教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

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著者 : 苅谷剛彦
  • 中央公論新社 (2009年6月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121020062

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教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)の感想・レビュー・書評

  • 2009年刊行。戦後教育における資源分配(税金配分)に焦点をあてつつ、戦後日本の平等神話の内実を明確化しようとするもの。苅谷教授らが切り開いた数値を根拠に教育問題に切り込む方法論の集大成とも言うべき書籍。が、結論は驚くほどのものではない。つまり、かつて存在した地域間格差(格差是正が重要な政策課題でもあった)が逆転し、財政的に豊かな地域なのに一人当たりの教育費支出が小さくなり、地方財政と学力問題との関連が消滅した。かかる教育費支出の累進性は、教育的空間(教室)の平等を志向する日本的平等観と符合したものと理解
    かかる「面の平等」・「教育資源の均質化」の方向性が教科書検定制度や施設の均質化で具体化したものであると見るのだ。

  • 大衆教育社会はいかに生成したか
    「大衆教育の行方」の続編らしい
    日本の教育はどこで道を誤ったのだろう。
    戦後の出発時点でボタンを掛け違えたというところもあるのだろうが、少なくとも私が小中高校生だった頃までは正しく機能していた気がする。
    本書では文科省を中心とした国策及び学校の問題として捉えているが、家庭の問題の方が大きいのかも知れないと常々思っている。
    決定的な解決策は無いのだが。

  • 「学校制度は画一的で個性を潰す。だから市場化しなければならない」というお決まりの言葉に待ったをかける一冊。

    戦後日本の義務教育制度は6・3制という、先進的である意味実験的な挑戦をした。
    その際に最も問題になったのは、教育資源の配分、それによる学力格差の問題だった。

    1930年代は1教師が平均63.5人の生徒を受け持っており、80人を超える県もあった。
    この教育条件の貧困さは教育資源の配分の問題で、戦後各地方自治体間の格差を是正するため、1952年に義務教育費国庫負担法が制定された。
    最も小さな単位である学級間の教育条件に格差を作らないため、「標準法」が制定され、資源配分が細かく設定され、執行された。

    我々はすでにそれが行き渡った、「自明な空間」を生きていて、だれでもどこでも同一の教育を受けられることが環境であるかのように感じている。
    だから、「画一的な教育はいけない」といった時に、これらの環境を維持している制度設計などは意識されず、知らずうちにそのシステムを壊してしまう可能性がある。

    新自由主義が邪悪なのは、これらのシステム、つまり富の再配分制度に「ボロ儲け」の匂いを嗅ぎつけ、食らいつこうと舌なめずりをしながら擦り寄ってきていることだ。

    一見「個の教育は市場経済化によって行われる」というときに、現在の環境が作られている資源の再配分制度が意図的に見落とされている。
    再配分されるはずの富が、新自由主義論者によって換金されるのだ。

    今、この歴史を振り返り、今後の教育を考えるときに、現在の環境がどのように生成しどのように機能しているかを見直し、単にそれらに対する攻撃が「個の平等」をもたらさないこと、と言うよりもむしろ「落下」を促進させることを強く意識しなければならない。

    必読の書だと思う。

  • 戦後日本にとって、地域間格差をなくすことは、大きな課題であった。
    日本の教育システムはどのようにして、平等を実現してきたのか、また、それが意味する平等とは何であったのか。

    これからどこを目指そうとしているのかも含めて興味深い1冊だった。

    ”1950年代を通じて、その後の日本の教育と社会を特徴づける「標準法の世界」が制度化された。それは、明治以来、日本の教育にとってトラウマともいえた地域間格差の問題を是正するために、教育財政の仕組み(義務教育費国庫負担制度)と、教育資源としてもっとも重要な教員の定数・配置に関する制度(「公立義務諸学校の学級編成及び教職員定数標準に関する法律」、いわゆる義務教育標準法)とが、車の両輪のようにして、教育条件の標準化を進める制度の誕生を意味した。”

  • 新書として出版されているものの、専門性は高く極めて学術的な内容。教育社会学について学んだことも読んだこともない私のような身だと、ざっと読むだけではそれほどちゃんと理解できた気がしない。大きくは教育費の分配政策が教育の平等化に繋がったという話。

  • 内容は難しい箇所があったが、刈谷先生の文章はわかりやすい。

    「文部省=国家の統制によって、上からの力だけでこの<システム>が作り出されたわけではない。それを歓迎し、招き入れる下からの働きが呼応したことで、教育の画一化も、一元的な能力主義もその成立を見た(p269)

