- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121020109
作品紹介・あらすじ
和食、和服、和室…、「和」はいろいろな言葉に添えられて日本的という意味を付け加えているにすぎないようにみえる。だが本来、和とは、異質のものを調和させ、新たに創造する力を指すのだ。倭の時代から人々は外来の文物を喜んで迎え、選択・改良を繰り返してきた。漢字という中国文化との出会いを経て仮名を生み出したように。和はどのように生まれ、日本の人々の生きる力となったのか。豊富な事例から和の原型に迫る。
感想・レビュー・書評
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日本文化の根底に流れている思想を解き明かした最高の一冊だと思います。日本人とはどんな民族なのか、考えずにはいられなくなります。私は、日本人の感性についての考え方が大きく変わりました!日本ってとっても面白い国なのに、当の日本人がそれに気付いていないんですね…目の前にあるからこそ気付けないのでしょうか。この本を読むと、日本人であることを心から誇りに思えるので、何度でも読み返したいです!
たとえばデザインに関わっている日本人の方なら、ただの「和風」なデザインに留まらない「和」という概念とその思想を理解することが重要だと思います!おすすめです!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ぼくが思っていたことに近いことが書かれていて、非常に共感できた。
「和」の本当の凄さというものを、分かりやすい言葉と表現で上手に説明してくれている。
それは、タイトルで既に示されている。つまり、<blockquote>異質のものを共存させる力</blockquote>これこそが、「和」という思想の本質。
特に面白かったのが、第5章の「夏をむねとすべし」。
兼好法師の徒然草を題材にして、日本文化の成り立ちを紐解いてみせるこの章は、実感として「なるほどなあ」と感じ入った。<blockquote>こうして、この国の人々は蒸し暑い夏をなんとか快適に乗り切るために間をとることを学んだ。そして、この間を生活や文化のあらゆる場面で生み出していった。その間はさまざまな異質のもの、対立し合うものを調和させ、共存させる和の力をもっている。そうなると、和を成り立たせているのもまた、その根源にさかのぼってゆけば、この島国の蒸し暑い夏ということになるだろう。『徒然草』の「夏をむねとすべし」という文言は日本の生活と文化すべての条件だったのではないか。日本人であれば誰もが了解しているために滅多に書かれることのない隠れた常識だったのではなかろうか。</blockquote>すとん、と腑に落ちる。
まさに本書を読んだ時期が、ここで書かれている「島国の蒸し暑い夏」であったことが拍車をかけた。
実感として、この如何ともし難い蒸し暑さをなんとかしたい、という切実な感情が、文化の成り立ちに影響を与えないはずはない。
ベタベタと暑苦しい関係を嫌い、さらっと爽やかな関係を好む。
この価値観が根底に流れているのであれば、その上に積み重ねられていく諸々の文化も、同じ傾向を示すのは当然。
ぼくは、日本文化の根底にあるのは「日本語」という言語の存在であり、その特性だと思っている。
その「日本語」を生み出した背景には、この国が置かれている気象条件があるのかもしれない。
その立場から改めて捉え直すと、「日本語」という言語の特性にも、その影響があることが見え始めてくる。<blockquote> 平仮名にしても片仮名にしても漢字から生まれたものだが、この仮名の誕生にも「夏をむねとすべし」という約束がかかわっていたはずだ。漢字は本来、中国語を表記するための文字だから、日本語の細やかな表現を書き表すにはいろいろと不都合がある。そこで仮名が考慮されたというのだが、万葉仮名のように漢字をそのまま表音文字として使ってもよかった。
漢字から簡素な平仮名や片仮名を作り出す、その背景にはこの蒸し暑い島国で四六時中、難しい漢字を書かされたり、読まされたりするのはやはり「堪へ難きこと」、「暑苦しい」という思いが働いていたにちがいない。
</blockquote>この傾向が行きすぎて、「常用漢字」という悪習に繋がっているのかも。
「おわりに」に要点が整理されている。<blockquote> 和とは本来、さまざまな異質なものをなごやかに調和させる力のことである。なぜ、この和の力が日本という島国に生まれ、日本人の生活と文化における創造力の源となったか。これがこの本の主題である。
