- Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106435461
作品紹介・あらすじ
昭和一〇年三三歳。"私小説は死んだ"と、強い言葉で結んだ「私小説論」。その向こうに小林秀雄が見ていたものは何だったか、何を待ち望んだのか。併せてヴァレリー「テスト氏」の全訳。
感想・レビュー・書評
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小林秀雄は、目の前の人間がどんな人間であるかを知るために、まずその人間が今どこに立っているのかということから知ろうとした。
「月々の文壇的事件をとり上げてとやかく言う事に疲労を感じて来る。」(p95「文芸時評に就いて」)
「一般に作家は言葉を征服しようとする事から始めて、結局言葉に巧みに服従する事を覚えて行くものである。」(p119「谷崎潤一郎『文章読本』」)
「現代の純文学、特に新しい文学のみじめさは、扱う材料そのもののみじめさなのだ。君の生活、君の生活環境そのもののみじめさなのである。それでは何故そのみじめさこそ新人の特権だと感じないのか。」(p213「新人Xへ」)
「自分の言い度い事が批評の形式を自然ととったのだ、と。」(p221「批評と批評家」)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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【目次】 -
うまく言葉にならないのだけれど、テスト氏(翻訳)を読んで心が震えた。
私小説論では、日本の近代作家の「私」の表現が海外からみれば異質で特異なものであったことを指摘している。私小説は滅びざるを得ないだろうが(現にいま私小説なるものは皆無だ)、作家の「私」はなくなるまいと結論し、新たな表現の形を与えること、そのために「思想上教養上」の鍛錬をつむことが作家のつとめであることを暗示した。現代において小林先生が渇望したそうした作家が登場したのか?この答えを我々はまだ用意していないように思う。 -
2009/
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