満州事変はなぜ起きたのか (中公選書 22)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (205ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121100221

作品紹介・あらすじ

中国の老獪、欧米の野心、国民の熱狂-息づまるドラマを明らかに。最新研究をもとに満州事変への道をとらえ直す。

感想・レビュー・書評

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  • 天皇自らも言及したように、満州事変は日本の中国への侵略の第一歩とされているが、日本は最初から中国を侵略しようと思ったのかという疑問がぼくの頭にはずっとある。本書はたしかに満州事変はいけないことではあるが、日本がそこまで踏み込まざるをえなかったにはいろいろ理由があることを問題にする。1つは中国の老獪さである。それは中国がつねに列強から不平等な条約を突きつけられているということがあるが、日本の側に立てば、決めた条約を守らないということになる。もう一つは列強とりわけ米英の狡猾さで、それぞれが自分の利権に有利なように中国語と個別交渉をする。日本はある意味、お人好し、単純だったのである。だから、単純に武力で中国をなんとかできると考えたのではあるまいか。もう一つは日中両国の国民の覚醒である。それは中国では反日デモ、日貨排斥となっていくが、日本でも米騒動などで政府にたてついた国民(といっても富裕層ではあるが)が、軍といっしょになって中国を懲らしめろとなるのである。歴史は単純ではないと思い知った。ぼくは最初本書を書いたのは、まだ若い人かと思ったが、筒井さんはぼくと同世代の京都大学の教授。多くの業績と史実に基づいてこれだけのことを論じているのかと思うとよけい納得させられた。

  • 筒井清忠氏は昭和史を塗り替える注目すべき論考をいくつも世に問うてきた。丸山眞男の日本ファシズム論への批判を皮切りに、二・二六事件が純真無垢な青年による無謀な暴発ではなく、緻密なプランを持ち成功の可能性も大いにあったクーデターであるとする新解釈(『 二・二六事件とその時代―昭和期日本の構造 (ちくま学芸文庫) 』)や、「軍部大臣現役武官制」が軍の政治介入の温床になったという神話の解体(『 昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像 』)など、いずれも手堅い実証に裏付けられたプロの歴史家の仕事だ。本書は対米戦争で破局に至るプロセスの起点として満州事変を捉えてその原因を探るものだが、氏の昭和史の総括とも言うべき力作だ。

    満州事変(1931)は中国の度重なる条約違反への対抗措置という側面が強いが、中国からすればそもそも不平等条約を守る義務を感じていないのだから確信犯であり、発端は悪名高き「対華二十一箇条要求」(1915) である。ただ当時の国内世論の圧倒的多数が「断固要求貫徹」であったことを忘れるべきでない。最もリベラルと言われた朝日新聞や良識ある言論人と見られていた吉野作造も例外ではない。「英米本位の平和を排す」(1918)と豪語した近衛文麿は絶大な人気を博し、椅子を蹴って国際連盟を脱退(1933)した松岡外相は歓呼を持って迎えられた。大正期を境に政治は世論の動向を無視し得なくなっていたが、無謀な外交と軍部の台頭を許したポピュリズムの淵源は、皮肉にも大正デモクラシーにあったと筒井氏はみる。デモクラシーが踏みにじられて軍国主義に突き進んだのではなく、デモクラシーが軍国主義を煽ったのだ。

    一方当時の中国の状況を見れば、軍閥割拠による事実上の無政府状態が続き、居留民への暴行・略奪が繰り返し行われており、事変を起こした日本にも少なからず理はあった。ワシントン会議(1921)の協調精神を自ら反故にするような排日移民法(1924)を制定したのもアメリカである。にもかかわらず、日本が国際的な孤立を深めていったのは、日本と米英との離反を企てた中国の巧みな外交もあるが、いかに国際世論を味方につけるかについて、プロパガンダも含めた組織だった戦略を欠いていたことが致命的だった。その情勢認識の甘さと外交センスのなさは否定しようもない。

    要するに満州事変が起きたのは政治が国内世論に負けたからであり、軍事的に成功しながら政策として失敗したのは政治が国際世論に負けたからである。内外の世論、即ちメディアと大衆を統御することに失敗して最終的には破綻した。筒井氏の目は徹底的なリアリストの目だ。左右を問わず手垢にまみれた道義的批判に殆ど関心はなさそうだ。それはむしろ歴史を見る目を曇らせると考えているのだろう。果たして我々はこの失敗に学んだと言えるだろうか。

