梅棹忠夫―「知の探検家」の思想と生涯 (中公新書 2194)
- 中央公論新社 (2012年11月22日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121021946
感想・レビュー・書評
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今日の読書人にとって、梅棹忠夫という人物のスケールを正確に知ることは難しいのではないかという気がします。
私が初めて梅棹の名前を知ったのは、『知的生産の技術』(岩波新書)でした。パソコンが当たり前になり、さまざまなライフ・ハック本が溢れている現代では仕方がないと思うのですが、そのときには半世紀も前にこういう人がいたのか、という程度の感想しか沸いてきませんでした。次に『文明の生態史観』(中公文庫)を読んだときは、そのスケールの大きな議論が大風呂敷としか思われず、戦後日本が復興を果たしていく中でこういう本が受けたのだろう、と納得していました。いわゆる新京都学派や国際日本文化研究センターを中心とする文明論的ナショナリズムの流れの中に梅棹を位置づけるならば、こうした見方もけっして的外れではないと思うのですが、その後廣松渉の『生態史観と唯物史観』を読んで、ようやく梅棹の仕事がどれほど大きなインパクトを持っていたのかが見えてきました。そして、『情報の文明学』や『情報の家政学』(ともに中公文庫)を読んで、梅棹がさまざまな分野で時代に先駆けるような鋭い視点を示していたことが徐々に理解できるようになり、その仕事の全体像を知りたいと思って本書を手に取りました。
ただ、本書を読み終えての感想は、やはり梅棹ほどスケールの大きな人物を扱うには、新書サイズでは難しいのだろうか、というものでした。何よりもその業績が広範な範囲に渡っており、その意義を同時代の学問水準や時代状況の中で位置づけなければなりません。さらに、それらの研究が梅棹という人物の一貫した関心のもとで捉えなおされる必要があります。
梅棹と同様に領域横断的な思想家でも、たとえば梅原猛であれば、その強烈な実存を中心に据えることで全体像を把握することも可能だと思われますが、梅棹の場合にはそうした実存的条件が彼の仕事の中に明瞭に認められるわけでもなく、やはりそれぞれの分野の中で彼の仕事の意義をはっきりさせなければなりません。こうした意味で、梅棹ほどその全体像を把握することの難しい思想家は珍しいように思います。近代以降では、梅棹の師である今西錦司や、南方熊楠くらいではないでしょうか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
結論から言うと自著「行為と妄想」には全く及ばなかった。他人の視点で描いたものには新しい発見があるのではないかと思ったが、著書の引用が多く、生涯の業績を追っていっただけという印象だった。
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こういう生き方っていいよな、と思える本。必ずしも梅棹の思想を掘り下げた本ではない。「知的生産の技術」は読みたいな。