ケータイを持ったサル: 「人間らしさ」の崩壊 (中公新書 1712)
- 中央公論新社 (2003年9月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121017123
作品紹介・あらすじ
「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。
感想・レビュー・書評
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人間がケータイを使うことによる弊害が書かれているのかと期待して読むと、それだけではなくパラサイトシングルや引きこもり、主婦が夫を蔑ろにすることから、20年前当時の若者の行動について書かれている本だった。
20年前の話だったので、勿論スマホは無い時代なので共感できることは、ケータイの件では少なかった。
また、話にまとまりがなく、章ごとに主題の異なる話ではあったが、20年前と現在での繋がる話も多く、新しい発見は得ることが出来た。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ちょっと理解に苦しむタイトルだが・・・
ニホンザルを研究されている筆者だということを知り、一応納得。しかしながら、ややこの本の古さが気になる。この本が出版された当時、筆者はまだケータイを持っておられなかったそうだ。その前提で書かれたのであれば、筆者の主張もまあ理解できないこともないが。ルーズソックスなど懐かしい時代を表すものも、いまとなっては一般化するルールとしては説得力が弱い気がする。
本としては楽しく読めた。この筆者は今ケータイ、いやスマホをバリバリ使われているのではないかと・・・あくまでも私の推測ですが。 -
高名なサル学の研究者が書いたトンデモ本との評を耳にして、興味本位で手に取りました。
著者は、現代の若者は人間らしさを捨ててサル化しつつある、と述べていますが、これは一種のレトリカルな表現だと理解しました(コジェーヴ=東浩紀の「動物化」だって、生物学的な意味での「動物」を意味しているわけではありませんし)。そのように受け取るならば、人間の社会的行動を、社会的な近接要因をすっとばして生物学的な要因に還元してしまうような議論ではないので、竹内久美子のような本式のトンデモ本といっしょにあつかうのは酷だという気がしました。だからといって、本書がおもしろいとは思いません。まあ、オヤジの愚痴のようなものでしょう。
たとえば、母子密着の「家(うち)のなか主義」が広がっていると述べている第2章で、サルどうしの毛づくろいの時間についてのデータと、子に対する経済的な投資額の多寡のデータを並べて議論をしていますが、この2つのデータからただちに現代人の「サル化」という結論を引き出すことの乱暴さを、この本の著者が承知していないというのは、少し信じがたいように思います。 -
サルの生態に現代人が近づいていることを挙げ、現代の社会問題にメスを入れている。
夫をないがしろにして、子に期待を押し付ける主婦、専業主婦の生態など、うすうすみんなが感じていることを的確に文字にしてあり、大変おもしろく読めた。
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(「BOOK」データベースより)amazon
「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。 -
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時代考証は必要だが人間行動を探る上でのヒントが満載。
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サルの社会性を通して現代日本の社会を読み解いた本。
第一章 マザコンの進化史
サルについての考察と、現在の子育てについての考察
第二章 子離れしない妻と居場所のない夫
現在の家庭内の状況。「家のなか主義」
第三章 メル友を持ったニホンザル
サルの会話と、メールのやりとり
第四章 「関係できない症候群」の蔓延
関係性の脆弱化
第五章 社会的かしこさは四十歳で衰える
子育てと生活スタイル。本当は子育てしていたのは母親じゃなく、爺婆。
第六章 そして子どもをつくらなくなった!
家族像の激変と、「性差」の発現。現代社会のしくみは、近年つくられたもので、「母親とはかくあるべき」論を信じるのは思考停止。
学校の図書館に置いてあった本。手に取ってみたら、意外におもしろかった。 -
著者は比較行動学が専門。
霊長類の観察から人類の文化的進化を解き明かそうとする。現代人に顕著な行動の深層を追及している。
タイトルに反して?かなり専門的な方法論で現代人の行動を解明している。単なる観察分析だけでなく、たくさんの実験結果を踏まえた分析もユニークで面白い。 -
メル友からの意味のないメッセージに、意味のない返事をするヒトの行為は、存在を知らせるためのサルの鳴き声と何ら変わらない。
いやまさにその通り。
だが時代は変わった。
スマートになったのだ。ヒトではなくケータイが、である。
ついにヒトはケータイにライフスタイルを支配されるようになった。 -
≪読書会紹介図書 2016.3.1≫
テーマ:いちばん衝撃を受けた本
【所在・貸出状況を見る】
http://sistlb.sist.ac.jp/mylimedio/search/search.do?target=local&mode=comp&materialid=10301164 -
最初はキャッチーで、題名から携帯批判かと思っていましたが、人類学的に現代の日本人の生活習慣を批判しているに留まっています。