    この日本独特の<システム>のキーワードがアンビバレンス。

    読みごたえのある新書だった。

  • 戦後日本の教育史は「面の平等」といったキーワードを用いて説明できるとしている。

    財政面の配分方法の分析から「面の平等」=個の平等ではなく「学級」単位の平等が標準法の制定のなかで実現したことや戦後の大きな地域格差のため次善の策としてとられた「学級」単位の平等が教育条件の均質化につながったことなどを示している。

    その過程は上からの一方的な指導ではなく下からの自主的な動きも伴っていた。

    単なる言説研究だけではなく統計的な手法を有効に使っていて説得力があった。特に筆者が「知られざる革命」とよぶ学校教育費の配分が逆進的なものから累進的なものへと変わっていくことを示した部分は非常に説得力があった。
    教育論議でよく行われる単純な二項対立的な批判に対して歴史的な経緯を用いてそのような単純な構造ではなく良い面と悪い面を併せ持つアンビバレントなものであるとしていた。

  • 90年代の名著「大衆教育社会のゆくえ」の続編であり、大衆教育社会を成立させたのは何だったのかについて論じている本。

    著者は、その原点を、学制ができてから常に問題視された教育公務員の予算(日本は階層差よりも、都市と農村(僻地)の差が大きいこと)、それによる教育標準化の流れ(学級の人数、学習指導要領、学力テスト)の中で、明らかにしようとしている。

    そのような中で、学級というシステムを使って平等を作ろうとしていた面があるとも指摘している。

    文章はやや難解であるので読み直す必要はあると思うけれど、自分が受けてきた環境を当たり前とせずに、史料から丁寧に読み解くことが大切だということを教えてくれた本だと思う。

  • 現在の日本の教育の仕組みや特徴がなぜ生まれたのか、明治期以降の歴史をひもときながらまとめられています。

  • 教育に関する批判はともなれば多くは個人主義と全体主義の構図や、中央集権と地方分権、一元的点数主義と多元的能力評価といった二元的構図に陥る。教育という分野においては「批判対象としてのわかりやすさ」が存在するためこういった対立が容易に成立すると筆者は指摘し、「二分法的発想」に陥ってはならないと首尾一貫として主張する。

    ではどのような発想を用いれば良いのか。著者は戦前からの日本の教育制度や社会の状況に重きをおいて歴史的事実を忠実に分析し、「ある社会のある時代の基底にある『知識』を取り出すこと」を旨として論を進める。
    教育というもの一枚岩で語れるわけはなく、歴史的背景を分析することによってなぜ日本の教育が現在の状態に必然的に収斂することになったのかを解き明かす。

    戦後日本はアメリカを手本とした個人を尊重する教育を目指そうとしていた。しかしインフラ、地域格差、財政の各面においてそのような余裕は到底なく、まずは全国均一に「面の平等」をもたらすべく全国民に等質・等量の教育を施すための教育が始まった。こうして国と地方による標準化の努力、社会の動向に影響され日本の優れた統一的学力水準がもたらされることとなる。
    この一連の流れを定量的手法も交え分析するのが本書のおおまかな内容である。

    そして、こうして達成された統一的・画一的な学力を「画一的教育であり個を殺してしまう」などと批判することこそ著者の危惧するところであり、現在の日本の教育を考える上で何を基準とし、何に知識を求めればよいかを示してくれるところ、これこそが本書の白眉である。
    教育の新たな時代を考えるための前提として、必ず読むべき名著であると感じた。


    本書の構造、分析方法に視点を移すと、そこで展開される社会学的研究手法としてのセオリーはその論じる内容に引けを取らないほど実に参考になるものであった。前述の「二分法的手法」に陥らざるべき研究分析の方法をこの本の構造が身を持って示しているのである。
    「東大教育学部退職を機とした『卒業論文』」と著者が述べるように、まさしく研究とはかくあろうという手引きを示してくれたという点においても、是非一読を勧めたい。

  • 教育における「平等」とは何なのか、
    いかに日本は「平等」な教育を得てきたのかということを、多種多様な資料から紐解いてくれている良書。
    その過程で、現代の日本中に蔓延する「誤解」も明らかにする。
    帯にも「戦後日本にとって格差をなくすとはこういうことだった――」ともあり、
    つまるところ目から鱗がボロボロな一冊なわけですよ。

    言うまでもなく「戦後日本にとって」の「格差」というのの一つに地域格差の問題がござんす。
    ということは本書の内容は、教育という側面を除いても、
    その地域格差を日本がいかに縮小させてきたかという面で興味深い☆

    ところで、本書の資料の中にはグラフや表もふんだんに盛り込まれているわけですが、
    自分がいかにそういうものに弱いかを思い知った!><
    やっぱり義務教育、せめて中等教育中にグラフの読み取り訓練とかするべきだな! 


