葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦 (新潮新書)

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著者 : 秋田光彦
  • 新潮社 (2011年2月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106104077

葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦 (新潮新書)の感想・レビュー・書評

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  • 「葬式仏教」というレールの上でしか、社会的な役割を果たせなくなっている現代のお寺のあり方に対し、その延長線上で留まっていては、近い将来大多数のお寺が、たち行かなくなると警鐘を鳴らす。

    それでは、お寺が目指すべき方向性は何か?

    筆者は、自己の経験を紹介しつつ、「寺は社会的関係性を呼び込むプラットフォームの様な役割を果たすべき」と論ずる。

    すなわち、「死」という契機から社会と関わるのではなく、人の生涯全般に渡って関与するもので無くてはならないとするのである。そこには、医療や看取り、介護、あるいは住まい、相続などの全般的な生活課題が含まれる。

    仏教とは本来、生きにくく、苦に満ちた現世に於いて、どの様に折り合いを付けていく術を説いたものであったはず。現代日本の仏教は、本来の仏教の役割に立ち返り、今を生きる人々の苦悩に寄り添い、それにどの様に応えていくのかが今まさに問われているのである。

  •  大阪で小劇場演劇を観ている人なら誰でも知っている、お寺の劇場・シアトリカル應典院。私が大阪在住時代に最もよく行った「お寺」ですが、明らかに普通のお寺とは異なる施設となっています。本書ではその住職である秋田氏が、應典院が今のようになった歴史と目的を語っています。

     應典院は決して単なるイベント施設として作ったわけではなく、「現代における仏教の役割は何か」「これからの寺院はいかにあるべきか」といった、僧侶としての自分への問いに対するひとつの答えとして取り組まれており、あくまでも「寺」なのだという点。これには感銘を受けます。

     なぜそのような問いが必要になったか。社会の変化によって昔ながらの檀家制度が成り立たなくなりつつあるからです。いわゆる「無縁社会」のひとつの側面でもあります。そのため本書には、無縁社会を扱った『人はひとりで死ぬ』を読んだ時に感じた疑問への答えとも言える記述が随所にありました。

     そもそも、原始仏教は葬式仏教ではなかったし、檀家制度もなく、基本的にひとりで生きる者を導く教えだったはずです。葬式をしないことはそんなに重要ではない。大事なのは、では何をするかという点。もちろん應典院のスタイルが唯一の正解ではないでしょうが、同じ問いはすべての寺院に対して投げかけられているとも言えるはずで、もっと多くの寺院がそれぞれの考えで新しい取り組みに挑戦してほしいものです。

  • 関西小劇場を観る上で一回は訪れるであろうシアトリカル應典院のコンセプトが分かる一冊。空飛ぶ!観劇部!のスペドラの回での紹介をきっかけとして購入。
    紹介にもあったように演劇の話は最小限で、場づくりをどうするか、仏教が社会にどうか関わるかが中心に論じられている。
    ただ場所貸し、小屋貸しをするのではなく、どうお寺として関わっていくかの試行錯誤が垣間見える。
    本業で関わっている図書館でもlibrary as place という考え方が重要になりつつある。途中からは図書館の側での取り組みと何が違うのかを考えながら読み進めた。特に生きる上での悩みや死生観の共有という取り組みは僧侶の存在があるからこそ上手くいくのか、そこはこの事例が應典院だっただけで、他でも上手くいく素地があるのかはこれまで得られなかった視点であり、今後も引き続き考えていければと思う。

  • 最近は真宗のお寺の事にも関わっている身ですのでこういう話にはとても興味があります。

    これもアリですね。葬式仏教と檀家の依存に対する危機感に立ち向かう現代の仏教の在り方としては、とても共感できる内容が幾つもありました。

    葬式をしない、檀家ゼロ、と言いつつ、しっかりお寺としてのアイデンティティを苦悩しながらも保持して、時には時代に合わせて変えていこうというスタイルは素晴らしい。お寺という場を活用して多様な場を生み出して包摂している、その見事さには始終感心させられっぱなしでした。

