ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

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著者 : 正高信男
  • 中央公論新社 (2003年9月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121017123

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)の感想・レビュー・書評

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  • 著者は比較行動学が専門。
    霊長類の観察から人類の文化的進化を解き明かそうとする。現代人に顕著な行動の深層を追及している。
    タイトルに反して?かなり専門的な方法論で現代人の行動を解明している。単なる観察分析だけでなく、たくさんの実験結果を踏まえた分析もユニークで面白い。

  • メル友からの意味のないメッセージに、意味のない返事をするヒトの行為は、存在を知らせるためのサルの鳴き声と何ら変わらない。

    いやまさにその通り。

    だが時代は変わった。
    スマートになったのだ。ヒトではなくケータイが、である。
    ついにヒトはケータイにライフスタイルを支配されるようになった。

  • ≪読書会紹介図書 2016.3.1≫
    テーマ:いちばん衝撃を受けた本

    【所在・貸出状況を見る】
    http://sistlb.sist.ac.jp/mylimedio/search/search.do?target=local&mode=comp&materialid=10301164

  • 自分の家庭や職場に照らして考えると、なるほどと思えてくる。サルの生態から現代の社会の問題を論じるのは大変面白く、妙な説得力がある。

  • 最初はキャッチーで、題名から携帯批判かと思っていましたが、人類学的に現代の日本人の生活習慣を批判しているに留まっています。

  • 著者はもともとサルの研究者だけれども、子どもの成長や老人のことにも興味を持って取り組まれている。どの本を読んでも、よくまあこんな実験するなあ、と思われるようなことを次から次へやっている。今回は、著者が用事でたびたび渋谷の街に訪れるようになったのがきっかけで出来上がった。電車の中でも平気で床に座り込んでいる高校生。夏でもルーズソックスをはいて暑そうな女子高生。電車の中で化粧をしたり、ケータイで大声で話したり、常にメール交換をしている若者。いったいこの人種は何者なのだ。と、そのとき著者は気づいた。自分はサル学者だ。動物の行動を研究するのが自分の仕事ではないのか。こんなおもしろい対象が目の前にあって放っておく手はない。そして出来上がったのが本書である。電車の中で化粧をしたりベタッと床に座ったりするのと、引きこもるのとは同じ現象だと著者は考える。自分の世界に入り込んでしまう。それが外に出るか内にこもるかの違いだけだというのだ。メル友が100人いたからと言ってそれが本当の友人と言えるのだろうか。他人と関係を持つことができない、コミュニケーションがとれない人が増えていると言われている。少し長くなるが実験を紹介しよう。メル友300人以上の女子高生(ケータイ族)とケータイを持っていない女子高生(非ケータイ族)に集まってもらう。そこで2人1組でこういうゲームをする。2人の最初の所持金は5000円ずつ。第1のプレーヤーは第2のプレーヤーに賭けるか賭けないか2つの方法が選べる。第2のプレーヤーも同じ。賭けると自分の5000円を支払うため自分の所持金はなくなるが、相手には新たに10000円が渡される。つまり相手のプレーヤーの所持金は15000円となる。第2のプレーヤーも賭けるか賭けないかを選べる。4つのパターンが考えられるのが分かるだろうか。①2人ともが双方に賭ける。すると、2人の所持金はそれぞれ10000円ずつとなる。②第1のプレーヤーが相手に賭けたにもかかわらず、第2のプレーヤーは賭けない。すると、1人目は手持ちがなくなり、2人目が15000円もらうことになる。つまり抜け駆けということ。③これはあまり起こり得ないが、第1のプレーヤーが自分に賭けてくれなかったのに、第2のプレーヤーはお金を出すという場合。1人目は15000円が手に入り、2人目は手持ちがなくなる。2人目の人はちょっと「おひとよし」ということ。④2人とも賭けない。この場合は2人とも所持金は5000円のまま。どうだろう、自分ならどうしますか。①のパターンが2人の所持金合計を加えれば最も有利ということになる。でも、自分のことだけを考えれば②を選んでしまうことになる。さらに2人ともが双方に関係を持ちたくなければ、④になる可能性が高いだろう。さあこのゲームをケータイ族と非ケータイ族に別れてやってもらう。結果は想像がつくだろうか。詳しくは本書の4章をお読み下さい。非ケータイ族では①のパターンが多いけれども、③になることもあるというからおもしろい。情けは人のためならず。5章にもおもしろい実験がある。その説明はできないけど、ぜひ自分でもやってみてほしい。世の中豊かになり、どんどん便利になっていく。しかしそれが本当の幸せに通じているのだろうか。著者はそんな問いかけを読者にしている。そして今世紀中頃には日本人はもっとサル的(?)になっているのではないかと結んでいる。

