世阿弥芸術論集 新潮日本古典集成 第4回

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  • Amazon.co.jp ・本 (306ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106203046

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  • 『風姿花伝』の他の作品が収録されてゐるので。
    風姿花伝では、その花、物まね、稽古の有様が中心であつた。今回収録されてゐる、『至花道』『花鏡』『九位』『申楽談義』では、演じることもさながら、舞ふこと謳ふことといつた舞曲のことが中心となつてゐる。
    世阿弥の死去から500年、なんとたくさんの作品が廢れてしまつたことか。なんとたくさんの舞曲が消えてしまつたか。作品ひとつひとつに、殘した彼のことば遣ひ、ことばのかかり、さうしたものがわからないといふことが、無性に哀しかつた。
    体と心を分かつことなく、ことばの形や舞として多の中に一として、一の中に無限として、表現し続けるその情熱と、それを伝へていかうとする力強さ、芸の道に生きた証である。
    音の発音、時間の使ひ方、到底ことばにするのは不可能なことであるが、それでも、書かれたことばの中に彼の音が生きてゐる。書きことばは、音を、そのことばの形を想起させるものだ、福田恒存は言つてゐたが、「どう」「どう」「ほう」舞台の上での音が聞こえてくる。高砂の台詞が鼓と笛とともに流れてくる。かかりとは、ただのことばのつなぎなどではなく、笛や唄、鼓と同じ調子や機のある、生きたことばのことであつた。
    唄は、楽器を奏でる以上に難しく、またさうであるが故に、人間そのものを映し出す。音にはことばはない。しかし唄にはことばがある。ことばには音以上に形がはつきりとある。それを謳ひ、舞ふといふことはそのことばの形を真似ることだ。具体と抽象が分かたれる以前の存在。事物と観念が共に流れ出る存在。道とはさういふところにある。
    今も観世流や金春流として能は生きてゐる。しかし、その能を見たり聞いたりすると、どこか古めかしく感じたり、謳はれることばがよくわからなくなつたりしてしまふ。さう思ふと、どれだけ世阿弥の花から遠ざかつてしまつたかと感じずにはゐられない。どれだけのものをおいてきてしまつたか。さう感じる一方で、時に寄り添ひ、発音や律動を少しづつ工夫していくことが、世阿弥の花を咲かせることではないかとも思ふ。現代風にしろとかさういふことではなく、今の人間には今の人間にできる能があるはずだと思ふのである。
    道は競ふものでもなければとつて変へられるものでもない。芸の道は演じて生きるそこに体現されるものだと思ふ。役者を育てることを世阿弥がなぜこれほどに大事にし、わざわざことばにして伝へたのか、それは世阿弥が花を次の世界に生きる人間に託したからに他ならない。

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