    結局のところ、お寺って何しに行くところなのか?何の用事があって行くところなのか?殆ど誰も分かっていない。ここが、お寺の直面している難しい問題なのだと思います。
    また、キリスト教、特にカトリックが直面している問題ですが、無神論無宗教を自称する人が増えていて、死に対しては「無になること」以外特に考えない風潮が世界中で根強いです。この本で取り上げられたオウム事件もあり、日本では宗教に対する信頼に激震が走った、と言われています。実は海外でも、敬虔なキリスト教徒というのは稀になり、司祭職を志す人は少数派になっています(「教会の危機」をWikipediaで調べるといいかもしれません)。聖職志願者や後継者問題というのは、宗教界では今後とも大きな問題になるでしょうし、それと連動して大衆の死生観の貧困とでも言うべき事態も進行していますね。

    浄土宗や、浄土真宗なんか特に傾向が強いですが、阿弥陀如来に対する「信心」即ち敬虔に祈ることが根本にあります。普通に布教しようにも、こういう風潮だと風当たりが厳しすぎると思っています。恐らく、法話を聞いても、大半は自分自身のことだと感じないし、感じられないようにも思うんです。だったら、僧侶が教化の為に出来ることといえばただ二つ。教えの話し方を変えること。教えの聴かせ方を変えること。應典院さんでやられていることは、この二つをうまいことやっているので、一見俗なNPOという非宗教的活動の中に仏教の教えの持つパワー(功徳と呼ぶべきか)をふんだんに盛り込めるのだと思いました。

  • 宗教と遊び、宗教とアートという結びつき自体はそこまで新しいものでもないかもしれないが、そのことを能動的に現代の文脈で意識してやろうとするということは革新的だし、臭いものに蓋をするよりこういう方向性にカジ切ったほうが面白い

  • 題名に期待した内容は第5章以下にあった.勿論、應典院での活動は素晴らしいが、第5-6章の内容は重要な点を多く含んでいる.葬儀社に駆り出された坊主のお経には何の意味もないことは、参列者のほとんどがわかっている.でも葬儀社に任すとそうなってしまう.自分らしいエンディングを企画するために宗教家の出番があるのだ.本書は「葬儀社は死の一点を扱うだけだが、仏教は生涯全体にわたって関与するものでなくてはならない」という重要な論点を示してくれている.

  • (2012/10/31読了)

  • 秋田光彦『葬式をしない寺 大阪・應典院の挑戦』新潮新書、読了。應典院の檀家はゼロで運営はNPO。葬式や法事は一切行わない。トークイベントや集会、演劇の連日。筆者が目指すのはひとが集まる「開かれた寺」。これこそ「縁起」と語る。積極的に社会と人間に関わろうとする僧侶たちの挑戦。

    應典院 - ひとが、集まる。いのち、弾ける。呼吸する、お寺。 http://www.outenin.com/

  • 「葬式仏教から脱却」「本来の仏教、寺の在り方とは?」など。
    お寺を「場」として提供する様子などが描かれている。
    仏教自体の話ではなく著者の新しい仏教の在り方に向けた活動など。

  • お寺といえば葬式。その図式を壊して「場」を提供しようと奮闘するお寺がある。おそらく昔はお寺=コミュニティの場だったはずで、それが薄れてきたところはあったはず。
    今回の震災を考えたとき、お寺ってもう一度「場」を提供するという機能を発揮することができるのではないだろうか?

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葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦 (新潮新書)の作品紹介

「檀家ゼロ、葬式・法事は一切しない」-。大阪にある浄土宗・應典院は、これまでのお寺の常識をひっくり返す、革命的なコンセプトを持つ。モダンな外観、NPOによる運営、劇場を兼ねる本堂…、それは、閉鎖的な葬式仏教からの脱却をはかり、お寺本来が持つ力と信頼を取り戻すための試みだった。はたして今、社会から求められるお寺とは何か-。改革を担った僧侶自身がつづる、「寺院再生のシンボル」應典院の挑戦。

葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦 (新潮新書)はこんな本です

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