  • タイトル通り、人間と猿との違いを例に挙げながら、行動学なども織り交ぜた、現代人へ警鐘を鳴らすないようだと思う。実験や様々なデータを基に、著者の考えがまとめられている。
    「ひきこもり」「ケータイ依存症」「少子化」「社会性の欠如」など、便利なツールであっても、使い方次第で人間性が失われていくのだと感じた。

  • もう締切が迫って迫ってしょうがないレポートをやっつけるためにサクサク読めそうな駄本を探したのはいいものの、これじゃレポート倒せないかもしれない……締切に追われたときにこそ急がば回れですね。駄本すぎてもうだめ……

    ※激しく遠慮のない批判が並んでいます。本当にごめんなさい。

    1章:
    無理があるからー! いろんなところで無理があるからー!
    (1)ニホンザルの世界は果たして本当に狭いんですか! 日本の農村社会も外部との接触などほとんどなく、著しい工業化だの近代化だののおかげで外部との交渉が増えたわけで、それってここ1世紀ちょいの話なんですよね! 要するに人類の歴史3000年のうち、わずか1/30の時間に起こったことを、人類の偉大なる理性の軌跡……とか言われましても! そりゃ知識の蓄積はあるでしょうが、その著しい発露はめっちゃ最近の話だし、そもそも大多数の人は狭い世界で生きていたはずで、しかもその狭い社会の中に厳しすぎる社会の掟があったわけなのです。村八分とか被差別部落とか! だから世界の狭さと狭い世界の中の環境の厳しさって別に相関関係にないと思うんだけどなー! 完全にオッサンが年食って、過去の業績で得た地位にあぐらかいて適当な妄想垂れ流してるだけじゃないですかー! ちゃんと実証しろ! という1章でした……中公新書ってこんなエッセイ出していいとこだったっけ!?

    (2)アメリカとアフリカと日本とサル(!)の事例を出しているわけですが、なんで日本≒アフリカ≒サルだとヤバくて、しかもアフリカ<日本<サル の順でヤバいんだろう……というかそもそも、理性的って言葉を、「規律に従う」という狭い意味で捉えすぎだろ。若者にとっては集団で暮らしたほうが規模の経済的な意味でコストがかからないんだから、パラサイトというのはいろんな意味で合理的なのだよ、衣食住、精神面、そして社会生活を営む上でも! とするとこれは合理的rationalなのです! そして理性的rationalは、合理的rationalも内包する言葉なのであってな……みたいな細かい話はともかく(だいたい人にって定義違うしな)、日本のパラサイトシングルだのなんだのの議論は、そもそも若者の経済状況と切り離して語ることが愚かだって、山田先生が「パラサイトシングル」って言いだしたころから批判があった気がするんだけどもー……山田先生が本出して4年後の本なのに、これいかに。というか母子がしっかり幼児期に愛着関係結んどけば、その後の自立がスムーズなので良いって本もたくさん出てるわけで、安心できなければ人間は自立さえできないっていうのが結構実証されてたような。あと子どもが親に依存していて、それを親が許す、というのはあまりにも家庭に対して理解がなさすぎる。家庭関係の勉強一切せずに家庭を語るなよと言いたい。でも子育て関係の本もいろいろ出してるんだよなあこの人……いったい家庭というものに対してどういう勉強の仕方したらそういう結論が出るんだ。本の好き嫌いし過ぎなんじゃないのか? ではなくて、母子密着の子育てがそれなりに合理的だからサルも人間もやってるのであって、アメリカ式子育てもそれはそれで問題視されてた気がするんだけども、っていうのと、ラクするってのは合理化の極みで、ラクするために知恵を絞ってきたのが人間の歴史だと思うのよね。そして生まれた環境が厳しかった奴ほど、厳しい環境を乗り越えるために知恵を振り絞ってどうにか人生を切り開いてきたから、より難しい状況にも対処できるようになってるってのはわかる。そしてそういう奴が世の中で結果的に重宝されることはあっても、不必要な苦労に押しつぶされそうになりながら生きている奴を極力減らせば、そっちのほうがずっとハッピーなんじゃないの? 居心地がいい環境でぬくぬくできることをバカになることと定義する人多いけれども、居心地の悪すぎる環境を生き抜いてきた当人には、そう思ってない人も多いわけで……脱線してきたな。とりあえず、無理に苦しい人生を送ろうとすることほど非合理的なことはなくて、その先にさらなるメリットがあるなら苦しい人生を送るメリットはあるが、そうとも言い切れないのにしんどい人生を送る必要はない。あれ? やっぱり脱線してるな……

