キラキラネームの大研究 (新潮新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106106187

感想・レビュー・書評

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  • タイトルが秀逸。
    タイトルだけだと、「キラキラネームにはこんなんありますよ。ひどいでしょう。世も末ですね。」みたいなことが書いてあるように思えるが、実際は非常に真面目で、キラキラネームへの偏見が消失してしまったほど。

    これが、内容に即して「読めない名前の近代史」みたいな真面目タイトルだったら、自分含めて誰も買わなかっただろうな。どこでこれを買ったか全く覚えてないが、自分も絶対タイトルに惹かれて買ったんだろうし。

    自分もキラキラネーム、DQNネームはクソだなと思ってたし今もそう思ってるけど、単に流行りとかそういう話じゃないんだなと気づいた。
    今だけ起きてる問題というわけではなく、理由はもっと根が深く、しかも長い歴史がある。

    そもそも大昔の神代の時代から、神様の名前が完全に読ませる気のないものばかりだった。確かに。
    木花開耶姫命とか当て字にも程がある感じがするし。
    また、いわゆる難読名字である小鳥遊、月見里(やまなし)、八月一日(ほづみ)、子子子(ねこし)など、落語かな?と思うようなエピソードで名付けられたものも多く、キラキラネームと大して変わらないと言えばそう。

    明治時代にも英語名を漢字で表したようなキラキラネームが多かったらしい。
    亜幌(アポロ)、亜歴山(アレキサンドル)、丸楠(マルクス)など。
    森鴎外も子どもたちが於菟(おと・オットー)、茉莉(まり・マリー)、杏奴(アンヌ)、不律(ふりつ・フリッツ)、類(るい・ルイス)という完全に外国かぶれと言えそうな名前をつけている。ただ、今見てもそこまでキラキラしているわけではないのがさすが森鴎外というところか。
    於菟は漢文が元ネタらしく、この頃の知識人たちは漢字の見た目や音ではなく、きちんとした知識に基づいて名付けをしているのがほとんどとのこと。
    まあ、自分としては考えがあろうがなかろうが、読みにくければどれも大差なくダメだと思うけど…

    また、和子という普通の、しかも今では古い感じの名前も「和」を「かず」とは普通読まない名乗りの一種だったとか、そういう話は幾らでもあるため、光宙と書いてピカチュウはネタが極端なだけで似たような名前は昔から存在していた、つまりキラキラネームは今だけの問題ではない、と。

    そこそこ最近の話で言えば、発端は第二次世界大戦の敗戦。
    GHQの方針で漢字がまずなくなりかけた。なんやかんやでなくならなかったが、教育をしていくためにも教育しやすくするためにも常用漢字というものが作られ、その過程で漢字の本来の意味がかなり失われたまま人々に覚えられてしまった。
    そして教育のおかげで人々の漢字知識水準が上がり、同時に漢字への敬いも減ってしまい、漢字を気軽に扱うようになってきてしまった。
    更に最終的なきっかけであるインターネット。これで漢和辞典なんて見なくても簡単に漢字を検索できるようになってしまい、意味はそっちのけで見た目や音だけで漢字を選ぶことができるようになってしまった。
    また、世代的にちょっと前から親になりはじめた人たちが緩くなってきた漢字教育で育った直撃世代であり、子供の名付けのために使う漢字の自由度が半端なくなっていて、それが変だとも思っていない。
    つまり、今後これは加速していき、キラキラネームが常識になっていくだろう、とのこと。
    だが、やはりこれは日本語の大切な要素である漢字、そしてその意味を失っていくことではあるので、キラキラネームが悪いとかではなく、それと別の話として漢字という伝統を守るためになんとかしなければいけない。

    途中で漢字が中国から入ってきた時代まで遡り、戦前戦後の話になってしまい、内容は大変面白かったもののどうやってキラキラネームという話題に戻ってくるのだろうかと心配していたら、とてもきれいに結ばれていた。
    あとがきで作者自身も非常に苦労したと書いていたが、確かにそんな感じの内容だった。それをこんな上手くまとめた良い本にしたのはすごいし、非常に面白い内容だった。意識が変わるのでオススメ。

  • ものすごく軽~い書名ですが、
    中味はなかなかの読み応え
    単なる 「イマドキの命名は…」になっていない
    読み応えのある一冊になっています

    筆者が古典文学に精通しているのも
    その論考の厚みになっていますね

    巻末の参考文献のランンアップが
    とても興味深い

    名付けの意味
    名付けもまた その時代を反映する
    名付けもまた その教養が背後にあった(!)
    名付けもまた その教養のあるなしが大きく左右する

