核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)

  • 72人登録
  • 3.24評価
    • (2)
    • (6)
    • (9)
    • (3)
    • (1)
  • 9レビュー
著者 : 山本昭宏
  • 中央公論新社 (2015年1月23日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (266ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121023018

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
有効な右矢印 無効な右矢印

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)の感想・レビュー・書評

並び替え:

表示形式:

表示件数:

  • 授業の参考文献。核を題材にした漫画、アニメなどの文化がこれほどあったことに驚き。

  • 原爆投下と終戦後、日本人が核と言うものにどう関わって来たのか、社会運動、報道、大衆文化を徹して詳細に説明されいる。
    著者は原爆あるいは原発に偏ることなく『核』に対して、国民の意識がどうだったかを歴史をおって説明してゆく。それは読者としての私には『かなり悲しい』内容だった。
    国民は原爆の後、こぞって『核』に反対していたが、次第に『核の平和利用の安全神話』即ち原発に毒されていったのだと思っていたが、そうではなくて、『平和利用』には当初から漠然とした安心感があったということを知らされた。もちろん、原発の危険性が大きく取り上げられて、世間の潮流となった事もあったが、一種の流行でしかなかった。
    また、核の危険性への甘い認識は大衆文化を代表する漫画、映画でも分る。
    原爆実験で生まれたゴジラは放射線を口から吐き猛烈な破壊を行うが、そこに被爆の実体が描かれることはない。漫画、北斗の拳も核戦争後の世界が舞台だが、詳細な被爆はそこには無い。
    「唯一の被爆国と言いながら日本人は一体なにをして来たのだろう」と思う。

    『安全神話』という言葉にについて著者は以下のように定義付ける。

     『マンガやテレビ番組、映画のなかで原発は危機に瀕してきたが、それはあくまで空想の世界の出来事であると思われてきた。実際に原発災害が海外で起こっても、日本ではきっと起こらないはずだと信じ込んできた。いや、信じるというよりも、そもそも原発は多くの人びとにとって意識の外にあった。資源の少ない日本には必要なのだろう。世界に知られた技術と勤勉の国である日本では事故は起こらないはずだ。危険だというなら現状維持にとどめておこう。そういえば自分は原発を見たことがないな、そもそも原発ってどこにあるのだろう--。「安全神話」とは、このような無関心の別名でもある。』(231頁)」

    果たして、日本人は福島原発事故後、所謂『核後』を正しく生きられるのだろうか。短期的に経済成長追い求めるのであるなら、やはり原発を今後も続けていく、せめて現状維持するのが、手っ取り早いだろう。原発を止めるということは『脱原発』のみならず『脱成長』を選択することだ。しかし、東京都知事選で小泉細川連合が敗れた事を思うと、日本人にその覚悟は無い様に思える。
    結局は『反原発』『原発推進』の対立は答えなくそのまま安定してゆくのだろう。著者はそれを懸念する。
    そして、また知らず『核前』に戻る。新たな『安全神話』が構成される。

    暗澹たる思いで読書を終えた。辛い。

  • 広島、長崎の原爆から、ビキニ岩礁での漁船被曝。そして、いくつかの事故を経て、311の福島第一原発の重大な事故まで。
    その間、マスコミだけでなく、映画、ドラマ、マンガ等日本人の意識を反映し、そして意識を形成する様々な媒体において、武器としての原子力「核兵器」と核の「平和利用」について、どのように表現され、報じられ、そしてそれらが日本人の意識に刷り込まれていったかを、客観的に分析している。

    戦後70年の歴史は、軍事目的、そして平和目的(?)と主たる目的は異なるにしても、原子力利用の70年でもあった。
    特に原子力の利用について表現されたものは、自分が生まれ、育ってきた時代と重なるので、非常によく親しんだものであり、あったあったと振り返ることができた。

    そして、さらに興味深かったのは、私の上の世代、戦後すぐに子供だった時代は、米ソ冷戦のなかで、核は兵器として使用されるのが前提の時代であり、かつ、米国の日本支配において悲惨な核爆弾の被害から目を逸らさせ、強力な武器ではあるが、明るい未来を作り出すものと喧伝されてきたこと。
    その時代に、幼少期を過ごした人たちが、現在、原発の利用シーンにおいて、東電の社長であったり、国会議員であったり、経済団体の重鎮の世代と重なるのは、決して偶然ではないのかもしれないということ。

  • 2015年4月新着

  • 勉強になりました。

  • 核をこれまで日本人はどのように表現してきたのか。
    とても役に立つものと思っていたものが
    じつはとてもコントロールできない代物とわかりました。
    みらいは核の先にはありませんでした。

  •  「被爆国だから…」反核or核の平和利用。「福島原発事故を経験したから…」反原発or原発推進・再稼働。敗戦後の核をめぐる語りの構図は、1950年代から基本的に変わっていないのではないか。山本は、周期的に起きる事故・事件が議論を呼び、反対と批判の声が渦巻くが、いつしか対立が定常化し、固定的な構図のなかで陳腐なものと見なされるようになり、「問題」として忘却されていく――こうした事態が反復されてきたのではないか、という事態が反復されているのではないか、と問題を提起する。このことは、結果的に(たいへん逆説的なのだが)言説の場としての「日本」の安定性と、それゆえの歪みと淀みを露呈させてしまっているのではないか。例えば椹木野衣が「悪い場所」と言ったような、あるいは柄谷行人が「外部」を希求せずにはいられなくなったような。