    2章:
    (1)なんで毛づくろいの時間=子供への投資額 になるんだよ! しかもなんで都市型ホワイトカラー家庭限定で調査を行ってるんだよ! 意味が分からない! ぜんぜん因果関係がわからない! だいたい、飼われているサルとそうではないサルとで毛づくろいの時間を比較したのであれば、少なくとも経済的に困らないホワイトカラーと、経済的に困っているブルーカラーとで別に統計を取るべきじゃないのか? しかも平均年収1000万円くらいを「ふつう」の都市型家庭って、この人感覚的にものを書いてるんじゃないだろうか……自分が年収1000万円以上あるから、他の人もそのくらいが普通だろう的な……

    (2)それから、愛情≒金額、という図式がまずおかしい。子どもに手間暇かけたくないからお金をかけている家はかなりあるだろうし(特に共働き)、それを夫の小遣い額と比較するあたりが、「愛してるんならもっと金をくれたっていいだろ」「俺と子供とどっちが大事なんだ」的発想が透けて見えて、いかにこの人が育児に参加せずに来たかという現れでもあるし、お金だけくれて好き放題させてくれたらいいのにというパラサイト的発想をしている現れだという批判も可能で、この人こそ家庭というものにおんぶにだっこでここまで来たと臆面もなく書きつけているように見えるのは気のせいか。議論が乱暴以前の問題では……堂々と「夫はおしなべて健康で、総収入のかせぎ手として中心的な存在であった。それでも自分が主体となって得た収入から割りあてられる金額は、いわゆる扶養家族である子どもと、ほぼ等しい値にとどまっている」(p.43)と書いていることだし。
    そもそも義務教育と子どもの努力だけではどうしようもない格差を巡る争いがあるから塾だの何だのは重要なのであって、それは子供を親が溺愛している証ではなくて、教育制度の破綻と見ることもできるわけだしね。教育制度の破綻分を家庭が補っているから、子どものための出費が増え、だのに収入は増えないから家計に締める養育費が家計を圧迫している。そこに、「俺が稼いできてるのに俺が一番金をもらえないってどういうことだ!」って、なんだそれ。たぶんそんなふうに主張している男たち、育児に一切かかわってなくて、嫁に丸投げだろうし、家事もおそらくやってない。子供は家事を手伝ってるかも。あるいは破綻した夫婦関係を取り持つために疲弊して苦しみながら家族の一員してるかも。それなのに「俺の収入なんだから俺に使わせろ! 嫁の家事や育児? そんなもん無給かつ無休でやらせるのが当然だろ! 子供の養育費? 贅沢なんてさせず30年前と変わらない子育て手充分だ! 俺の稼ぎは俺が大半使うのだ!」なんていう、もう、だめですよね……完全にダメだろうこれ……サル学の専門家がほぼ無勉強で家庭や教育にダメだししたらこの程度かと……なんでこの人にこんな分野の本を出版させようと思ったんだ……時代の遺物みたいなどうしようもないオジサンの溜飲を下げるためにか!
    さらに30年前という、著者自身が(!)子どもだったころの小遣い額と比較するという、「俺に比べて今頃の若いやつは」姿勢、そして子供時代の小遣いの算出方法と、今回この正高さんの採用した小遣いの算出額はおそらく違うということを考えてみてもなんかもう、2章だめだろ……それなら江戸時代とでも比較して、トイレットペーパーを使う現代人のなんたる贅沢三昧! トイレに行って髪を使うだなんて……! という議論も展開すべきという話になる。ケータイ、そして塾なるものは2003年時点で都市部の子どもの生活必需品に近しいものだったのだと思うのですよね、現代人が当たり前にトイレットペーパーを使うようにね……私は当時塾も携帯もなかったけど。でもまわりのほとんどは塾に行っていたし、携帯を使っていて、半ばそれは子どもたちにとってインフラみたいなものだったと思いますよ。私はなかったけど。私はなかったけど8割以上の人がそうだったというなら、それはもう半ば必需品と考えて、子どもが甘やかされているとかそういう議論に持ち込むのはどうかと思うのだけれども! 私はなかったけど!

    (3)あとな、子どものその増えた出費分が何に使われているかについて、ゲーム、ビデオ、カラオケ、ときた。年収1000万円というリッチなご家庭の(著者曰く中流の)ご子息が、果たして自分のお小遣いを大概そこらへんにぶちこんでいるというデータはどこにあるんだ。完全に印象だろ。ゲーム、ビデオ、カラオケの大好きな層と、著者曰く中流のご子息のご趣味とは一致しているのか? そんな層は自発的に参考書買うとか、参考書じゃないけど10代も半ばを過ぎたらアインシュタインくらいは教養ですみたいな、そんなかんじなんじゃないのか。そして学術書って高いからね! アホみたいに! さすがにこうは言いきれなくても、その娯楽を利用している層なのかどうか、実証していなくて印象だけで、今頃の子どもたちは俺たちの時代にはなかったおもちゃで遊んでいるから乱れている! 俺たちの娯楽は増えないのに! というのはなんかなあ。実証してください。科学者って実証するから科学者なんでしょ? なんというか、この人の頭の中でいろんな要素が切り離されずにごっちゃになっていて、ごっちゃになったものを都合に応じてごっちゃに出している感じがするんだよなあ。学歴社会とかにも言及してはいるけど、親からの溺愛というのとはちょっと違うんじゃないのか、学歴社会は。ちゃんと問題を切り分けていない。ふわふわした話をふわふわしたままろくな実証もせずオジサンの愚痴を絡めて書いているというのは、なんかこうだめだわ。

