- Amazon.co.jp ・本 (377ページ)
- / ISBN・EAN: 9784120043642
作品紹介・あらすじ
極限の孤絶の果てに、酷寒の迷宮に足を踏み入れた私は――
予断をゆさぶり、近未来を見透かす圧倒的な小説世界。
原題は”Far North”。これまでドイツ語、フランス語、オランダ語、日本語に翻訳され、日本語の翻訳は村上春樹が担当した。
著者のMarcel Therouxは放送作家・ブロードキャスターでもあり、日本の美意識「わび・さび」を主題とする番組を数多く手がけている。父親は作家のポール・セロー(Paul Theroux)。兄は作家、TV脚本家のルイス・セロー(Louis Theroux)。
感想・レビュー・書評
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文明は崩壊し多くの人類が消え去った近未来、ロシア北部で孤独に暮らすメイクピースの凄惨な人生が綴られるポストアポカリプス小説です。
生き残るだけの単調な人生を送ってきた人間が、夢物語や希望になんと脆いことか。
石橋を叩いて渡るような人間にも、生ある限り欲があるのですね。
非常に虚しく恐ろしい世界を描いた作品ですが、悲哀や恐怖よりも“生きる”ための教訓があるように思えました。
メイクピースの生き方から、力強い処世術を見出せる一冊。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人類の多くが亡くなって荒廃した近未来の世界を舞台に、必死に生き残ろうとする女性の姿を描いた長編小説。
自然災害、戦争、放射能汚染などにより、終末期を迎えた地球で、人々は居住できるわずかな場所を求めて極北の地に集まる。枯れた土地では食べ物はわずか、法も秩序もなく自分の身は自分で守るしかない。
そんな過酷な状況下で、主人公が生き抜くことだけを考えて戦い続ける姿はもちろん力強いのだけれど、わずかな希望やプライドが次々に打ち砕かれていき、淡々と描かれる日々の試練は重すぎて、苦しくなってくる。はたして、私だったら生き抜こうという気力、あるいは本能が持続するだろうか。
村上春樹の翻訳で話題になったこの作品、読みやすい文章はさすがだったが、内容はヘビーでつらい読書となった。 -
シンプルなタイトルから、先の想像がつかない。
何の先入観もなしに、何の推測もなしに読むのが、最もいいと思う。
展開のいろんなことが意外で、今まで読んだ中で、似た感じのものはちょっと思いつかない。
ロードノベル、と言うことは出来ると思うけれど。
そういえば、こんなにも文明やテクノロジーが発達し、そのことになんの疑問も抱かずに多くの人々が享受している時代は、今までの人類の歴史の中でもごく短く、ここ何十年だけのことでしかない、ということを思い出させられる。
電気も電話もインターネットもなかった時期のほうが、それがある時期より遥かに長いはずだ。
種を蒔いて育つ、それを収穫して食べる。
獲物を自分でしとめて、それを自分で捌いて食べる。
妊娠して産んで、子どもを育てる。
そういう生き物としての人類のシンプルさを、思い出す。
悲惨とか苦労とか、そういうマイナスの言葉がどこかへすっ飛んでいく。ただ目の前の食糧、目の前の寒さ、目の前の危機。
主人公の自己憐憫のなさが、眩しい。 -
読み進めるうちに、この世界観は『ナウシカ』なのだなと気づいた。
主人公は姫様ではないし、蟲も出てはこないけれど。
そして、バイオレンスぶりには『マッドマックス』か『北斗の拳』が入っているけれど。
「訳者あとがき」によれば、村上春樹は原書を読んですぐ、これはぜひとも自分が訳さなければ、と気に入ったようだけど、『ナウシカ』や『北斗の拳』だと思えばそれもよく理解できる。
この人の世界観って良くも悪くも30年前から変わってなさそうだもの。
物語世界は確かに魅力的。
ディストピア世界をたった一人で生きていく主人公の、絶望的な孤独と、強烈な生命力の描出は素晴らしい。 -
読み始めてすぐに、読み手が重大な思い違いをしていたことを知らされる。また、間を置くことなく、軸となると思われた登場人物が、舞台から退場してしまう。何を軸に物語は進んでいくんだ?と皆目わからなくなるのが第一部の書き出し。
主人公の好奇心と行動力が、結果的に災厄をもたらしてしまうが、物語を読み終えるころには、全て善きこととした結果に収れんされる。舞台から退場したかに思われたもう一人の登場人物も、主人公の心の内で大きな影響を与えることから、やはり主要人物として物語に生き続けている。
大きな気候変動がもたらす、人類のそう明るくない近未来に、核施設の末路も絡ませた北極圏を舞台にした終末小説だ。終末小説の常として、社会秩序は崩壊し、暴力が人々を支配している。あるいは、他人は信用できないが、一人では生きていけない。自分が衰え、死に行く現実は受け入れるが、次世代に思いを残す・・・。キリスト教の教えに依る終末思想の常道かもしれないが、本作品の余韻は静かで、大きい。 -
