科学の世界と心の哲学―心は科学で解明できるか (中公新書)

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著者 : 小林道夫
  • 中央公論新社 (2009年2月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121019868

科学の世界と心の哲学―心は科学で解明できるか (中公新書)の感想・レビュー・書評

  • 「こころ」とは何か?「こころ」と「からだ」の境目は?
    脳科学や医学からのアプローチは、たまに見聞するが、哲学からのアプローチを読むのは初めて。かのデカルトなんかは、流石この問題を深く考えていたようだ。しかも、脳や神経に関する医科学は相当進んだのに、デカルトの論点はいまだ有効のようで、結局のところ、「こころ」は、フィジカルで因果律に則った実体なのか、もしそうでなければ、なぜフィジカルな「からだ」と相互作用するのかということ。心だって、自然科学の法則に従うという、機械論・唯物論は単純でわかりやすいし、きっと科学からのアプローチでは、この説の証明に躍起になるでのあろうが、生身の人間としては、そうあって欲しくない本能的希望も感じる。ちょっと残念なのは、いくら哲学者が、いろいろな理屈を思想しても、科学の立場からでなければ、エビデンスが出せないのではないかということだ。

  • 面白かった!

    特に前半の科学哲学の部分。
    科学哲学をまともに勉強したことが無かったので、アリストテレスの自然学に始まりガリレオやデカルトの創始した近代科学の革新性など、勉強になることが非常に多かった。

    後半の心の哲学については、形而上的な存在である「心」に対して科学がどこまでリーチするかを論証していて、なかなか面白かった。
    デカルトの心身二元論から発した哲学のアポリアを中心に、その周辺を掘りまくる形式。
    小林道夫はデカルトの研究者なのかな?

    何にせよ、科学哲学について勉強するために取った本としては、かなり満足でした。

  • デカルトに取り憑かれて二元論から抜け出せなくなった
    悲惨な哲学者の本。

    「私は疑う。だから心は存在する。」って、
    「疑う」事だって思考のバリエーションの1つに過ぎないんじゃないの。

    デカルトが自然科学の祖であることを頼みの綱にして、
    彼の二元論を否定するなんて自然科学も否定する気か?なんていう
    くだらないレトリックに頼りながら、
    手っ取り早く反論しやすい理屈を否定することで、自分の正しさを証明しようとする。

    そんなただの言葉遊びに終始した本。

    こういうことしてるから哲学が暇人の趣味だなんて
    思われてしまうんだってのに。まったく。

  • 近代科学(及びそれを引継いだようなものとしての現在の我々の考え方)が前提としている世界観(人間観、心身を考える枠組、とか)の哲学的基礎付けが、デカルトとかによってどの頃どうやってなされたか、またどういう内容のものか、について。

  • 昨今、「心の哲学」と呼ばれる分野が、哲学界に於ける主要な領域の一つとなっている。それは、「心」や「意識」の在りようは如何なるものか、そしてそれらは物理的な事象と如何なる関係にあるのか、を研究する哲学の一学科である。本書は、デカルト研究者である著者が、その「心の哲学」に於いて支配的な(そして恐らく俗論という形で広く一般にも浸透しているであろう)「心の哲学の自然化」という考え方を様々な観点から批判する。以下、本書で展開されている幾つかの興味深い議論を取り上げながら、「心の哲学」に於いて真に問われるべき問題は何なのか、本書を通して考えたことを述べてみる。