  • タイトルから、「満州事変」が起きた数年前、たとえば張作霖爆殺事件あたりからの著述なのかなと思って読むと、著述は明治時代あたりから、中国との関係や国内政治、社会情勢などを踏まえながら、「満州事変」にいたる流れを整理したもの。

    これを読むと、「満州事変」が起きたのは、むしろ必然の感じがしてしまうが、あくまでも「満州事変」が起きたという事実があったことをベースにそれにつながる歴史の流れを整理したということ。

    つまり、さまざまな歴史の流れはあるわけで、満州事変のようなものが起きなかった、仮に起きたとしてもあそこまで拡大せずに終わった歴史の可能性は多いにあるわけだ。

    それでも、やはりこのラインをおさえることはとても大事なことだと思った。

    著者もいうように、太平洋戦争が起きたのは、かなりの部分日中戦争が起きたことに起因し、日中戦争が起きたのはかなりの部分満州事変が起きたことに起因する。

    というわけで、満州事変がおきたのは、どの程度まで過去の経緯に起因するのだろうかという探求をしているわけだ。

    この探求は、ミクロ的な分析から新たな新事実が浮かび上がったというようなものではなくて、基本的には日本の近代史を眺めれば、だれでも知っているような事実のつながりである。

    一見、あまり難しくもなさそうであるが、著者によるとこれをしっかりとまとめないと先に進めない感じがしたテーマということ。

    なるほど、それもわかる気がする。

    相当、ミクロレベルでいろいろな事実の分析が進んだ時点で、もう一度、マクロレベルでなにがどう連鎖していくのか、と大きなつながりを構成し直すというのは、これはこれで大変なことなんだろう、と思った。

  • 満州事変が日中戦争、そして太平洋戦争を引き起こしたとは言えないが大きな要因の一つになっている。ではなぜ満州事変は起こったのか。

    15年5月9日袁世凱は対華21カ条要求を受けいれた、この日は後に国恥記念日になっている。また五四運動という大規模な反日運動を引き起こした。日本国内でも吉野作造が「最小限度の要求」と読んだように議会や世論はこの要求を当然のものと見なしていた。ドイツから奪った山東省の権益や満州の権益のみならず調印時には中国に対する内政干渉とも言える第5条も戦勝国日本にとっては無理な要求とは映らなかったと言うことだ。

    辛亥革命後の中国は南に孫文の革命派、北に安徽派、直隷派、奉天派などの軍閥が主導権争いをしておりこれらの勢力と日本軍は互いに利用しあう関係であった。例えば孫文も金銭援助の代わりに第5条に近い内容を受け入れる中日盟約を交わしている。

    日中間の人的交流は拡大し満州在留日本人は1915年には10万人を超え、満州事変直前の1930年には23万人に増えていた。対華21カ条要求に反対する日貨排斥運動や五四運動など民族自決権に目覚めた中国の大衆運動と政府に対し対中強硬政策を要求する日本の世論は交流の増加とともに摩擦の増加も増えていた。

    ワシントン会議で中国は21カ条の撤廃を目指したが米英はまだ日本に配慮しており、アメリカが排日土地法を成立させるなど日米間の関係は悪化していたが対中国ではまだ協力の余地はあった。しかし、中国の排外主義の高まりとともに各国の思惑がずれていく。

    蔣介石は国共合作を果たし北伐による中国統一を目論む。この際日本は満州権益を守ることを優先し中国本土では中立、満蒙の張作霖は援助するという方針だった。しかし、済南事件で日中両軍が衝突した結果中国は列強を分断し日本を孤立させる方針に転換していく。

    アメリカは元々親中的でワシントン条約の順守には消極的で不平等条約とはいえ中国の条約違反に寛容だった。イギリスはむしろ親日的だったが中国で頻発するデモや暴力事件に対し日本が軍事力を行使し治安を維持することを期待していた。この時まで幣原、重光の日中協調派はワシントン条約を尊重し内政干渉を避けていたが、イギリスの日本への不満がたまりまた国内では弱腰に対する国民の不満が膨らんだ。

    河本大作による張作霖爆殺は満州権益に手を出そうとする奉天政府に対する実力行使だったが日本の孤立化をますます勧めた。排日運動により深刻な被害を満鉄関係者がうけ大量の失業者が生まれる。「満蒙は日本の生命線」と松岡洋右が流行らせた言葉は利権と失業対策であった満州の問題を日本の権益が「全満蒙をおおっていると」すり替え、関東軍がこの松岡的理論を取ることにより日本の国際的な立場は弱まった。

