- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106107320
作品紹介・あらすじ
その真髄をわし摑み。類書なき最強入門書! 能は長寿企業!? 世阿弥の数多の巧妙な「仕掛け」や、偉人に「必要とされた」理由を知れば、現代を生き抜く知恵が身につくはず。現役能楽師が、エッセンスを縦横に語る!
感想・レビュー・書評
-
観賞する機会があったので、お能について詳しく知りたくて、ストレートなタイトルのこの本を手にした。著者は言わずと知れた安田登先生。お能がなぜ650年もの間、途切れることなく続くことができたのか、その理由に迫っていく。お能の演目や観賞法、歴史など、いわゆる王道の入門書を期待した人にはおススメではないかも。
他の方も書いておられるが、私も印象に残ったのは「初心忘るべからず」の本当の意味。古い自分を裁ち切り、新たな自己に生まれ変わる。それを時々、老後と絶えず繰り返すということ。能楽師はもちろん、お能という芸能も、自分を顧みて、変化して、伝統になった。深い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者は、初めての能で「松風」を鑑賞中、水面に浮かぶ月の風景を幻視してから能にハマり、能楽師にまでなられた方。私も初めての能で、著者までではないが、鑑賞中時間を忘れてトリップした経験があり、能は従来のエンタメとは何か本質的に違うのでは、と思ったことがあったので、興味深く本書を読めた。
入門書に相応しく、能楽の歴史や、特徴や仕組み、効能などがカバーされていた。特に興味深かったのが、漱石や芭蕉、三島由紀夫や村上春樹などの現代の作家や漫画家の作品に見られる能からの影響。それら影響を受けた作品を改めて読んでみたくなった。
最も印象的だったのが、現代の映画などを私たちはお金を払って「消費」する感覚で鑑賞しているが、能は消費の対象ではないという事。映画などは鑑賞側の能動性が求められず、あくまでも受け身であるため「消費」となるらしい。逆に能は「観る」のではなく「能と共に生きる」心構えが必要で、そのために詞章(セリフ)を声を出して読んだり、謡や仕舞を稽古したり、聖地巡礼をすると妄想力が鍛えられ、能の見え方が変化するらしい。なかなかハードルが高いが、能は限られた要素を使って鑑賞者の妄想力を刺激し、幻視を発動させる装置とも言え、今のARやVRにも通じるものらしく大変興味が湧いた。
-
安田登(1956年~)氏は、大学卒業後、高校教員を務めていたときに偶々観た能の舞台に衝撃を受け、27歳で下掛宝生流ワキ方の鏑木岑男に入門。国内外の舞台で能を演じつつ、学生の創作能や能についてのワークショップ等、能楽の普及のための幅広い活動に参加している。能や能のメソッドを使った身体論等に関する著書多数。
本書は、能について、歴史、様式・形式、観阿弥と世阿弥、謡(うたい)、芭蕉や漱石への影響等、幅広い視点から解説したもので、目次は次の通り。
第一章:能はこうして生き残った、第二章:能はこんなに変わってきた、第三章:能はこんなふうに愛された、第四章:能にはこんな仕掛けが隠されていた、第五章:世阿弥はこんなにすごかった、第六章:能は漱石と芭蕉をこんなに変えた、第七章:能は妄想力をつくってきた、第八章:能を知るとこんなにいいことがある、<付録>「能を観たい、習ってみたい、知りたい」方へ。
私はアラ還の会社員で、これまで、演劇の類はオペラやミュージカルを観たことはあるものの、日本の古典芸能に接したことはなかったのだが、コロナ禍が明け、思い立って、能楽、歌舞伎、文楽(人形浄瑠璃)を立て続けに見てみた。結果として、いずれについても、今後も継続して観たいと思うほどの面白さは感じられなかったのだが、折角の機会なので、「能」のことをもう少し知りたいと思い、本書を手に取った。