    ○ 近現代の科学をそれ以前の自然学から弁別する要件は何か

    まず、中世までのアリストテレス的自然学と17世紀の科学革命以降との比較を通して、近現代の科学的説明を科学的たらしめる3つの要件を抽出する。第一に、その対象として数量化可能なもののみを扱い、アリストテレス的自然学には組み込まれていた「知覚的性質」「目的」「価値」「意味」といった主観的で計量不可能な概念は、科学的説明から排除されることになる。第二に、科学的説明には、個別具体的な事象を表現する日常言語ではなく抽象的な数学が採用され、厳密な数学に訴えることで自然現象の内に潜む法則性を追求していくことになる。第三に、科学的説明がその妥当性を獲得する為には、主観的な知覚経験ではなく精密な観測装置を用いた実験・検証という手続きを通過することが要求されるのであり、この要請によって科学は実験によって再現可能な事象しかその対象とすることができないということになる。こうして近現代の科学は、アリストテレス的自然学が扱うような我々個々人の知覚経験を通して目の前に現れる日常的で具体的な世界の記述ではなく、そうした日常的な世界とは直接的には呼応しない抽象的な物理的世界の内に潜む普遍的構造の解明を目指していくことになる。

    ○ 「心の哲学」の端緒としてのデカルト哲学

    近代以降の「心の哲学」の問題は、デカルト哲学の第一命題【Cogito, ergo sum】に端を発する。デカルトは、「わずかでも疑い得る余地があるものは、全て偽なるものとして否定する」という方法論的懐疑を遂行し、感覚によって捉えられる外的対象の存在や数学的命題の真理性をも否定して、終にその極点に於いて、「確実なものは何もない(全ては否定された)」と疑っている自分自身の存在の確実性に到達した。そこで見出されたのは、「懐疑と否定の対象になった全ての事物」を超えた、それらに対してメタ・レヴェルに立つ、「疑う自己」である。「懐疑と否定の主体である自己」が「懐疑と否定の対象である事物」に属することは、その逆の場合と同様に、論理的に不可能であることから、「懐疑と否定の主体である自己」と「懐疑と否定の対象である事物」とは存在論的に異なる二つの実体として、則ち「精神(心)」と「物体(身体)」として定立される。精神は「思考」を本質とし、物体は「延長」をその本質とする。これがデカルトの心身二元論である。

    ○ 「心の哲学の自然化」批判

    そしてここに、「心の哲学」のアポリアとされる「心身問題」が立ち現れることになる。則ち「存在論的に異なる実体である心(精神)と身体(精神)との相関関係を如何にして説明するか」。この問題を解決しようとする試みとして、現在最も有力視されているのが「唯物論」「自然主義」「物理主義」等々の名で呼ばれる学説群である。曰く、「心を物体とは別の実体と見做すのは非科学的な形而上学的乃至神秘主義的妄想であり、心的活動も物理現象として科学的に説明可能である」。或る意味で単純明快なこの物質還元主義は、近年の脳科学・神経科学・認知科学等々の輝かしい発展を受けて多くの人々を魅了して... 続きを読む

  • [ 内容 ]
    科学や技術の圧倒的な進歩によって、私たちを取り巻く多くの現象が解明されてきた。
    そうした中、「認識論の自然化」、「心の哲学の自然化」と呼ばれる考え方が登場し、心も科学で解明されると主張する。
    本書では、近代科学が産声を上げた一七世紀に遡って、科学の目的と規範を明らかにし、心が科学によっては解明し尽くせないことを示していく。
    消去的唯物論や認知的アプローチなど科学主義路線の限界を示し、デカルトが提出した「心身合一」概念の豊かな射程を再評価する。

    [ 目次 ]
    第1部 科学の目的と規範(近代科学の原点―一七世紀における科学革命と近代科学の形成;科学的知識の三つの基本的規範;理論的対象の実在性と科学的知識の客観性)
    第2部 心の存在と哲学―心の哲学は自然化(科学化)しうるか(近代の心の哲学の原点―デカルトの心の哲学と心身問題;心の哲学の自然化の問題;心の存在の実在性と因果性;自由意志と他者の心)

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 『科学の世界と心の哲学』(小林道夫、2009年、中公新書)

    哲学の観点から「科学」をとらえたもの。歴史的に「科学」がどのように扱われてきたのかということから、心は科学で解明できるかということを論じている。

    自然科学の観点から書かれたものではないので、デカルトなどの哲学を知ってないと難しいかもしれません。

    (2009年12月4日)

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