海軍と日本 (中公新書 (632))

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著者 : 池田清
  • 中央公論新社 (1981年11月20日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121006325

海軍と日本 (中公新書 (632))の感想・レビュー・書評

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  • 1981年刊。著者は東北大学法学部教授(敗戦時海軍中尉)。

     「近代的戦争を行う職業軍人に求められるのは、武人的気質ではなく、その勇敢さや武人的ロマンティシズム(暴力を如何に振るうか)を制御できる冷徹な情勢判断と、付与された任務に対する理解と順守」である。
     かような人材の欠乏がアジア・太平洋戦争期の日本海軍の実情であり、ひいては敗戦を招いた。
     かかる至極当然の発想と視点を基軸にして、海軍の在り方を多面的に解説する書だ。

     貴重な人命と資源を費やす以上、勝ち戦ですら厳しい分析を為すべき中、敗北であれば猶更である。そういう意味で、本書の日本海軍への厳しい視座と指摘を見れば、まともな検討書に値すると考えられる。

     記述内容には種々あるものの、まとめとしては、①第一次世界大戦の戦訓を真剣に検討したのか、②革新や改革は、自己と先人の無謬性の否定に始まることを理解できていないのではないか、③政治と外交は種々の妥協の産物とその積み重ねでしかないことを理解していない。④軍備や軍事行動も政治や外交の一部門でしかない点を理解していない。辺りか。

     一方、個人的な新奇事項は次のとおり。
    ⑴戦間期の、潜水艦・航空機に関する独からの技術供与。日独海軍交流の端緒と英からの離脱。⑵海軍の南進論の系譜。⑶さほど生産性は高くないとの零式への評。⑷陸幼→陸大教育の典型的悪例として佐藤賢了将軍の長演説。具体的には、要点を詳らかにできない意味での能力欠如に加え、声のでかさに長舌の弊と、沈思黙考の不足。⑸海軍ですら、昭和期になるにつれ語学と国際法の軽視傾向。⑹海軍における人材育成目的の予算は米国の五分の一。まさに現在の大学教育を彷彿とさせる事情か。

     疑問点として、ⅰ)海軍の士官・将校の合理性・理数系思考の重視と人文科学・政治への忌避を言うが、果たして信に合理的か?。どの範囲での合理性か?。ⅱ)実証的・考究的の意であれば、著者が海軍批判として挙げる大艦巨砲主義の蔓延という誤謬の認識が関係者に広がるはず。

     なお、現代の高等教育機関、殊に防衛大学校において、他国の陸海の対立とその止揚、その方法論。あるいは軍制の特徴とその長短など現在はもとより史的に解読する研究者がいるのかな?。
     戦術や戦略(ここには、当然外交を含むが)だけでは駄目なことが本書から伝わる。

     さて、対米敗戦を予見し、戦前発禁処分を受けた「興亡の此の一戦」著者の水野広徳元海軍大佐を再想起させられた書である。

  • 元海軍中尉だった筆者が旧海軍の体質をえぐり出した著作。通説に対する自身のわだかまりは3つに大別できるという。

    1.時代遅れの戦争観・作戦指導を棚上げにしたアメリカの圧倒的物量に対する敗北論。希望的観測で悲観的情報を抑え込む独善的情勢判断、参謀任せの作戦指導、艦隊決戦主義の盲信、「海戦要務令」の聖典視。日米の物的ギャップの裏にある人材不足。2.ワシントン体制、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、五・一五事件など、大正・昭和期の海軍は政治外交に深く関わってくる。満州事変後、特に中国問題について海軍はどのような認識をもち、どう対処したのか。国際情勢をよく理解する良識的な指導者たちが次第に排除されて、どうして勝ち目のない戦争へのめり込んでいったのか。3.陸軍へのブレーキ役として期待された海軍がどうしてその役割を果たせなかったのか、またその体質はどのようにして形成されたのか。陸海軍諸学校での教育方針の相違、実践能力よりも士官名簿の順位を重視した学校秀才優先の人事、技術偏重。

