- Amazon.co.jp ・本 (835ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106425455
作品紹介・あらすじ
本巻は、昭和二十九年八月から三十年十一月までに発表された長編小説三篇、および「沈める滝」「幸福号出帆」各創作ノート(抄)をおさめたものである。
感想・レビュー・書評
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女神
肉体、車、装い、話し方、昔から私の家族はそういうものがダサいなと思っていた。
親に祖父母に、その車、服、鞄、靴、話し方、食べ方は美しくないとは言いにくい。
そして美しいものを持つにはお金がかかるのだろうから、お金を稼げない子供の頃はそのダサさに耐えた。
そのダサさを受け入れず、私の納得のいく美しさを求められたのは、自ら作るものに対してだった。
中学時代に作った木工は美を追求できた。
美はルネラリックやロココから知っていった。
この世の美しいものを知っていく。
中高校では、美は自身の身にはならず、両親から与えられた身体を清潔に保ち水泳バレエボール武道のスポーツで何となく筋肉や動きを身につけていただけであった。
関取花の歌に合わせた踊りを真似てスマホで自らの姿を見る。 肉体の美に少しづつ興味を抱き始める。
高校3年で、ダンスの魅力に気づきピナヴァウシェ、中国の古い踊りを見て優美な動きがあることを知る。
創作ダンスを発表する。
まだ成長期の肉体は肉付きが良すぎたが実家では食を減らし難かった。
大学で、本を読み始め言葉によって女性の美を知る。
好きな男に向ける身体として食を制限し、痩せた自分の身体に、美しい線があったことを知る。
sexや男によって美しくなることを知る。
その美には妖艶さや淫さが含まれていた。
本当に好きになった人と別れ、もっと強く美を自身の身体に表すことを求める。
その美は、バレエの肉体と目線や対応が含まれていなければならなかったが、肉体、髪、服、姿勢、目線が自分で変えられる限界に感じた。
化粧にはこだわりはなく、紅をさしていればいい。
私は美しくないので美しさを求めて冷たくなっていくようだが、美しさが備わっている人は美を求めずともすでにあるので、素直に体を動かしても美しく、美しくない人よりも温かな動きができる、それは美の崩れた表情であり、非常に魅力的で美を求めるものにはたどり着けない。
心の論理が多く表されず建物や自然の描写も少ないので、疲れずに読むことができる。
会話を多く表している。(美徳のよろめきは会話が省かれとても少なかったが)
寡黙な語り手。語り手が朝子、周伍、依子らよりも深く心理を読み解くことが少ない。
山田詠美が描く女が好きだ。
三島由紀夫の描く女は時代もあるのだろうが専門知識を持たない夫人であり、知に対して三島の知を基準にしたらほとんどの人間は無知であり注意力が足りないのであるから、知的でないという表現は私たちのレベルで考えないほうがいいかもしれない。
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沈める滝を読みたくて。
日本の山奥くの自然風景の生々しい生と、そこでのダム建設が、人工物の象徴となり、見事なコントラストで描かれている。
女神も読了したが、感想は特になし。