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著者はもともとサルの研究者だけれども、子どもの成長や老人のことにも興味を持って取り組まれている。どの本を読んでも、よくまあこんな実験するなあ、と思われるようなことを次から次へやっている。今回は、著者が用事でたびたび渋谷の街に訪れるようになったのがきっかけで出来上がった。電車の中でも平気で床に座り込んでいる高校生。夏でもルーズソックスをはいて暑そうな女子高生。電車の中で化粧をしたり、ケータイで大声で話したり、常にメール交換をしている若者。いったいこの人種は何者なのだ。と、そのとき著者は気づいた。自分はサル学者だ。動物の行動を研究するのが自分の仕事ではないのか。こんなおもしろい対象が目の前にあって放っておく手はない。そして出来上がったのが本書である。電車の中で化粧をしたりベタッと床に座ったりするのと、引きこもるのとは同じ現象だと著者は考える。自分の世界に入り込んでしまう。それが外に出るか内にこもるかの違いだけだというのだ。メル友が100人いたからと言ってそれが本当の友人と言えるのだろうか。他人と関係を持つことができない、コミュニケーションがとれない人が増えていると言われている。少し長くなるが実験を紹介しよう。メル友300人以上の女子高生(ケータイ族)とケータイを持っていない女子高生(非ケータイ族)に集まってもらう。そこで2人1組でこういうゲームをする。2人の最初の所持金は5000円ずつ。第1のプレーヤーは第2のプレーヤーに賭けるか賭けないか2つの方法が選べる。第2のプレーヤーも同じ。賭けると自分の5000円を支払うため自分の所持金はなくなるが、相手には新たに10000円が渡される。つまり相手のプレーヤーの所持金は15000円となる。第2のプレーヤーも賭けるか賭けないかを選べる。4つのパターンが考えられるのが分かるだろうか。①2人ともが双方に賭ける。すると、2人の所持金はそれぞれ10000円ずつとなる。②第1のプレーヤーが相手に賭けたにもかかわらず、第2のプレーヤーは賭けない。すると、1人目は手持ちがなくなり、2人目が15000円もらうことになる。つまり抜け駆けということ。③これはあまり起こり得ないが、第1のプレーヤーが自分に賭けてくれなかったのに、第2のプレーヤーはお金を出すという場合。1人目は15000円が手に入り、2人目は手持ちがなくなる。2人目の人はちょっと「おひとよし」ということ。④2人とも賭けない。この場合は2人とも所持金は5000円のまま。どうだろう、自分ならどうしますか。①のパターンが2人の所持金合計を加えれば最も有利ということになる。でも、自分のことだけを考えれば②を選んでしまうことになる。さらに2人ともが双方に関係を持ちたくなければ、④になる可能性が高いだろう。さあこのゲームをケータイ族と非ケータイ族に別れてやってもらう。結果は想像がつくだろうか。詳しくは本書の4章をお読み下さい。非ケータイ族では①のパターンが多いけれども、③になることもあるというからおもしろい。情けは人のためならず。5章にもおもしろい実験がある。その説明はできないけど、ぜひ自分でもやってみてほしい。世の中豊かになり、どんどん便利になっていく。しかしそれが本当の幸せに通じているのだろうか。著者はそんな問いかけを読者にしている。そして今世紀中頃には日本人はもっとサル的(?)になっているのではないかと結んでいる。
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随分前に流行った本です。この著者の本は様々な論者に引用されているのを見たことがあります。だから気になっていたのかな。
はっきり言ってヒトに関する研究、特にカテゴリー分けが荒すぎます。サル学に関しては専門外なので、まぁそんなこともあるのかなと思いましたが、それと現代の若者がサル化しているという議論との繋がりは、類比だとしてもお粗末です。
人間とサルを同次元に考え過ぎですよ。霊長類としてのヒトが今抱える問題と、モバイル環境を含めデジタルな社会環境下での人間の抱える問題とは、やはり、はっきり扱い方を区別して考えるべきです。
アンケート調査に関しても、著者自身の考えに都合がいいように取って、解釈しているきらいがある。こういう本は直ぐに批判されて、今となっては反駁し尽くされているんじゃないでしょうかね。そうであって欲しいと思います。
ただし、かと言って全く示唆がないわけでもないように思いました。特に、「子ども中心主義」(私はこんなタームを作らずとも「母親の過保護・世話の焼き過ぎ」で良いと思うのですが)を貫き、子どものためと過剰な愛情表現を振るう親が自立を妨げたり、親子間の対立や苦悩の原因だという見方は現在でも通用すると思います。40代以降の衰えについても、心理学や脳科学の分野でも実証されたら面白い。ただ、終始の議論にサルがどう貢献出来ているかは微妙ですが。
何分、ゼロ年代の雰囲気が濃厚なので、「ケータイ」が持つイメージも、ルーズソックスに始まる女子高生の習性についても、それに対するおじさんたちの目の一人である筆者の目も、ちと古いのは許してあげていいと思いますよ(笑) -
少し前に流行った一冊。
私的な空間と公的な空間のリミナリティーが結局重要なのねってことを具体例を出して理詰めしている。
話もとても分かりやすい。
なかなかもっともらしいことを主張しているが、個人的には問題提起で終わっているものは嫌いなのでマイナス1点。 -
読書レポート:ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊 | デジたろうとピアノ http://digitaropiano.luna.ddns.vc/digitaropiano/?p=3798
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大学のレポートのために読んだが、これはひどい。
論拠は粗雑だし、完全に筆者のなかで「若者=サル」の図式が完成していて、それを主張したいがためにこの本を書いた、という感じ。飛躍が多すぎる。
そもそもルーズソックスってそれだけの理由ではなく、「流行り」だから履いている高校生も多かったのでは…?