    「短剣と白手袋に象徴されるスマートな清潔さの奥に潜む、このずるさと無責任さとひよわさには、明治以来の日本の知識人一般と相通ずるものがあるように思われる」。「極東無名の非白人国日本を国際政治のひのき舞台に引き上げるのに大きく貢献した海軍は、また破滅の淵に日本をひきずり込む役をもたしかに果たした。その大きな歴史的責任について、まだ十分に究明されたとは思われない」と執筆動機を書いている。

    1.「海戦要務令」に関しては「第二篇戦闘」が記されている。
    〇戦闘の要旨は攻勢をとり速やかに敵を撃滅するにあり。一時守勢をとることあるも時機を得ば決然攻勢に転ずべきものとす。戦闘の要訣は先制と集中にあり。……戦艦戦隊は艦隊戦闘の主兵にて敵主隊の攻撃に任ず。
    〇潜水戦隊は他部隊と共同し単独敵主体の攻撃に任ず。
    〇航空隊の戦闘は友隊に協力し、敵主隊を攻撃するを本旨とす。攻撃機隊の敵主力に対する攻撃は決戦の時期に投ずるを本旨とす。
    「大鑑巨砲や艦隊決戦主義の風潮は、大なり小なり日露戦争後の世界的な傾向であった。だが日本ほど(略)戦艦中心・艦隊決戦の戦術的発想が先走って神話化され絶対視されていた国は、ほとんど世界に例を見なかった。そしてこの艦隊決戦主義を教条化し、海軍士官を精神的な動脈硬化に陥らせたもの」であり「潜水艦も航空機も、すべては艦隊決戦のためのものであった」。
    山本五十六は早くから航空機の重要性に着目し、海軍大学校の講義で、将来の軍備は航空第一主義たるべしと主張した。「いわゆる航空決戦の思想は、昭和一五年三月の「海戦要務令」(航空戦の部)の草案にあらわれてはいるが、大鑑巨砲主義にこり固まっていた海軍首脳部の大勢を支配するものにはならなかった」とされている。しかし、山本以上に航空第一主義を唱えたのが井上成美であり、「従来の大艦巨砲主義をこき下ろし、海軍の空軍化を主張しただけのものではなく、来たるべき太平洋戦争の様相を驚くほど正確に予想したものでもあった。日米戦争では艦隊決戦は起こらず、航空基地争奪の攻防戦になるだろうと(略)予測し、警告した」が、「将来起こるはずもない艦隊決戦のための「旧態依然たる軍備計画」にやっきとなっている海軍首脳部の頭の硬さに対する、彼のうっぷん」をもらしたという。ここに、首脳部の「艦隊決戦主義の盲信」、「「海戦要務令」の聖典視」が見受けられる。