その理由には次の三つがある。まず、この国が緑の野山と青い海原のほか何もない、いわば空白の島国だったこと。次にこの島々に海を渡ってさまざまな人々と文化が渡来したこと。そして、この島国の夏は異様に蒸し暑く、人々は蒸し暑さを嫌い、涼しさを好む感覚を身に付けていったこと。こうして、日本人は物と物、人と人、さらには神と神のあいだに間をとることを覚え、この間が異質のものを共存させる和の力を生み出していった。間とは余白であり、沈黙でもある。</blockquote>素晴らしく説得力のある、見事な文章だと思う。
「和」とは、極めて高度な「バランス感覚」だと思う。
どちらかに偏ってしまったものは、ベッタリとくっついてしまい、体感として「暑苦しい」。
どちらの極にも振れず、つかず離れずの位置を守り続ける事が、「涼しげ」で「粋」な事だという価値観。
それが、「和」という思想の本質を為している部分なのではないだろうか。
ちょっと話は変わるけど、「空気」という言葉は、もともとは「間」という概念と同じものを指した言葉だったと思う。
「間」が読めない人を「間抜け」と呼び、「野暮」だと揶揄してきたのだと思う。
それがいつの間にか、「空気」とは「顔色」を指す言葉に変化してきてしまったように思う。
他人の顔色なんて気にせず、颯爽と自らの人生を歩む。
そんな姿勢こそが、本当の「粋」なのではないかなと思う。
他人の顔色を伺っているその姿勢は、傍から見ていると「暑苦しい」ものだから。 -
和の連動性、融合性、間取り、可能性を説く。
間→夏との空間確保、取り合わせ→つき過ぎ回避、古池や(切れ字)→心の中.
受容→選択→変容。 -
古池や…の解釈
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先日の句会でボクは、
「もやもやとした真実やとろろ汁」という句を出した。
講評で長谷川櫂先生は、「季語がつきすぎる」とし、
本書を紹介していただいた。
俳句では「とりあわせ」ということが、よく云われる…
では、「とりあわせ」とは、どうすべきものなのか…本書では、
まず、和というものは対立するもの、相容れないものを和解させ
調和させるものとし、間のたいせつさを説く…
―なぜ付きすぎがよくないかというと…理屈でつながってしまって、
ここに間が生まれないからである。付きすぎの句とは
間のない句のことであり、逆に離れすぎの句は間が
拡散してしまった、とりとめのない句のことである。
ふ~む…なるほど、と理解はしてもなかなか、うまくはつくれない。
それゆえ、俳句は奥深く、面白いものなのかも…
沈思黙考してふわふわと精進するのが、よろしいのかな?
そればかりでなく、いろいろと学ぶことの多い一冊だった。
特に、終章に置かれた次の一節は、現今の日本を思うと重い…
―いつの時代、どこの国でも、過剰なナショナリズムは
人々の自信から生まれるのではなく、追い詰められた人々の
不安や恐怖から生まれる。熱狂的なナショナリズムの仮面を
はぎとると、そこには必ず自信を喪失した人々の不安な顔がある。 -
Amazon、¥428。
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第1週 1/11(水)~1/18(火)
テーマ「日本・日本人・日本語」
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https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/BB00171850 -
手元に買い求めた
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・和とは本来、様々な異質のものを調和させ、新たに創造する働きを言った。なぜ、この和の力が日本に生まれ、日本の人々の生きる力の源となったのか。豊富な事例から和の原型に迫る。
・自分いないものを相手がもっているから相手に惹かれる。性格の不一致が離婚の理由というのはおかしい。
小倉百人一首、源俊頼の歌。うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを(長谷観音にお参りしてある女への恋の成就を祈願したが、その女は心を開くどころか、いっそう冷たくなった。願いを叶えてくれなかった長谷観音への恨みの歌である。憂かりける=つれない。)
・日本人は生活や文化のあらゆる分野で間を使いこなしながら暮らしている。それを上手に使えば、「間に合う」「間がいい」ということになり、使い方を誤れば「間違い」、間に締まりがなければ「間延び」、間を読めなければ「間抜け」になってしまう。間の使い方はこの国の最も基本的な掟であって、日本文化はまさに間の文化である。
・フラワーアレンジメントは花によって空間をようとするが、生け花は花によって空間を生かそうとする。
・西洋のクラシック音楽は、沈黙を恐れ、音楽である以上、一瞬たりとも音のない時間を許すまいとする衝動に駆られているかのように思える。それにひきかえ、日本古来の音曲は琴であれ笛であれ、音の絶え間というものがいたるところにあって長閑なものだ。