    【目次】
    プロローグ 平等神話の解読
    第一章 対立の構図と問題の底流
    第二章 戦前のトラウマと源流としてのアメリカ
    第三章 設計図はいかに描かれたか
    第四章 「面の平等」と知られざる革命
    第五章 標準化のアンビバレンス
    エピローグ 屈折する視線――個人と個性の錯視
    あとがき
    引用・参考文献

  • [ 内容 ]
    戦後教育において「平等」はどのように考えられてきたのだろうか。
    本書が注目するのは、義務教育費の配分と日本的な平等主義のプロセスである。
    そのきわめて特異な背景には、戦前からの地方財政の逼迫と戦後の人口動態、アメリカから流入した「新教育」思想とが複雑に絡まり合っていた。
    セーフティネットとしての役割を維持してきたこの「戦後レジーム」がなぜ崩壊しつつあるのか、その原点を探る。

    [ 目次 ]
    プロローグ 平等神話の解読
    第1章 対立の構図と問題の底流
    第2章 戦前のトラウマと源流としてのアメリカ
    第3章 設計図はいかに描かれたか
    第4章 「面の平等」と知られざる革命
    第5章 標準化のアンビバレンス
    エピローグ 屈折する視線-個人と個性の錯視

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

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    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
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    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 内容ももちろん興味深いのだが、それ以上に僕自身が強く影響を受けたのは、筆者のとる問題へのスタンス。教育問題は単なる二項対立図式(例えば文部省対日教組や画一教育対学習の個人化等)で語られることが常であった。というのは戦後日本が歩んできた教育制度が批判対象としてのわかりやすさを提示していたから。それゆえに改革が改革を呼ぶという苦難を歩んできた。しかし、筆者は性急な議論(二項対立図式)をする前にあえて「歴史」をかいくぐれと言う。戦前からスタートして戦後、60年代という風に徐々に姿を変え、そして固まっていった教育制度、その背景にはどういう理念があったのか、どういう教育財政分配の仕組みがあったのか、なぜ文部省はその政策を打ち出したのか、なぜ日教組が激しく対立したのか、中央からの政策が打ち出されたとき地方はどう動いたのか、すべての布置連関を丹念に読み解いていく。社会学では当然であるこの問題へのアプローチ、当然であるがゆえに文中において何度も自身の意識を確認するかのように布置連関に紙面を割いている。社会学部生として問題認識に対する鋭い意識に学ぶべきものがあった、という次第です。

    事象の背後をよむ、歴史をかいくぐる、これを意識して実践すれば僕もかっこよく「これからの教育の話をしよう」なんつってサ○デルさんみたいに言えるんだが、研究不足も甚だしい。だから話す前にいろんな話を聞かなければ…

  • 「ducare」創刊号(2009年発刊)で紹介されていたので、読んでみました。
    感想を一言で言うと・・・
    ・いろいろと知らなかったことを知ることができたので、勉強になった。特に、日本とアメリカの公教育の歴史的背景について。
    ・でも、難しいところもあった。著者の頭の中で、「前提」となっている情報がかなりあるのだろうが、それはこちらの知らないことだと思うので、解読しにくかった。
    ・主張していることは、何度も繰り返し主張されているように思った。だから、そういう意味では、これまでの歴史やデータから著者が読み解いた内容は、それなりに記憶に残ったと思う。
    ・なんというかちょっとした無力感は残る。一読者である私は、教育研究者ではなく、ただの母親であり、自分の子に良い教育を受けさせたい、という目的意識でこの本も読んだのであるが、最終章あたりで著者は「単に個人的経験や表面的な理解からの批判」を批判しているような気がしてならなかった。研究者の心情としては理解できるが・・・。
    ・・・という感じです。

  • 教育について二分法的な批判を繰り返す人々は本質(著者は『歴史』としている。)を忘れているとし、
    戦前から戦後の教育史と教育財政の配分の比較と推移を描き、
    現行の教育システムの分析と統計から、
    戦後日本教育の標準化の試みはネガティブな面もあれど、
    機会の平等に寄与した部分も認め、
    冷静な議論や検証のもとに教育は論じることができるとする。