    2.1922年のワシントン会議で戦艦保有比率対米英6割と決定されたことで海軍内では不満がくすぶっていた。1930年のロンドン海軍軍縮条約では補助艦の比率が決められたが、ここでも対米英6割と決定された。「政府首脳部、外務省、重臣層、世論が、大局的見地からロンドン軍縮条約の締結を歓迎したのに対し、海軍側、ことに軍令部系の不満にはきわめて激しいものがあった」。海軍省側としても「海軍としては今次の米提案をそのまま受諾することは不可能」と民政党の浜口雄幸首相に進言したが、「浜口首相は「政府としては会議の成功を望むこと切なるものあり、会議の決裂を賭するごときことは至難」と反論して、海軍の再考をうながした。いっぽう、すでに日米妥協案受諾のはらを決めていた外務省は、海軍側に相談することなく、幣原外相自ら筆をとって回訓案の作成に着手した」。「こうしたいささか独断的な幣原の内政感覚の欠如が、海軍側の疑惑と不満を高め、彼らの態度をいよいよ硬化させた。こうして、首相・外相を向こうにまわして海軍の不満がいちだんと明確になった」。ここで問題となるのが統帥権干犯問題である。大日本帝国憲法第一一条において「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。「統帥大権」と呼ばれるものである。統帥権は輔弼外と理解されており、政府は関与できない。一方、第一二条では「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」とある。こちらは軍部大臣の輔弼の範囲内だと認識される。しかし、第一一条と第一二条の線引きは曖昧な部分もあり、長らく放置されてきた。ここを突いてきたのが条約反対派だった。条約反対派にも統帥権干犯論までは出ていなかったものの、特別国会が開かれる頃から「政府が軍令部長の同意を得ないで回訓を決定したことは統帥権の干犯である」と軍令部の態度が硬化した。その内実は「政友会がこの問題を倒閣の手段に利用しようとして議会で民政党の政府を追及し、条約反対派の不満に火をつけた」のである。結果的には「統帥権干犯問題をめぐる騒動は、軍事を知らぬ政治家たちが、政治を知らぬ軍人たちを党略に利用し、結局は自らの墓穴を掘ることになったよい一例であろう」と結論づけている。
    1931年の満州事変後の海軍は不拡大方針をとるが、一転して翌年1月に上海事変を起こした。「満州事変に関し国際連盟が派遣したリットン調査団の現地到着に先手を打って、上海出兵によって世界の目を満州からそらし、満州国の建国宣言(昭7・3・1)という既成事実をつくろうとしたのである。たしかな情報のない海軍は、この陸軍の謀略にひっかかり、踊らされたといえる」。
    1937年、日中戦争の発端となった盧溝橋事件が勃発する。日中戦争の処理について海軍中央部は二つの点で戦争拡大に責任があるという。第一は、事件直後は米内海相が日中全面衝突になるのを恐れ、内地陸軍三個師団の出兵に強く反対していたものの、上海で中国保安隊員に海軍中尉と一等水兵が殺害されたのを受け、「海軍中央部はしぶる陸軍をむしろ逆に引きずって上海に出兵させた。第二次上海事変である。(略)米内海相の強い要請で上海への陸軍派兵を決定」した。米内海相は八月一四日の閣議で「かくなる上は、事変不拡大方針は消滅し、北支事変は日支事変となった」と発言。南京占領の必要性を述べ、翌一五日、海軍航空隊は上海と南京を渡洋爆撃した。ついに北支事件は「支那事変」と改名された。第二は、「米内海相が翌昭和一三年一月一六日の近衛声明(「爾後国民政府を対手とせず」)に安易に同調して、日中関係打開の道を閉ざした責任である。中国での戦火は拡大の一途をたどり、一二年一二月一三日南京が陥落した。その前日南京付近の揚子江上で、アメリカ砲艦「パネー」号が海軍航空隊の村田重治機によって誤って撃沈され、日米間の国際紛争を巻き起こす一幕もあった」。
    「海軍上層部は「日米戦うべからず」と信じ、なお親英米の伝統に忠実であったが、中堅や下級の将校の反英米感情は、満州事変以来の日本の国際的孤立が深まるなかで、しだいに増幅されていった」。海軍内部では反英米感情から親独感情が醸成されており、対独接近がはじまっていた。「その一つの積極的理由は、日英同盟および日英軍事協約の廃案によって、日本海軍がそれまでイギリスから受けていた技術的援助を得られなくなり、かわってドイツに新技術を求めだしたのである」。
    1940年に入ってもヨーロッパではナチス=ドイツの勢いはとどまらず、陸海軍の中では「バスに乗り遅れるな」と「日独伊提携強化論が勢いよく再燃した」。良識派の海軍三羽烏と呼ばれた米内光政・山本五十六・井上成美はそれぞれ「そのころ米内はすでに現役を退き、山本は連合艦隊司令長官へ、井上成美は航空本部長へと転出し、同盟反対派はもう海軍軍政の主流から除外されていた」。
    1939年、アメリカから日米通商航海条約廃棄通告がなされ、翌年失効した。1940年にはくず鉄の対日輸出を禁止している。また、1941年の日本の南部仏印進駐によってさらにアメリカは態度を硬化させ、アメリカは石油の全面禁輸を打ち出した。日本が1939年の段階でアメリカから輸入していた石油の割合は90%だった。資源をめぐる対米依存の脱却からも豊富な資源を有する南方への進出が海軍部内だけでなく国民全体にも急速に広まっていった。
    ここで問題なのは、楽観的過ぎる軍部の情勢判断であり、日米戦を不可避とさせたといっても過言ではない南部仏印進駐を軽視しすぎていた点である。「問題は、彼らがこの時点においてすら、在米資産の凍結、石油の対日全面禁輸というアメリカのすばやく厳しい対抗措置をまったく予想できないほど国際感覚が鈍かったこと」と指摘している。海軍の生命線である石油の禁輸すら楽観視していたことは、今後石油や資源を求める南進論が強くなっていく方向に繋がっていく。やがて日本は対米交渉を進めるも、やむなく日米英蘭開戦、太平洋戦争へと突入していくことになる。