『貧しい人々はみな同じような見かけになってきた。彼らは同じように暮らし、同じように食べ、同じ服を(中国の同じ地域で作られた服を)着るようになったのだ。父にとってそれは、人々が土地から切り離されたというしるしだった』
こんな一文に出会うまで、この物語は単に「田舎のねずみと都会のねずみ」のような少しばかり青臭い(ということは、少しばかり原理主義的な香りのする説教めいた)なおかつどこかしら牧歌的な古き善き時代を懐かしむ価値観を強要するお伽噺(お伽噺は往々にして説教臭いものだが)であるのかと思いながら、少し慎重に読み進めていたのだけれど、現代社会を瞬時に過去に置き去りにするようなこの一文にぶつかり、衝撃のようなものを受ける。
物語には、否定しようもなくアーミッシュ的な価値観は漂っている。だが、これは過去の(それは時間軸を遡るという方向性に併せて、文明の中心から周辺へという空間的な方向性の意味も持ち得るだろう。だからタイトルが指し示す方向へ勝手に顔を向けていたのに急にそれが酷く間違ったことであることに気付いて衝撃を受けるのだ)価値観を強要するための物語ではない。もしそう受け止めてしまうのだとしたら、それは読み手の内にそのような思いが既に存在していたということなのだと思う。ただ、そのようにして何かを喚起する言葉が溢れている本であることは間違いない。
進化という考え方に、どうしようもなくダーウィンの自然淘汰的なニュアンスを込めないでいることは困難だが、それは地質学的時間のスケールで起こることであるという、逆にゆったりとした感覚を我々に植え付けてしまってもいるのかも知れない。白亜紀の終わりに起きたようなことは、まさに天変地異のような稀な出来事で、人ひとりが生きている間に世の中の何もかもが根本的に変わってしまうようなことは起こりはしないと考え勝ち。しかし全ての仕組みは絶妙なバランスの上に成り立つもの。それを崩すのには案外小さな力で済む。
だからどうしろ、と言うのではない。その難しい立ち位置を保ったまま物語はすすむ。進化の歴史は一本道。後戻りは出来ない。人類が地球の所有者のように振る舞っているのもまた束の間のこと。人はかつて何十億年も大地に君臨したもののような巨大な骨は残せない。つつましやな生き方を想う。 -
久しぶりに、文章から景色や人物のイメージがふわ〜っと広がる楽しみを味わった。文章を読み進めていく途中で分かる事もあって、映像ではない小説ならではの楽しみ。
お話自体は近未来の話である。明るくないけど、こんな未来もありえそうなリアルさもあり、考えさせられた。 -
初読。
キリツと素敵な装丁。
「私」、メイクピースの極北の地での生活、
少しずつ状況が判明していくしかけや意外性。
過酷ながらどこかプリミティブな喜びが感じられるような描写、
それに対する文明への憧れや、もたらした絶望。
どちらにあるものも等しく公平に厳しくみている目。
だからなのだろうか、終末にも希望も存在するような。
「人は誰しも、自分が何かの終末に居合わせるであろうことを予期している。誰も予期していないのは、すべての終わりに居合わせることだ。」
世界最寒の地オイミヤコンのテレビ番組で観て以来夢中のヤクート馬、
この作品に出てくる馬もやっぱりヤクート種なんだろうか♡-
初めまして。フォローしてくださってありがとうございます。すごく嬉しかったです!雪っぽい作品がとても好きでいつもチェックしてしまうのですがこち...初めまして。フォローしてくださってありがとうございます。すごく嬉しかったです!雪っぽい作品がとても好きでいつもチェックしてしまうのですがこちらの「極北」は知りませんでした。すっごく面白そうなので、今度読んでみます!!2013/02/19
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終末というか絶滅の寸前だろうか。とある極北の地で街の最後の生き残りとして狩りや家庭菜園での厳しい暮らしを余儀なくされている主人公の物語。
極北という環境の厳しさ、人の心の極北、私たちの行く末の極北。本当の極北には「北」というものが失われてしまう。
何故そのような状況になったのかは深く語られない。
要因が一つではないことはうっすらと今の世界の状況を見渡してもわかると思う。
この作品を村上春樹が翻訳し始めたのが2010年の夏。
チェルノブイリを思わせる土地がひとつのキーとなっているこの物語を読んで、福島の災害を思い浮かべない人はいないだろう。
「ものごとが今ある以外のものになる必要を私は認めない」という言葉が極北で主人公が唯一得たもののような気がする。