フォト・リテラシー: 報道写真と読む倫理 (中公新書 1946)
- 中央公論新社 (2008年5月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121019462
作品紹介・あらすじ
現代社会で日々生まれ、流通し続ける報道写真。一見しただけで見尽くしたような気になり、曖昧な記憶の底に沈んでしまうことも多いだろう。しかしそれらは、写真家のどんな意図で撮影され、誰によって加工され、どのように編集・流布されたのだろうか。本書は、写真の「読み方」を問い直す試みである。作り手の立場だけでなく、見る側の力が問われている今、世界と時代とを思考するための新しい必読書が誕生した。
感想・レビュー・書評
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・写真の倫理
カルティエブレッソンとそれに反発したパンクの写真家達。エルスケン、ウィリアムクラインの『ニューヨーク』等。フランス郊外で活躍した写真家達。
・フォトジャーナリズムと組写真の生成
『ヴュ』(ケルテス、マンレイ、クルル、ブラッサイ、キャパ)
技法におけるモダニズムと写真の異化効果(美学におけるシュルレアリスム)、流通におけるフォトジャーナリズム。
『ライフ』(ユージンスミス)
組写真
・中平卓馬の旅の詐術
コミュニティの中に身を投じるとはどう言うことか。むしろ街路を見つめる視点を持つこと。この話には限界もあるのではないか。例えばいじめのコミュニティでは?ホロコーストでは?
・人間家族展、ロランバルトの批評。
アメリカナイズされた普遍的ヒューマニズムの生成。ペラペラな「僕達人間皆家族」の陥穽。
・美しい棘の考え方
エログロに目を向ける力になるのではな無いだろうか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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ヨーロッパのフォト・ジャーナリズムの成立を追いながら、写真が「決定的瞬間」を作為を交えずに写したもの、というお約束が作られる道筋を振り返る。
写真は現実からある場面を切り取る。
それはある場面を脱文脈化すること。
それゆえに、一枚の写真はさまざまな物語に結びつきうる。
良くも悪くも多義的な存在だ。
こういったことを、著者は言う。
ここで、写真家の作為を断罪する方へ行くのではなく、本書は読む側の倫理を追究する方へ向かう。
それは芸術か、報道かといった論争を巧みに回避する。
そして、オリエンタリズム、歴史修正主義に陥らないようにすべきという議論に向かう。
表現を成り立たせる制度の歴史性や、多義性を指摘してきたことからすると、大変な力技だ。
ただ、ここでちょっと、揚げ足取り気味かもしれないが、著者に要望したい。
新書レベルの入門書で、これまで著者が言う「皮相な写真の解読法」を指南した本があったか?
私レベルの一般人には、写真を語る言葉さえ、ない。
まずそのレヴェルをきちんと押さえてくれる、新書並みに手に入りやすい本が欲しい。
それから、「読み手の」と限定してしまうことは、どうなのだろうか。
写真家、現像の技術者、編集者、出版業界といった送り手にしても、事後になれば、読者と同じ、第三者的な立場になる。
例えば、読み手が、こうした送り手や、写真に写った当事者と、何らかの形で対話する可能性はないのだろうか。
不毛なコミュニケーションに終わらないように、やはり読み手も共通言語を身につける必要はないだろうか? -
副題「報道写真と読む倫理」で示されるように、1930年代に成立した報道写真、フォト・ジャーナリズムの歴史を紐解く中で、写真がどのような意図に基づき、加工・流通されてきたかを詳らかにするとともに、それを観る側のリテラシー、倫理を丹念に問う力作。
写真は、決して「現実の直接の反映」ではなく、写真家の「選択」や、歴史的・政治的・文化的文脈により規定される「制作物」である、という論点にはさほど新味を感じなかったのですが、他のメディアと異なる写真の特性については改めて気付かされるところがありました。
まず、写真は、本書でも触れられている通り、「過去」を焼き付けるメディアであること。