    3.対米戦は海軍の担当だった。つまり、海軍が「戦争はできない」と言えば対米戦は回避できたはずだというのが通説になっている。よく引用されるのが近衛文麿の私邸、荻外荘での五相会議だ。「陸軍にとって、太平洋戦争開戦前の海軍の煮えきらぬ態度は、「決意なき前進」「大勢順応主義」の極致と映じたのである。荻窪五相会談(昭16・10・12)がその最たる例で、及川海相は、海軍が戦争ができないとは明言せず(略)、和戦の決は総理に委せたいと責任を回避した」。海軍は仮想敵国をアメリカとして予算や資材を獲得してきた。ここにきてできないとは決して言えなかったのである。このような政治性のなさがどのように育っていったかは海軍の性格や海軍兵学校での教育にも関係がある。「兵学校の成績したがって卒業席次は、理数科に強い学校秀才型の青年有利であった(略)連隊で隊付勤務をして階級が進んでいくという陸軍士官学校と比較するとき、陸海軍の将校の気質の相違を生み出したものはその学校教育にあるといえるし、陸海軍の対立は、教育によって相互の価値観が異なる以上、これもまた必然的なものでもあった。海軍では、陸軍における陸大ほどに海軍大学出身者を重視しなかったから、海兵卒業席次、いわゆる「ハンモック・ナンバー」が昇進に大きく影響した」。「井上成美兵学校長は、兵学校卒業成績と最終官職について興味深い研究を発表している。それは、兵学校三~四年間の成績が、卒業後二五年の勤務成績に匹敵するほど大きい影響を与えているという指摘」である。また、「海軍は、小世帯のうえに、おおかたが艦船勤務で海上にあるか、ないしは横須賀、呉、佐世保などの限られた軍港都市に集中し(略)国民一般からは孤立していた(略)陸軍将校のように徴兵出身の大衆およびその家庭を通して日本の現状を知る機会があまりなかったのである。政治性が育つ素地は最初から乏しかった」。「とっさに臨機応変の対応ができる人物は、模範解答づくりのうまい学校秀才からは生まれにくい。「独断専行」をより重視した野戦派の陸軍将校に比べ、学校秀才型の海軍将校はスマートすぎて野性味に欠けていた」とされている。海軍は明治期からイギリス海軍に倣ってきた。ここでは徹底的なエリート教育を受けた、イギリス流のスマートさが要請された。しかし、「在米大使館の武官補佐官山本親男大尉は、武官の山本五十六に「軍人は政治にかかわらずですから政治に関する本はあまり読みません」と言ったら、「軍人は政治がわからないでは駄目だ」と一喝くらった」という。先ほどの及川海相の非政治性につながるところを感じる。