    最終的には関東軍が暴走するのであるが、その背景にあるのは対外的にはイギリスを味方に引き止められなかった外交力の弱さであり、国内では対外強硬的な世論が軍部を後押しするのを止められなかったことだ。国際的な孤立、好戦的な国内世論そして暴発する一部の軍人、満州事変から日中戦争への道筋が作られていった。

  •  日露戦争後から満州事変までの通史。頁数も多くなく一般書だとは思うが、その割に個別の事実関係や先行研究の引用が多く、大きな流れがつかみにくい。一方で日本と満州のみならず中国全体や英米露との関係まで網羅しており、多角的な視点がある。
     その中で、最終章で挙げられた日本側の問題点6点は示唆に富む。うち多くが国際的イメージ悪化と国内の過度な大衆ナショナリズムの危険性、及びそれらの危機管理の失敗に関係しており、現在にも共通する教訓であろう。たとえば、現在の歴史問題に対する日本(人)(政府に限らない)の対応が日本のイメージを傷つけかねないことへの教訓にもなるのではないか。
    1)偽善ではあっても「民族自決」が広がる中で、日本(人)は「国際世論」及びそれを味方につけるという方策が欠けていたこと。
    2)国際連盟との関係。日本のイメージがよくない状況下で、満州事変のようなことが起こると世界の世論を一度に敵に回してしまいかねないという意識の希薄さ。
    3)大国としての責任。特に軍人に欠けていたのがずさんな謀略が国際的な印象を悪くすることへの責任の希薄さ。
    4)日本の大衆世論・ナショナリズムの盛り上がりが急進的軍人の背後に。同様の危機管理意識の薄さは国際世論を味方にする点でも立ち遅れていたことに共通。
    5)中堅幕僚・青年将校の独断専行は大正デモクラシー・大衆の影響力の拡大に既に端緒。
    6)日本外交・日中関係が行き詰まる前にワーストケースを避ける手立てを予め打っておく、言わば「堅実に行き詰まる」の失敗。

  • 複雑な国際関係の中で昭和初期の外交がなぜ敗北し「満洲事変」という軍部の暴発に至ったのかを日露戦後の大衆社会の誕生から整理して筋道を立てて説明している。本書は簡潔で的を射ていると思うが、それでも辛亥革命以後の中国情勢を理解するのは本当に難しい。理由の一つは当時の中国側資料にアクセスすることの困難さがあると思うが、これは現在の共産党政権が倒れでもしない限り、かなり難しいだろう。著者は慎重に当時の外地でのメディア資料なども用いて実証的に迫ろうとしている。日貨排斥運動などについて当時の国際世論から言っても中国側がかなり酷いことをしていたのがよくわかる(それが事変の正当化にはつながらないことは著者も言うとおり)。また米英の微妙な対中、対日スタンスについてもかなり踏み込んだ説明がなされており、勉強になった。

  • 日本はワシントン条約に忠実に行動したが、中国の不平等条約への反発は、英米との融和によって、日本の孤立化を導いた。中国の急進的な不平等条約解消運動は日本を追い詰める形となった。中国の強硬論に業を煮やしたイギリスの提案を日本がそれに応じるより早く、日本の内部の急進主義者が軍事行動を起こしてしまったのである。その間の様々な事件や出来事を簡潔に示していた。

  • 中国の老獪、欧米の野心、日本の熱狂−−息づまる日本史のドラマを明らかに。日露戦争後の日米関係緊張から説き始め、最新研究を基に満州事変史を捉え直した注目作

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著者プロフィール

1948年生まれ。帝京大学文学部長・大学院文学研究科長。東京財団政策研究所主席研究員。専門は日本近現代史、歴史社会学。著書『昭和戦前期の政党政治』『天皇・コロナ・ポピュリズム』(以上、ちくま新書)、『昭和史講義』『昭和史講義2』『昭和史講義3』『昭和史講義【軍人篇】』『昭和史講義【戦前文化人篇】』『昭和史講義【戦後篇】上・下』『明治史講義【人物篇】』『大正史講義』『大正史講義【文化篇】』(以上編著、ちくま新書)、『戦前日本のポピュリズム』(中公新書)、『近衛文麿』(岩波現代文庫)、『満州事変はなぜ起きたのか』(中公選書)、『帝都復興の時代』(中公文庫)、『石橋湛山』(中公叢書)、『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館)など。

「2022年 『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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