- Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121022721
感想・レビュー・書評
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・歴史的背景や世界情勢と共に、ヒットラーの残した演説から150万語分(速記されてたり、映像、音声で残っているもののみ)を、ナチスが与党になる前と与党になった後で分けて分析している
・どのような演説がされて、ヨーロッパを戦禍に巻き込んだのかが描かれていた
・ナチスが独裁していた頃も選挙結果だけ見れば、国民に望まれてたように見える。しかしナチスの資料には、党員ではない国民には「距離を置かれていた」又は「嫌われてた」ことが書かれていた
・ナチスの蛮行は全く支持できず、悪魔だと思う
・ヒットラーも独裁者として人間性は最悪だった
・しかし、演説家としてみると、群集心理学を学び、弁論術を学び、オペラ俳優から発声法・ジェスチャーの効果的な使い方等を学び、実践し問題点を改善し続け、最新技術を使いこなす、ある意味『勤勉』な姿が見える
・テロール教授の怪しい授業という漫画で、テロリストやカルト信者等凄く偏った考えを持つ人々が狂ってるが、一方で、合理的で最新技術に貪欲な勤勉さがあると説明されてたことを思いだした詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
結局、最後に勝つのはラジオでもネットワーク配信なのでもなく、目の前にいる人間とラウドスピーカーなのであるという現実。
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ヒトラーの演説を、6つの期に分けて分析。
私たちが最もよく知るヒトラーの映像は、彼が最も勢いを持っていた時代のもの。
その後、政権を掌握し、政情が悪化するころには、聴衆の熱気は失われ、ヒトラー自身も演説の意欲を失っていたという。
歴史の舞台裏を見て驚愕する、一冊。
これを、歴史書ではなく、自分の仕事(スピーチやセミナーで人を動かす仕事)にしようと思ったので、「ビジネス実務」としました。 -
[妖惑の所以]熱狂的な身振りと扇情的な叫声、そして過激なレトリックに満ちているものと思われがちなヒトラーによる演説。国民を鼓舞し、「狂気」へと駆り立てていったとされる演説の実態はいかなるものであったかを、計量的なデータや音声や映像の記録をもとに検証した作品です。著者は、大阪外国語大学の教授などを歴任され、近現代のドイツ語史を専門とする高田博行。
ナチスやヒトラーに関する作品は数あれど、弁論術や言語データを利用しながらここまでその本質に迫った研究は珍しいのではないでしょうか。ヒトラーの歩みに合わせたドイツの歴史を縦軸に、言語論的な情報を横軸に据えながら、ヒトラーの演説が解き明かされていく様子は圧巻の一言です。
〜国民を鼓舞できないヒトラー演説、国民が異議を挟むヒトラー演説、そしてヒトラー自身がやる気をなくしたヒトラー演説。このようなヒトラー演説の真実が、われわれの持っているヒトラー演説のイメージと矛盾するとすれば、それはヒトラーをカリスマとして描くナチスドイツのプロパガンダに、八〇年以上も経った今なおわれわれが惑わされている証であろう。現在そして今後とも、われわれが政治家の演説を目にし耳にするときには、膨らまされた「パンの夢」に踊らされ熱狂している自分がいないかどうか、歴史に学んで冷静に判断できるわれわれでありたいと思う。〜
着眼点の勝利☆5つ -
150万語に及ぶ演説原稿を書き起こし、それをコンピュータにかけて単語の出現頻度等々を定量的に分析したものを素材として、「史上最凶の煽動者」ヒトラーに迫る好著。本書の優れているのは、こういったハード面からの分析と、身ぶりや抑揚、聴衆を鼓舞する演出といったソフト面のそれの両方が、ともに高いレベルで達成されている点である。著者は言語学者だということだが、私はてっきりレトリック、あるいは宣伝の専門家だとばかり思っていた。そのくらい、その方面の指摘も鋭いのである。
こけおどしの「魔術的」なヒトラー(および彼の演説)を、後世の私たちもまた「恐るべき」「悪魔」などとふんわりしたもの言いで大雑把にくくることが多かったが、こうして科学的に丸裸にされた彼は、尾羽うち枯らしてむしろ哀れですらある。21世紀の今、書かれるべきだった良書と言えよう。
2016/9/15〜9/25読了 -
25年間150万語に及ぶ演説のデータを分析した物。
意外だったのは政権をとってからのヒトラーは演説を面倒臭がってやらなかったということ。 -
歴史上最も有名であろう独裁者、アドルフ・ヒトラーの演説について、言語学、弁論術、ジェスチャーなどあらゆる方面から分析を試みた力作です。
ヒトラーの演説が、なぜ当時のドイツ国民を鼓舞できたかについては、そのジェスチャーの巧みさにあるということが一般的に言われてきました。
しかし、筆者は演説文そのものに着目することで、それが緻密に計算された、弁論術として非常に高度な演説内容であったことを明らかにしてゆきます。
またジェスチャーの技法についても、ある舞台俳優の指導を受けることによってより洗練されたものとなり、演説の完成度をさらに高まらせたことを指摘しています。
しかしながら、国民は次第に彼の演説に飽きるようになります。ナチス政権発足から1年半後にはすでにその傾向がみられるという指摘には驚きを隠せません。
また、人々に演説を聞かせるために、ナチスはラジオを積極的に活用し、聴取を義務化しましたが、それは却って国民に「聴く意欲」を失わせ、ヒトラーと国民の距離を遠ざけてしまう結果となったようです。
この現象を、筆者は、ヒトラーと国民の関係が、演説の「語り手」と「聴き手」の関係から、単に「管理する者」と「管理される者」に変えてしまった…と表現しています。
第二次世界大戦勃発後にはその傾向はさらに顕著になりました。ヒトラー自身が敗北のストレスから演説を避けるようになったこともあり、国民の心はますます離れてゆきました。国民から信頼を得られない演説は、どれほど弁論術に長けていようと、かつてのような効果はもたらさなかったのです。
そして1945年4月30日、ソ連軍が迫る中でヒトラーは自殺し、翌5月初めにドイツも無条件降伏を受け入れ、第三帝国は消滅することとなりました。
従来のヒトラーのイメージを覆す、興味深い研究です。 -
「強い印象を残す事象」というものは「事実」または「事実の一部」かもしれないが、実は「真実でもない」のかもしれない。或いは、「事実」に真摯に向き合おうとする中でこそ、「真実」に近付くことが出来るのかもしれない。「強い印象を残す事象」の“印象”に引き摺られた「判っている」と言い張ってみる「知ったかぶり」や、何やら“建前論”を振り回して「事実」に向き合うことを避けてしまうようなことからは、「真実」には辿り着くことが出来ない…
そんなことを思わせるドイツ語学者による労作である。お奨め!!