映像(動画)メディアと異なり、写真には「生中継」という概念が原理的にあり得ない。
そして、写真は上述のように「現実」そのものではないまでも、基本的には「今そこに在るもの」を捉えたもであることが前提となっていること。
もちろん、全くの捏造・合成写真というものもあり得るわけですが、一から非現実世界を容易に構築できる絵・イラストや文字メディアとは、決定的な性質の違いを有していると思います。
そうした特性があるからこそ、我々は写真の「真実」性を容易に信じ、また、写真に「期待」してしまう。
そのことが、著者の云う「撮る側と観る側の共犯関係」が成立する所以であるように思いました。
もう一点、興味深かったのが、本書の最後に少しだけ触れられている「写真は歴史を解き明かす証拠能力を有するか」という論点。
本書では、ナチスの収容所写真とホロコースト否定論の関係を例にとって論じられているのですが、これまで文献史料を中心に行われてきた歴史学研究に、今後、写真の史料価値がどのように位置づけられていくのか。
写真というメディアの歴史が約2世紀に及ぼうとしている現在以降、そうした論点はより強く意識されていくのだろう、と。 -
報道におけるストレート写真=現実という信念が、非日常性やシュールレアリスム的なアートと表裏一体にあるという問題設定。包括的な写真史。写真集と画集の違いは画集がいわば「疑似鑑賞」であるのに対し写真集はそのものが作品であること。写真家がどのようなメッセージを加えるかは自由だが、一方で写真家の下支えになっていたのが「グラフ雑誌(写真雑誌)」であって、配置する・キャプションを付けるなど「編集」が大きな権力を持っていた。オーディエンスからすれば、まさにそこに「多様な読み」の可能性が生まれるのは必然的なわけで、そのプロセスの中にこそ作為とリテラシーの問題が問われてくる。文字を載せるか否か、雑誌に載せるか否か、広告に使うか否か。別にカルスタに傾倒しているわけではないけど、静止画でも切り口としてこういう視点が持てるのは楽しいし、自分の問題関心はいつまでもその「中間領域」にあるんだなーという気がしている
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激震ではないが、小さな揺さぶりをくり返すことで、クリティカルに自分と時代を相対化しながら、対象に迫っていく。
ブレッソンの画集のタイトル「決定的瞬間」の英語の誤訳、ドアノーのパリのキスのやらせ、展示の政治性、写真が届くまでの恣意性などのトピック。
・中平卓馬「決闘写真論」:一言で言ってしまえば、これらの写真には一様に、旅行者だけがもつ感傷とそれと裏腹にあるつきなみな希釈された好奇心がべったりと貼りついているということなのである。
・ソンタグ「他者への苦痛のまなざし」:すべての政治は、歴史がすべてそうであるように、具体的なものである。
・池澤夏樹のソンタグ作への書評(毎日新聞2003.8.10朝刊):彼(サルガド)が撮った飢餓で痩せたアフリカの子の像は、美しい棘として心に刺さって抜けない。
・港千尋(『国際交流』第88号、2000年7月P21):フォト・ジャーナリズムに欠かせない現場性ということで言えば、戦争も〈現場〉であるけれども、家庭内暴力も〈現場〉であるし、いじめも〈現場〉である。なぜいじめの写真がまったくないのかというのを私はいつも不思議に思っているんです。 -
テレビ、ネット、SNS――現代社会では至る所に映像が氾濫しています。そのような状況の中で、著者は外国語を読めたりコンピューターが使えたりするのと同じように、映像を見るのにもリテラシー=読み書き能力が必要だと主張します。写真や動画の虚偽や善悪といった問題を超え、映像を通して積極的かつ批判的に世界を知る方法への手がかりを与えてくれる本です。
(選定年度:2016~2018) -
見る側も鵜呑みにしないこと。
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写真がたくさん載っている新書だったので写真の基礎を知らない私には有り難かった。有名な写真の解説書みたい。
あまりにも読むのに時間をかけすぎて内容がうろ覚え・・・。オリヴィエーロ・トスカーニの写真が痛烈だった。