- Amazon.co.jp ・本 (194ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121015211
作品紹介・あらすじ
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し南北朝時代の幕を開けた動乱の立役者、天皇親政を復活させ全国支配の規範を示した専制君主、死後も怨霊として足利政権に影を落としつづけた存在と幾つもの貌を持つ。本書では、彼に討幕を決意させた両統迭立の中での立場や、その王権を特異ならしめる芸能や密教への深い関心、海外との交流を当時の社会的文脈に即して読み解き、後醍醐政権の歴史的役割を探るとともに、多面的な後醍醐像を提示する。
感想・レビュー・書評
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後醍醐の吉野脱出によって南北朝の内乱が始まる。南北朝の内乱は長く続き、皇国史観(南朝史観)とは逆に朝廷の権威を下げる結果になった。後醍醐天皇は自分が唯一絶対で正しいと思っているが、南北朝の対立によって政争の対立側が南朝を担いで徹底的に対立するようになるため、戦乱は長引いた。
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本書は後醍醐天皇の幼少期から歩みを追いながら、その政治志向について読み解いている。鎌倉幕府の討幕に向けて彼は執念を燃やすわけだが、その動機がどこから生まれてたのか。そして天皇専制という建武政権のアイデアはどうやって成立したのかを書いている。
討幕志向の中心に据えられているのは「一代の主」の克服である。後宇多上皇はその長子である後二条天皇の没後に大覚寺統の中心として後醍醐天皇を践祚させるわけだが、それはあくまで嫡孫の邦良の成長を待つまでの中継ぎに過ぎず、後醍醐天皇の地位は一代限りのものだと定めたことにある。後醍醐天皇は践祚にあたってこの一代の主の約束にあり、その所領もことごとく邦良に譲渡することになっていた。後醍醐天皇はこの一代の主を克服し、自らの系統に天皇を継承させるべく、このスキームを定めた鎌倉幕府を討幕する動機を持った(p.58ff)。
元弘の変の背景にもこれがある。1326年3月に東宮(皇太子)邦良が没すると、後醍醐天皇にとっては「一代の主」の軛を外れて自らの子孫へ天皇を継承する最大のチャンスである。だが、この次の東宮は後醍醐の子の尊良ではなく、鎌倉幕府により持明院統の量仁が立坊したのである。
「ここで見逃してならないのは、邦良のあとの東宮のポストに量仁が据えられたことが、後醍醐にとって大きな脅威だったということである。量仁が践祚することになれば、後醍醐は即時退位しなければならないからである。しかもそのキーは鎌倉幕府が握っている。後醍醐にとって幕府を倒さない限り、将来は開けれないといって過言ではない。後醍醐がここで危機感を新たにし、元弘の変へと向かう第二次討幕計画を急ピッチで推し進めたであろうことには推測にかたくない。」(p.68)
とはいえ、討幕の動機を自らの子孫に天皇を継がせるという点に求めるのはやや凡庸な感も持つ。他には鎌倉幕府が弱体化するにつれ、聖王・賢王待望論、天命思想があることが書かれている(ただし、それは建武政権後30年も経つとすでに薄れている)(p.11-14)。
後半部分は後醍醐天皇の勢力掌握の一環として、地方の国分寺に対する影響が書かれている。例として長門・周防の国分寺への影響の与え方がやや詳細にわたって書かれており、どちらかというと京都と吉野に限られがちな建武政権の記述として面白いものだ。
また、後醍醐天皇の「異形さ」を様々な領域に見出していく箇所も面白い。詩歌や音楽、密教に対して後醍醐天皇は関心が深かった。だが、著者によればそれらも自らの権威付けという政治志向のもとにある(p.159)。自らの権威付けのためにはそれまでの天皇があまり関わらなかった領域や勢力も積極的に取り込んでいく、という点に後醍醐天皇の「異形さ」を見ている。 -
後醍醐天皇の一生についての概説
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後醍醐天皇の人柄、背景、思想などに焦点を置いた一冊。そのため必ずしも歴史を追って細かに事象を解説するわけではなく、まずはそういった知識を得てからの読書をお勧めしたい。
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先生におすすめされて
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皇子があるなら帝もないと(笑)
ある意味超人であった後醍醐天皇像が鮮やかに思い描けます。