ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))

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制作 : 石光 真人 
  • 中央公論新社 (1971年5月25日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121002525

ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))の感想・レビュー・書評

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  • 会津藩士柴五郎の手記を、石光真人が編集、後半部に第二部として”柴五郎とその時代”という簡単な略伝のようなものを付け加えたもの。ちなみに石光は、熊本県士族でのちに近衛士官、日露戦争にも従軍した石光真清の長男。兄は元白虎隊士、自身はのちに陸軍大将にまでなった柴五郎の戊辰戦争から明治11年まで収録されており、いわゆる”賊軍”出身者からみた明治維新がよく分かる。が、一部に石光の脚色が加えられていることなどが現在ではわかっており、読む際は若干注意が必要。

  • 会津人柴五郎が残した記録。時期は戊辰戦争の会津落城から西南の役くらいまで。

    現在殆どの人は知らないであろう会津藩のその後、全ての日本人に読んでほしいと強く思う。現在の学校の歴史の授業では絶対教えることの無い内容。

    かくいう私も会津から北海道へ開拓で移住した人々の子孫。先祖の艱難辛苦を改めて知ることができた。

    歴史は勝者が都合良く作るというのは確かな事実だろう。靖国神社が戊辰戦争のいわゆる賊軍を祀っていないことをどれだけの人が知っているのか。現在の自民党でも藩閥政治の名残りが強くある。

    貴重な一冊。さすが中公新書。

  • 柴五郎はあの義和団によって北京が包囲されたとき、勇猛に戦い、援軍がくるまでの間各国の大使館をも守り、西洋人の信頼を得て、のちの日英同盟のきっかけをつくった人として知られている。ぼくもずいぶん昔に本書を買ったのだが、そのままになっていた。今回手に取る気になったのは、内田樹さんが新聞で本書を推薦していたことがきっかけである。会津人の戦いについては、さきにNHKの大河ドラマで新島襄の妻八重を描いた『八重の桜』で知っていたが、本書を読むと幕府軍の残酷さがひしひしと伝わってくる。明治維新の見直しが昨今言われているが、会津藩主の容保は京都守護職として朝廷を守っていたにもかかわらず、徳川慶喜がだらしないものだから、いつのまにか朝敵にされ、しかも、恭順を願い出たにもかかわらず薩長軍によって総攻撃を受けた。さらに、かれらは公称3万石実質7千石という下北半島の火山灰地に配置換えされ、ことばでは言えないほどの苦渋をなめさせられた。しかし、その中でも何人もの逸材が出ているのは、会津人の不屈の精神のなせるわざではあるが、当時藩閥跋扈の世にもかかわらず逸材を取り立てようとした人々がいたことも事実である。柴五郎は当時まだ10歳でものごとがよくわかっていなかったが、祖母、母、姉妹は自害し、兄たちも戦死するものあれば、藩の罪を背負って何年もの間獄につながれたものもあるという悲惨な環境下で育ったが、さいわい取り立ててくれるものがあり、陸軍幼年学校に入り、最後は陸軍大将の位まで昇った。本書はその柴五郎が幕末の戦いからはじまり、四番目の兄(のちの東海散士)がアメリカへ留学するところで筆を折っている。あとの部分や柴が述べなかった部分は編著者の石光氏の「柴五郎翁とその時代」が補って詳しい。石光氏は、柴が亡くなる昭和20年の数年前に本書のもとになった原稿を託され、読みながら不明の箇所を尋ね書き上げたという。中公新書本は1971年の出版なので、その間になんらかの形で出されたものか。石光氏は本書が衝撃の書と述べている。明治100年からまもない当時からすれば確かにそうであろう。ただ、ぼくは柴が抜擢されたあと、家のことを思えどなにもせず、しかも牢につながれた姉のことをそのあとなにも書いてないのが気になった。また、貧乏な暮らしをしたせいか、性格的に屈折してしまっていることも気になった。西南戦争のとき会津の人々は競って討伐軍に加わろうとした。つまり、それはあくまで私憤から出たものであった。この五郎青年がその後どうやって世界から賞賛され、将軍にまで登ったか知りたいところである。(ネット出調べると光人刊から村上兵衛『守城の人』1992年が出ていた。本書は600頁を越える大著でぼくは今この本に挑戦している)

  • 薩長とは正反対の会津藩から見た明治維新、つまり敗者から見た明治維新だからこそ、強く考えさせられるものがあるのかもしれない。
    陸奥国に移封させられてからの生活は胸が締めつけられる思いだ。犬しか食べるものがなく、途中吐気におそわれて口に運べなくなった時に柴五郎の父が言った一言が忘れられない。
    『会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場ぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ』

  • 1971年刊行。◆戊辰戦争で敗れた会津藩士の記録と聴取調査録である。中でも、戊辰戦争後、会津藩士が移転させられた陸奥国二戸、三戸での奮闘録はなかなか目にする機会がないかもしれない。

  • 今まで読んだ自伝の中では一番面白い。また一人 尊敬すべき日本人が増えた

    もっと軍人時代の話が知りたい。福沢諭吉、西郷隆盛、吉田松陰と比較して、本が少ない。福島県へ行ったら、図書館、歴史館で 柴五郎の史料を探したい

  • 16/08/23。内田さんが推薦していた。

  • 名著

  • 旧会津藩士の息子として生まれ、義和団の乱で英国はじめ世界からその活躍を称賛された柴五郎の少年期の記録である。
    『城下の人』の石光真清の息子である石光真人が、柴が自ら記録、保存していたものを、柴の死の三年前に筆写する機会を得たことによって、公となったものである。
    本書には、1860年に会津に生まれた柴が、1868年の会津落城の際に祖母、母、姉妹を失い、移封された陸奥国斗南で寒さと飢えに苦しむ生活を送り、1873年に陸軍幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進むまでの記録が綴られている。
    明治維新については、薩長側から語られることが多く、佐幕の会津が戊申戦争後このような境遇にあったことに驚くとともに、石光真人が本書の第二部「柴五郎翁とその時代」で書いているように、「いったい、歴史というものは誰が演じ、誰が作ったものであろうか」との思いを強く持った。この思いは、2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』を見た際に更に強くなった。
    中立な歴史・客観的な歴史というものは存在しないのかもしれないが、「歴史」に接する際には、そのことを十分に意識する必要があることを改めて感じる。
    (2011年5月了)

  • 幕末史を考える中で、薩長主体が勝者の論理ならば、会津主体は敗者の論理であろう。しかし、本書は単なる敗者の主張ではない。会津人が受けてきた地獄の苦しみ、恨み、心の叫びを綴った、悲しき黙示録である。
    薩長が残した功績は、それはそれで偉大だったかもしれない。しかし、その後の堕落、専横、浪費は不都合な真実として抹消され、「勝てば官軍」で綴られた勝者としての歴史だけが残った。当然、一部の軽る者によって行われた会津への虐待も、本書が無ければ陽の目を見ることはなかったであろう。柴五郎と石光真清が友人で、真清の息子が本書を編纂したのは、何か因縁めいている気がする。

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