    「漢字」そして「感字」の造語
    いやはや 楽しい時間が持てました

  • 名付けをきっかけとした、日本人と漢字との関係の歴史を考察した1冊。
    タイトルは軽いですが、中身はしっかりしていると思います。

    正しいか正しくないかは置いておいて、とても納得できる内容です。
    と同時に、我々がいかに薄っぺらな漢字の世界に生きているか、反省させられました。

    知識の浅さが若干気になる点もありましたが、個人的には、十分に満足できました。

  • 2015/5/29読了。
    これは国語の本である。読みやすい文章だが内容はかなりしっかりしている。
    著者のバランス感覚が素晴らしい。著者はキラキラネームやDQNネームをバッシングするのでも擁護するのでもなく、疑問を抱いてそれを解き明かそうとする。社会的に(特にネット上で)ホットな現象についてこういうスタンスが取れる人は昨今では貴重と思う。そういうまっとうな人に疑問を抱かせる時点で、すでにキラキラネームはかなりアレなほうへ寄っている代物だとは思うが。
    キラキラネームとは要するに親の国語的教養や社会感覚や規範意識や想像力の欠如(と言っては言い過ぎになるなら変質と言ってもいい)によるものだと思うが、勉強をさぼっていたから馬鹿だからという親個人の責任と言い切れない問題が、少なくとも国語の面には横たわっていることが、本書を読むとよく分かる。本書によれば戦後の国語国字改革がそのキーワードだ。案外と高学歴な人でも雪崩を打つようにキラキラネームを付け始めた理由がここにある。キラキラネームを付けた親自身が、そして付けられた子供自身が、それをキラキラネームだと理解できないという痛ましい状況の理由もここにある。
    あとは、社会感覚の面や想像力の面での考察を行う類書の登場を期待したい。日本の庶民が我が子を「世界で一つだけの花」として扱うよう世間に要求するようになったのはいつからか、我が子に「オンリーワンの名前」を付けても良いと思うようになったのはなぜなのか。それが知りたい。

  • 途中から笑いながら読んでいた。
    こんな名前を付ける人がいるのかと、ほんとに面白く読ませてもらった。
    面白いだけでなく、キラキラネームというテーマできちんと歴史を紐解いており、とても納得性の高い本だった。

  • 身近にある現象から深い漢字のことばの森奥までたどり着いたのは感心しました。言葉の言霊は現実から離れましたが。ネーミングの原理、人名の歴史、漢字政策については丁寧に資料を集めてくれました。論述も誠実さが溢れています。特にキラキラネームそのものに対して取りすべき態度の思考、興味深いテーマを残してくれました。過去や現在がなければ、未来はなし。キラキラネームに対する態度は我々の現状を問い、未来への選択を問うといえるだろう。

  • 漢字制限たる「当用漢字」が当然となった団塊ジュニア=当用漢字第三世代が「感字」を用いて命名することで生じたのが「キラキラネーム」、というのがまとめ。
    そこに至るまでにはながーい歴史的推移があった。「真名」と「仮名」、そして実名=諱(いみな=忌み名、口に出すことが憚られる名)と仮名(通称)、さらには諱=読まない名前と関連する言霊の力のこと。
    時代が下って明治に至り、戸籍法で名前が一つにして苗字も一つ必須となった「壬申戸籍」。そこで難読苗字が発生、改正戸籍法で苗字新設が禁止された。しかし名前はそんな制限が無いので自由に付けられるままだった。
    戦前で有名なキラキラネームといえば、森鷗外と重森未玲の子どもたちの命名。
    森鷗外:於菟(おと=オットー)茉莉(まり=マリー)杏奴(あんぬ=アンヌ)不律(ふりつ=フリッツ)類(るい=ルイ)
    森於菟:眞章(まくす)富(とむ)礼於(れお)樊須(はんす)常治(じょうじ)
    重森未玲:完途(かんと)弘淹(こうえん)由郷(ゆーご)埶氐(げーて)貝崙(ばいろん)
    ただし彼らの命名は古典に基づいている。例えば「於菟」は楚の言葉で「虎」の意味であると春秋左氏伝に載っている。明治ならばある程度の教養があればダブルミーニングだと理解できた。
    漢籍の知識があることで、漢字の深い森を自由に歩めた。しかし今は「当用漢字」そして「常用漢字」で(漢字の森を歩きやすくなったが)漢字が制限されてしまい、自由に歩める範囲が狭くなった。つまり、万人が漢字に触れやすくなったため、漢字に対する常識が失われてしまった。
    そのため、漢字に含まれる意味が、その字面の薄い意味から感字として扱われてキラキラネームが生じた。
    私はキラキラネームを名付ける側の世代である(兄が娘にキラキラネームを付けるのも見た>_<)のだが、漢字への想いがかなり強かったため、キラキラネームへの抵抗感が非常に強く出た。
    残念なことに、知識は学ばないと身に付かない。今は英語偏重で、漢字と漢文の価値が非常に軽んじられた世界になっている。なんとかならないものか、と苦々しくみているところである。

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