    読みやすくしたそうだが、あまりそうは感じられない。
    教育財政史の部分は情熱を特に感じたので、
    この部分で諸外国との比較文を読んでみたい。

  • 2010.3.1.
    三省堂書店有楽町店で購入。

  • 卒業論文のコピー元ww。『大衆教育社会のゆくえ』も多少難解な本だったがこの著書は最難関本…。途中論文書きたくなくなりかけました。自分は主に『格差』に結び付けて論文を書いたため戦前から戦後までの教育財政の差が主に学力etcに影響を与えたというところを参考にした。他にも日教組の意見やアメリカとの比較、平等とは何を意味するのかを詳細に述べた内容であった。改めて刈谷さんの素晴らしさを認識させられた本だった。

  • 大衆教育社会がどのように完成されてきたかを述べている書。

    全国学力テストが復活したことを受けて、以前のものとの比較も試みている。

    その結果として、「60年代には存在していた格差が縮小したことは確かである」。

    格差(都市部と農村部など)を縮小させる手段として、教育資源の独特の仕組み(劣等な教育条件の排除)があったと本書は解説している。

    その細かな仕組みについては本書を参照していただきたいが、その仕組みは学習の個別化にはなじまなかったと本書は言っている。したがって、少人数学級の実現が難しく、いくつかの科目についての「少人数授業」という形をとっているのだとしている。


    言葉は難しいが、論旨がはっきりしているために、読みやすい。戦後の日本の義務教育がどのような道筋を歩んできたか知るには最適の書。

  • 戦後教育において「平等」はどのように考えられてきたのだろうか。本書が注目するのは、義務教育費の配分と日本的な平等主義のプロセスである。そのきわめて特異な背景には、戦前からの地方財政の逼迫と戦後の人口動態、アメリカから流入した「新教育」思想とが複雑に絡まり合っていた。セーフティネットとしての役割を維持してきたこの「戦後レジーム」がなぜ崩壊しつつあるのか、その原点を探る。 以上アマゾンより。戦後の教育にかける財政は、地域によってあまりにも格差があった。日本は、均質な教育環境を生み出そうとする「面の平等」をもって切り抜けてきた。基本的にこの考え方は間違っていないと思うのだが。

  • 苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書、2009年)を読む。
    まさしく研究者の仕事だなあと感服する。
    大きくいえば、戦後日本教育史の書き換えの試みである。けれど、それが圧倒的なデータに基づいて論述されるので、実に説得的なのである。
    ところで、私は、2年前の2007年に「全国一斉学力調査」の結果が公表されたとき、わが国は教育の機会均等がなされているというようなことをこのBlogで主張した(タイトルは「全国学力調査(全国学力テスト)の結果が公表された 」2007年10月)。このとき、『産経新聞』は社説で、都道府県間において学力格差が生じているという主張をしていて、その原因が日教組の組織率とさも相関関係があるような論陣を張っていたのだが、そんな問題になるほどの格差じゃないと私は主張したのだった。だけど、それは何らかのデータにもとづいた主張ではなく、あくまで報道された公表による私見に過ぎないものだった。
    この「全国一斉学力調査」について、苅谷氏はきちんとデータを示し、わが国は「教育の機会均等」が見事に達成されたと結論づける。すなわち、わが国では教育の地域間格差は解消されているのだ。ああ、よかった。
    ただ、このあたりの議論は、さほど仰天するほどのことでもなく、私のような普通の教師が普通に思っていたことをデータで示したということになろうが、この著書には私の見解が改まる議論がいろいろとあって、それはそれは楽しく読んだ。
    例えば、昭和33年版学習指導要領の対立。<試案>の2文字が消えたいわゆる「逆コース」の論争。
    あるいは、昭和36年の学テ闘争。
    これらの教育界の定説となっている対立・闘争を、歴史をひもときながら新たに意味づけしていくのだ。40年の時を経て、氏によって、教育界の定説がくつがえっていくのである。まさしく戦後日本教育史の書き換えである。
    また、第5章の「標準化のアンビバレンス」の論述は実に鮮やか。氏の駆使するデータによって、これまでの教育言説がバラバラと崩れ、新たなロジックが創出されていく様は圧巻であった。
    これまでも氏の研究は、現在の教育言説に少なからず影響を与えてきたといえようが、今後、氏は教育界のオピニオンリーダーとなっていくんじゃなかろうかと思えるくらいの労作である。
    研究者の仕事とはこうでなくちゃあ。

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戦後教育において「平等」はどのように考えられてきたのだろうか。本書が注目するのは、義務教育費の配分と日本的な平等主義のプロセスである。そのきわめて特異な背景には、戦前からの地方財政の逼迫と戦後の人口動態、アメリカから流入した「新教育」思想とが複雑に絡まり合っていた。セーフティネットとしての役割を維持してきたこの「戦後レジーム」がなぜ崩壊しつつあるのか、その原点を探る。

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