     いちどやってみればわかるが、年表的なデータを語りに起こすことは、じつはひどく難しい。レベルの異なる情報をひとつの平面のうえに並列させることのできる「表」とは違って、雑多かつ大量の情報に、時間の軸だけでなく、論理の筋道を与えていくことは容易なことではない。サブカルチャー(貸本マンガ含む!)の諸ジャンルに目配りしつつ、コンパクトに事態をたどってみせた本書は、ひとつのデータベースとして今後の議論の土台となっていくだろう。著者の力量を感じるし、これがほんとうの議論の出発点になる。いくつかの作品はちゃんと読み直したうえで、本書の記述ともう一度向き合わねばなるまい。 

  • 神戸市外国語大学専任講師の山本昭宏(1984-)による、映像・漫画を中心とした原子力をめぐるイメージ像の戦後史。

    【構成】
    第1章 被爆から「平和利用」へ 占領下~1950年代
    第2章 核の現実とディストピア世界 1960年代
    第3章 原発の推進・定着と会議 1970年代
    第4章 消費される核と反核 1980年代
    第5章 安定した対立構造へ 1990年代から3.11後

    「3.11」後、戦後日本の原爆・原発をめぐる受容・反発の過程を論じた出版は多い。その中で、本書の特色は、主として映画、漫画を中心とした大衆文化への投射のされ方を基軸にしてそれを論じているところにあるだろう。
    視角、内容を見ると山本も執筆者に名前を連ねている福間ら編『複数のヒロシマ』(青弓社)が本書の下敷きになっているように思えるが、本書は広島原爆に限らず原発も含めた原子力のイメージを論じている。吉見俊哉は『夢の原子力』(ちくま新書)で本書と近似した問題意識に基づいて、日米関係の中での原子力イメージの輸出入を論じているが、本書は日本国内でのメディア分析が主体となっている。

    内容に移ろう。
    出版物がGHQ-SCAPの統制下にあった占領期の実にあっけらかんとした「原爆受容」が描かれる。すでに先行研究で種々指摘されている内容であるが、改めて今日の非核・反核意識との断層を感じる。
    1960年代に入り、キューバ危機に代表される核戦争への恐怖が共有されるようになったわけだが、この時期に運転開始した原発に対する強い反発はまだ起こっていない。ただ、原爆に対するイメージの分裂が現れてくるのもこの時期である。1950年代のような原子力に対する素朴な期待を寄せられる(ex鉄腕アトム、8マン)一方で、被爆者の怨み・怒りの表出がストーリーに組み込まれる漫画(ex中沢啓治作品)も出てきた。
    1970年代は、公害と原発があわせて論じられるようになったものの、まだ本格的な原発に対する疑義が生じていたわけではなかった。1970年代前半の特撮全盛期の中で原発破壊のプロットはSF的に消費されていたことは、裏を返せば現実には起こらないという安心感から来ていたと言えなくもないだろう。
    評者にとっては、1980年代に関する分析が、本書で最も面白く感じた。79年のスリーマイルの事故では揺らがなかった原発の安全性への信頼が、81年の敦賀での事故、そして86年のチェルノブイリによって根底から揺さぶられる。平和利用である原発と軍事利用である核兵器についての態度は、進歩的知識人の中でも80年代の前半までは区別されていたそうだが、チェルノブイリ以降は平和利用に対する疑義が反原発ニューウェーブにつながっていく。しかし、興味深いことに、そのニューウェーブもファッションのように消費されてしまい、下火になった。『Akira』も『北斗の拳』も核戦争後の世界を舞台にしているが、リセットされた世界を創出するスイッチ以上の意味は持たされなかった。
    90年代以降は残念ながら各論の点描であり、ストーリーとして語られているものはない。ただ、冷戦という核戦争を惹起すると思われていた最大の要因が取り除かれ、核軍縮の緊急性が下がった時代の「反核」論という視点はうなずける。

    巻末に著者の主張は盛り込まれているものの、全体を通じて感情的、政治的な偏りはほとんどなく、社会学のメディア分析として量と質は一定程度担保されている。漫画が中心とはいえ多くの資料に目を通した上で、執筆されたことがうかがえる。
    一方で、出版された絵を額面通り受け取っている印象もぬぐえない。つまり、ウルトラセブン第12話の問題が端的に示す通り、出版物の表現には社会的・政治的な規制・圧力が大なり小なり生じており、出版する側の自主規制・編集方針が介在する。本書ではこれについての言及が全くされておらず、それが著者の主張を平板なものにしてしまっているように思える。

    中公新書の著者の中では最も若い層に入る著者であるが、まずはこの大きなテーマを一書にまとめたことに対して賛辞を送りたい。しかし、原子力の受容・反発という政治的問題と切り離せないテーマを、そこと切り離してメディア分析だけで論じることに限界がある。今後はぜひ複眼的な視点で立体的・構造的に本テーマを論じてもらいたい。

全9件中 1 - 9件を表示

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)を本棚に「いま読んでる」で登録しているひと

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)を本棚に「読み終わった」で登録しているひと

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)の作品紹介

唯一の戦争被爆国である日本。戦後、米国の「核の傘」の下にありながら、一貫して「軍事利用」には批判的だ。だが原子力発電を始めとする「平和利用」についてはイデオロギーと関わりなく広範な支持を得てきた。東日本大震災後もなお支持は強い。それはなぜか-。本書は、報道、世論、知識人、さらにはマンガ、映画などのポピュラー文化に注目、戦後日本人の核エネルギーへの嫌悪と歓迎に揺れる複雑な意識と、その軌跡を追う。

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)はこんな本です

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)のKindle版

ツイートする