    (4)結局、稼ぎ手の俺に金を寄越さず子供にばかり金をつぎ込むバカ嫁め! みたいな議論がしたかっただけの2章。 そして子供への投資は見返りを求めてのことではなく、もはや単なるマネーゲームという書き方。今も親は見返りを求めているという本は溢れるほど出ているし、食事の味付けもチャンネル権も父親に決定権があるほうが良いのだという議論は、なんというかもう、どれだけこの本の著者は甘やかされて、子ども中心主義の家庭で育ち、その感覚が抜けきらず大人になり、自らは子ども中心主義の家庭を再現できず、自分がいつまでも子供で居たいことを表明したくてたまらないというふうに移ってなんだかもう。耐久消費財としての子どもというところは非常に面白かったが、まあ今に始まった話でもないよね。というか全体に、「親としての父親」という役割ではなく、「妻に家庭内を仕切られるうえでの二大勢力、子どもと夫」という図式なのがなんというかもう見ていて、大人になれよ……と思ってしまう。「子供よりも夫を大事にしてよママ!」だなんて、ほんといつまで子供でいるつもりだ。「学校を卒業して以来、夫は妻が子ども中心主義に走るのに対抗しようと、会社中心主義に奔走してきたものの、四〇歳をすぎた中堅どころに達してみると、組織のなかでも自宅同様、浮いてしまっていることが多いようだ」(p.57)というフレーズひとつとっても、経済学者やら社会学者やらが書いた本をそれなりにバランスよく読んでいれば出てこないフレーズだろうし、組織の中で浮いていることをなんで正当性があることのように嘆いているわけ? 勉強量も足りない気がするが、考察自体も足りていない。この人のサル学の本は読んだことがないけれど、そちらでは権威だというのなら、その分野以外のことには口を噤んでいたほうが、この人の名誉を守ったのではないのか。

    3章
    サルのところは慎重に議論できているうえ面白いのに、人間の話をし始めるとなぜこう……
    参考文献欄を見ても、この分野に関する本をほぼ読んでいないことがわかりますので、まったくなんの勉強もせずに書いているのだということはわかるのですが、それならば、というよりそれだからこそ発現に慎重になってほしい感がすごい。

  • 随分前に流行った本です。この著者の本は様々な論者に引用されているのを見たことがあります。だから気になっていたのかな。

    はっきり言ってヒトに関する研究、特にカテゴリー分けが荒すぎます。サル学に関しては専門外なので、まぁそんなこともあるのかなと思いましたが、それと現代の若者がサル化しているという議論との繋がりは、類比だとしてもお粗末です。

    人間とサルを同次元に考え過ぎですよ。霊長類としてのヒトが今抱える問題と、モバイル環境を含めデジタルな社会環境下での人間の抱える問題とは、やはり、はっきり扱い方を区別して考えるべきです。

    アンケート調査に関しても、著者自身の考えに都合がいいように取って、解釈しているきらいがある。こういう本は直ぐに批判されて、今となっては反駁し尽くされているんじゃないでしょうかね。そうであって欲しいと思います。

    ただし、かと言って全く示唆がないわけでもないように思いました。特に、「子ども中心主義」(私はこんなタームを作らずとも「母親の過保護・世話の焼き過ぎ」で良いと思うのですが)を貫き、子どものためと過剰な愛情表現を振るう親が自立を妨げたり、親子間の対立や苦悩の原因だという見方は現在でも通用すると思います。40代以降の衰えについても、心理学や脳科学の分野でも実証されたら面白い。ただ、終始の議論にサルがどう貢献出来ているかは微妙ですが。

    何分、ゼロ年代の雰囲気が濃厚なので、「ケータイ」が持つイメージも、ルーズソックスに始まる女子高生の習性についても、それに対するおじさんたちの目の一人である筆者の目も、ちと古いのは許してあげていいと思いますよ(笑)

  • 少し前に流行った一冊。
    私的な空間と公的な空間のリミナリティーが結局重要なのねってことを具体例を出して理詰めしている。
    話もとても分かりやすい。
    なかなかもっともらしいことを主張しているが、個人的には問題提起で終わっているものは嫌いなのでマイナス1点。

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「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)はこんな本です

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