    以上、随分長くなってしまったが1~3の問題提起に対する考察をした。航空機主体の時代が訪れると意見していた山本五十六や井上成美の論は、時代錯誤の首脳部の大艦巨砲主義によって相手にされなかった。統帥権干犯問題では、政友会に取り込まれ党利党略に利用された。満州事変や日中戦争の勃発は陸軍にスポットがあたることが多いが、上海事変は陸軍に引きずられたとはいえ、満州から世界の目をそらすための謀略であり、第二次上海事変はむしろ海軍が進んで陸軍を引きずり出し、それは「支那事変」へと発展させた点で責任がある。
    戦後「海軍=善玉、陸軍=悪玉論」が広まったとして、筆者は当時の陸軍中将・佐藤賢了から話を聞いた際、佐藤は「海軍側は勇気に欠けズルかったという印象は、今でも変わっておりません」と言い、先ほど挙げた及川の例に関係して、1941年10月7日に東条陸相と及川海相が会談して及川が「海軍は戦争に自信がない。永野軍令部総長の自信というのは緒戦だけのことで、二、三年後のことはさらに検討を要す」と述べたことを引き、その上で先ほどの荻外荘での及川の態度について言及している。
    また、元東京大学総長南原繁には「主に海軍を対象にした極秘の終戦工作をなさったと承っております」として当時の話を聞いているが、「昭和期の海軍は腰が弱く、また陸軍に劣らず勇ましい軍人や無責任な軍人もあらわれて、せっかく先輩が築いた良識的な海軍の伝統を崩していったといえます。海軍諸学校の教育方針や人事行政にも大きな問題があったのではないですか」と鋭いところをついている。これは他の本で読んだことだが、戦争中に適材適所での人事異動ではなく平時と同じ人事異動をしていたという。これも問題点の一つだろう。また、海軍兵学校での「ハンモック・ナンバー」に支配された人事制度やイギリス流のスマートさを身に着けることでの国内政治や一般国民との乖離も問題であった。

    著者は一貫して「海軍の政治力のなさ」を強調している。それは、「スマートな海軍軍人」というイメージを追求した結果であったのかもしれない。しかし、統帥権干犯問題や第二次上海事変ではむしろ海軍がリードしていた。
    一方で、太平洋戦争開戦の過程で及川海相が自分からは「対米戦不可」と言えなかったのは組織としての海軍の代表として、口が裂けても言えないというある種の政治力のなさだったのかもしれない。「海軍=善玉、陸軍=悪玉論」では語れないことを、実例を挙げながら論じた点について評価すべき著作。ただ、テーマによって時代が行ったり来たりしていたのでその点が少し読みにくかった。

  • 「帝国海軍を今日において保全すること能わざりしは、吾人千載の恨事にして慙愧に堪えざるところなり」という最後の海相米内光正が述べた海軍解散の辞というものを初めて知った。本書の冒頭に唐突に始まる解散の辞は、おそらく当時海軍中尉だった筆者に深く刻まれた言葉であったことだろう。

    1981年初版の本書では、現在において比較的に通説となっているであろう海軍の体質批判が多々ある。たとえば、建前上は国政に不干渉の姿勢をとりつつもロンドン軍縮のときのように政党を使ったり統帥権を持ち出して間接的に影響力を行使してくるとか、スマートぶって陸軍の暴走を止めようとしなかったとか。戦後の軍部解釈の大きな見方であった陸軍悪玉、海軍善玉の風潮を批判している。
    海軍の欺瞞のひとつは、海軍が日米開戦を避けたかったのであれば、どうして陸軍の大陸進出や国政干渉に異議を述べなかったかということだと思う。敵をつくることを避け、米英と戦わば必負とも言えず、自身で築いた干城に安住していたと見られても仕方がないといえる。筆者は海軍の軍人には英国流の貴族的教育の影響があったなど、様々分析を凝らしている。
    また、戦術的な問題点も実例を挙げて描かれている。よく言う大艦巨砲主義に凝り固まっていて、航空戦力や対潜能力や通商破壊について疎かったなど。比較的によくあるというか、ステレオタイプな批判であるが、国力の小さきが故に艦隊決戦で即決を望み、補助兵力を頼み、シーレーン防衛を後回しにせざるを得なかったというのが今日的な見方なのかなと思う。最後の3ページにある海軍中将のインタビューで「第一次大戦後の海軍における教育はヨーロッパの戦訓の吸収に性急で…」とあるように、近代戦の理解はあったのだと思う。その理解のもとで、なぜあのような布陣で海軍が日米開戦に臨まなければならなかったのかという視点が要請されるのだと思う。

