年でなく源頼朝が守護・地頭を設置し実際に統治機構を成立させた1185年とする傾向もこの中にある(p.102)。征夷大将軍の任命は単なる追認にすぎないのであって、それをもって幕府の成立が「許可」されたような事柄ではない。

    さて天皇は後鳥羽上皇の承久の乱(1221年)の失敗により、治天の君が臣下である武士に流罪にされ廃位されたことで、当為、権威としての天皇は力を失った。著者の見立てではここから当為の王ではなく、実情の王としての天皇の模索が始まる(p.124f)。このことが実現してくるのが、言うまでもなく建武政権の頃である。著者はそれを九条道家が目指した徳政に見る。これは鎌倉幕府成立以後の朝廷の姿、実情の王を表している。幕府は法を制定し、武力でそれを守らせるのだが、朝廷には強制力がないから、慣習、常識、道理で雑訴の興行を行った。天皇はもはや当為の王でなく、実情の王になろうとしていたのだ(p.136-149)。この記述には色々と疑問が残る。幕府は法措定暴力と法維持暴力を持ったが、この法も例えば御成敗式目であって、これは武家の中の慣習法を成文化したものだ。武家政権は朝廷と違って当為の力を持たないからこそ、慣習や常識に則る必要があるはずだ。

    こうした実情の王、というより天皇による政治は南北朝合一(1392年)を持って終わる(p.193)。あとに残るのは、文化の担い手としての天皇である。科挙の制度を持たなかった日本では朝廷が知識、情報、文化を独占した。武士には文化的センスがなかったので、この分野については朝廷を頼るしかなかった(p.111f,178)。逆に言えば、天皇が政治権力を失っても生き残る役割はここにあった。戦国時代の天皇は文化と情報の担い手、「幽玄としての天皇」である(p.204-209)。だがこの幽玄としての天皇という概念は山崎正和からの借り物の概念で、よく分からない。何だかよく分からないが膨大な過去の蓄積を持つ担い手だと言っているという意味合い以上にこの「幽玄」という概念の含意があるのだろうか。

    結局、王朝文化の過去遺産と情報が天皇を救ったのである(p.211)。ところが、江戸の町民文化の隆盛により、文化的情報の源たる天皇も不要となっていく。しかしここで儒教の流行が当為としての天皇を呼び起こし、尊皇攘夷論へつながっていくことになる(p.218-221)。

    総じてポイントになるのは権威付けとしての天皇という点と、王朝文化の担い手としての天皇である。当為・実情という概念対は多くのものが込められすぎており、あまり機能しているようには見えない。建前のみで、権力無しで機能する権威などない。武家政権が成立した後でさえ、鎮護国家という考えに深く根ざす寺社勢力と天皇の結びつきに基づく権力があっただろう。論理的に考えるならもう少し別の観点が必要だろう。また、「なぜ生き残ったか」という問いを立てるわりには、事後的な正当化しかないように見える。偶然生き残ったのならそれはそれでよいのだが。また権門体制論や網野善彦に対する批判も(新書ではスペースがないとはいえ)拙速で疑問を持つ。意欲作ではあるが、響きはいまひとつ。

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著者プロフィール

1960年、東京都生まれ。1983年、東京大学文学部卒業。1988年、同大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。同年、東京大学史料編纂所に入所、『大日本史料』第5編の編纂にあたる。東京大学大学院情報学環准教授を経て、東京大学史料編纂所教授。専門は中世政治史。著書に『東大教授がおしえる やばい日本史』『新・中世王権論』『壬申の乱と関ヶ原の戦い』『上皇の日本史』『承久の乱』『世襲の日本史』『権力の日本史』『空白の日本史』など。

「2020年 『日本史でたどるニッポン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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