読み終えて、舞台を一度見ただけでは到底想像のつかない、「能」という単独の芸能を超えた、様々な歴史や文化との繋がりを知ることができ、なかなか興味深かった。印象に残った点をいくつか挙げると以下である。
◆観阿弥・世阿弥が残した最も有名な言葉「初心忘るべからず」の真意は、「それを始めたときの初々しい気持ちを忘れてはいけない」ではなく、「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない」ということであり、能が650年間も存続できたのは、時々に変化し、生まれ変わってきたからである。
◆能の典型的なパターンのひとつに、ワキ方の夢の中に死者の霊のようなシテ方が現れる「夢幻能」があるが、これは他の演劇にはない珍しいもので、敗者の無念を昇華させ、鎮魂するという意味があった。それは、勝者である江戸幕府が、能を庇護した理由のひとつでもあった。また、芭蕉も能の謡から影響を受けており、「おくのほそ道」の旅は、源義経の鎮魂と考えることもできる。
◆世阿弥が残した能の理想的な構造である「序破急」によれば、「破」の場面では、観客が半分目を開けながら寝るくらいにしておいて(観客の心の深いところに降りていく)、「急」の場面で目を覚まさせるくらいがよい。(これは驚き!確かに眠かった)
◆能は、舞台は極めて簡素であり、演者の動きも控えめで、話している内容もわからないことが多く、演劇としてリアルであるとは言い難い。しかし、それによって、観ている人は能動的にならざるを得ず、今見えていないもの(自分の脳内に蓄積されているもの)が見えてくることになる。謡も、それを媒介する効果がある。能を本気で味わうには、「能を観る」ではなく、「能と共に生きる」心構えが必要。
◆能のクライマックスは「舞」であるが、舞に「意味」はなので、そこから意味を汲み取ろうとしたり、ストーリーを感じようとすると、途端につまらなくなる。舞のゆっくりした時間の中に身を委ね、味わうのがよい。(これも驚き!)
(尚、能を観たり習ったりすることの直接的・現代的な効果(健康増進、集中力アップ、ストレス解消等)についての記述もあり、それらは新書の主たる読者層であるビジネスマンを意識したものであろうが、少々違和感が残った)
もう少し知識をつけた上で、再度鑑賞してみようという思いが湧いてきた。
(2024年2月了) -
能楽を初めて観たとき(最近の話です)、舞台の緊張感がすごく気持ちよくて、なんだかハマりそうな予感がしました。
主役(シテ)と脇役(ワキ)と各種囃子方はそれぞれ違う流儀の人で、演劇のような事前のリハーサルや練習はないと書いてあるのを読んで、ほんとうにびっくりしました。囃子方は伴奏ではないので、謡の間は聞こえるように音を小さくしたりもしない、というくだりもびっくり!
日本の古典芸能なのに(というのもへんですが)、忖度とか全然ないんですね!
あの潔いまでの緊張感の意味がわかった気がしました。 -
最近、音楽や文学で重要なキーワード「幽霊」
3・11後の世界、あまりにも簡単に死者を利用してはいないか。
能は連綿と続いた歴史の上に成り立ち、再び静かに現在注目されている。 -
能の成り立ち、魅力、効能、能鑑賞したい人や体験したい人のための情報など、能の初心者にも興味が持てるように書かれており、一度、能を観てみようという気になる。
夏目漱石、芭蕉と能の関係も著者の妄想も入っているが、興味深く読めた。
現代人にもわかりやすいように、能は、妄想力を逞しくして鑑賞する脳内ARみたいなものだと表現している。
妄想力を使うにも、著者の言うように、古典の教養あってこそだと感じた。
能の動きに意味があると思って何とかして読み取ろうとするのではなく、体験してみると、著者が初めて能を見た際の「幻視」体験のような身体で感じ取れることがあるのかもしれないと思った。 -
漱石を読んでいると能や狂言の話題が出てくる。『草枕』は能の形態をしているとどこかで読んだ。とりあえず本書で概要をつかもうと思って手にとった。まずは能楽堂に行ってみよう。
-
記録