  • 海軍中尉で終戦を迎えた著者が帝国海軍について論じる。初級の士官とはいえ内輪の人間として厳しい批判も。
    暴力の管理者としての役割の大きい近代の職業軍人は古典的武人と違って冷徹な情勢判断や自らの任務の明確な理解といった高度の平凡性が求められるとの指摘。
    戦前の日本の軍人は総力戦について真に理解しきれていなかった。海戦要務令の聖典化。勝ったと思うとさっさと引き揚げる淡白さ。デモクラチックな陸軍に比べ志願兵が多い職場環境であり、僻地で貴族教育を受けた海軍士官の根無し草の国際主義。親英から反英に至る流れ。海軍善玉論が一般化されてるが、実際は泥をかぶる覚悟に欠けて陸軍を抑えることができなかった事実など?

  • 海軍兵学校卒の経歴を持つ東北大学名誉教授の池田清(1925-2006)による帝国海軍論。

    【構成】
    1 海軍と戦争
     序 プリンス・オブ・ウェールズの最期
     (1) 艦隊決戦の光と影
     (2) 海戦要務令の功罪
     (3) ゼロ戦と大和
     (4) なぞの反転
     (5) 武人的ロマンティシズム
     (6) 見切りの早さ
     (7) 三つ巴の戦争指導
     (8) 他力本願の戦争観
    2 海軍と政治
     序 勝つ見込みのない戦争
     (1) 悲劇のロンドン会議
     (2) 統帥権騒動
     (3) 軍縮条約の波紋
     (4) 海軍の「中国」認識
     (5) 政治家としての米内
     (6) ドイツの眩惑
     (7) 海軍の南進政策
     (8) 運命の仏印進駐
    3 海軍の体質
     序 根無し草の国際主義
     (1) 海軍と陸軍
     (2) イギリスと明治海軍
     (3) 薩閥から学閥へ
     (4) 教育・進級・人事
     (5) 異端の排斥
     (6) 親英から反英へ
     (7) 海軍の責任

    海兵を昭和19年に卒業した著者が、日本帝国海軍の歴史を振り返りその体質を批判的に論じる、これが本書のスタイルである。海軍は陸軍ほどには、時代によって変質しなかったからこそその歴史を論じやすいのかもしれない。

    太平洋戦争における海軍善玉論など、海軍関係者の自己弁護であり、陸軍への責任転嫁なのは間違いない(無論陸軍には海軍以上に責任がある)。著者は建軍以来の帝国海軍の軟弱ぶり、国際情勢認識の甘さを厳しく追及する。結局、陸軍が満洲掌握と中国本土攻略を目標として日中戦争を遂行していたにも関わらず、さしたる目的もなく米英との海上での総力戦を開始してしまった。これこそが帝国政府の本質的な欠陥である政戦略不一致、陸海戦略不一致が極まった瞬間であった。

    近代日本における最重要課題である中国問題について、海軍軍人にまともに情勢分析ができる人間が皆無であった(野村吉三郎あたりは冷静に観察していたのであろうが)。国際政治を理解せず、合理的な科学技術から精神論に傾いた帝国海軍滅びるべくして滅びた言わんばかりの主張はある種の結果論であろう。しかし、政治的影響力において陸軍に遅れをとったとは言え、近代日本史上の重要ファクターである海軍とはいかなる組織であったを考える一つのヒントになるだろう。

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  • 20060719

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