- Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121501400
作品紹介・あらすじ
ピッキングや外国人犯罪の増加が報道され、防犯意識が高まった。監視カメラやNシステムの設置、地域社会での自警団結成が盛んだ。現代都市の悪意と善意を気鋭の建築評論家が読み解く。
感想・レビュー・書評
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守る、ということがいかに簡単に排除に繋がるか、に焦点を当てた本。
「谷岡一郎著新潮選書こうすれば犯罪は防げる──環境犯罪学入門」も是非併読を。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
中身の薄い新書。
各地のまちや、何なら映画のなかの情景に至るまで、みた事例&きいた事例を集めるにすぎず、ちゃんとした主張も論理性もない(というか論理展開自体がない)。
単に、セキュリティがどんどん強化されていく事例をこれでもかとみせることで、できれば「オーバーだなぁ」と感じてもらいたいという、感情的なつくりの本である。
だから、読んでも「何故"過防備"と著者は評価してるのか」がまったくわからない。
空港の顔認証も、ICタグを商品につけることも、過剰なセキュリティの一事例として示しているつもりなのだろうが、本来いずれも効率性(出入国管理の効率化、商品管理の効率化)のための技術だと思う。
また、犯罪マップの公開により各区の防犯体制が高められたという事例についても、「不安のみが拡散されたため(おきたこと)だ」といって非難しているが、リスク情報によりむしろ適切に備えがとられた事例と捉えるべきなのではないか。子供の事故の報道についても、根拠なしに「過剰な報道」と決めつけている。
さらにはSARS対策にまで短絡的に(かつ一瞬で)論考を拡大し、「過剰な反応」と評している、、なぜ過剰なのかの論理的説明も、やはりせずにである。
そして最終的に、「セキュリティという名の病」という感情的な一言に、結論の全てを委ねている。あれ、こういう非論理的な人なんだっけと思えてならない。
要は、リスク評価の発想や論拠の一切を欠如させ放棄させたまま、その「リスク」を語ろうとしているのだ。
建築界きっての論客と思っていた人がこうだとは、寂しくてならない。
あるいはひょっとすると、建築分野というのは(土木とは違って、)リスク評価、リスク管理という視座が完全に抜け落ちているのだろうか。。。
余談だが、大教大池田小学校の事件後のガードっぷり(仮の守衛室とか通学路の緊急用押ボタンとか)は、「再度災害防止」をとなえる鬼怒川などの河川整備を想起させた。
その点だけは面白かった。 -
既読。
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[ 内容 ]
ピッキングや外国人犯罪の増加が報道され、防犯意識が高まった。
監視カメラやNシステムの設置、地域社会での自警団結成が盛んだ。
現代都市の悪意と善意を気鋭の建築評論家が読み解く。
[ 目次 ]
序 過防備都市とは何か
1章 情報管理社会の空間
2章 戦場としてのストリート
3章 要塞化する学校
4章 住宅という最後の砦
5章 テロリズムと都市
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
監視社会に対する警鐘であり、
排除社会に対する警鐘であり、
セキュリティ社会に対する警鐘である。
自分を被害者予備軍と捉えはじめたとき、都市は過防備となり攻撃的になる。 -
都市とセキュリティのあり方を考えさせてくれる本。
具体的な建築空間、都市空間の事例から分析しています。
何となく結論めいた部分が無かった気もしますが、
ようは、集まって住むことの窮屈さと安心感のバランスが重要
ということですかね。
以前、アメリカの大学で現地学生と
街区単位の計画について議論したとき、
日本の「路地」のようなすきま空間の良さと、
安全に保つマネジメント手法については
なかなか理解されませんでした。
まあ、最近の日本ではだんだんそのような
地域で見張っていくような雰囲気は
薄れてきてしまっているようにも思います。
ただ、空気が読めない第三者がセキュリティのために
監視カメラで見張っているようなまちが
魅力的で楽しいかというのはやや疑問ですね。
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監視社会・ネットワーク社会を予見し、その危うさを表明した最初の本。技術者、建築関係者は必読。安心・安全というだれもが否定できない罠を見事に論じている。考えされられ、新たな心地の一冊。【購入】
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人々の治安状況に対する不安とセキュリティ意識の高まりを背景として、都市の監視機能が高まっていくことに対する建築家の立場からの問題提起の書。一般論としては漠然とした不安感を背景に都市の管理性、排他性が高まっていく状況は好ましくない。しかし、いざ自らの周囲の状況に照らし合わせた場合、セキュリティツールが身の回りに整備されていた方が安心であることは否定できない。結局、「安全・安心の確保」により得られるものとそれを確保するために逆に失うもののバランスをどうとるかということに帰着するのだが、結論が直ちに出ない、また単純な結論を出すことがそもそも難しい問題である。著者も現在の社会状況に批判的であることを窺わせつつ、明確な結論を出すことは敢えて回避している。ただ、少なくともこの現在進行形の重要な社会問題を常に意識しておくことは重要であり、本書はその契機を与えてくれる。
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主に、監視カメラなどのセキュリティ過剰の社会に対して批判的なスタンスから、叙述を進めていっている。しかし、批判的なスタンスでの共感を求める読者には、今ひとつ物足りないかもしれない。
あからさまな批判は行わず、事例の列挙が多いからである。これはひとつのスタイルではあろう。また、彼と反対のスタンスからも、だからどうなのかという批判の足がかりをあまり与えてくれない、という物足りなさを感じるかもしれない。
以前、と言ってもかなり前のことだが、エジプトのルクソールで観光客を狙った無差別銃乱射事件が起こった。その翌日には地元の観光サービスは再開されたのだが、日本人観光客が「能天気」に昨日のことも意識せずに観光をしているという「平和ボケした国民性」を問うた新聞記事があった。
そのとき、僕が半ば冗談で、これこそがテロに屈しない国民性と言えるのではないだろうかと言った。そのような日本人は,テロリストの目的を何事もなかったかのように、通り過ぎる。
ところがそれは今となってはあまり冗談とは言えない。どちらがいいのだろうか?
物理的な危険を選択するか、それとも精神的な不安を選択するか?それによって都市のセキュリティ・システム構築は大きく変わってくる。しかし不安を重視したセキュリティ・システム論者が常に持ち出すあの論法に一言言いたい。
その論法とは、「じゃあ攻めてこられたら(あるいは攻撃されたら)どうするのだ」である。
論理的にイーブン、つまり、討議可能となるためには、では、どこまでセキュリティ・レベルを上げれば「攻めてこられない」のかが立証可能でなければならない。そしてそれは不可能である。すなわち、
そのような不安ベースのセキュリティ・システムは、本質的に無駄を必要とする。どこまでやったらいいのかわからない以上、どこまでもやらなくてはならないからである。そして、そのどこまでもやったことの実効性は問題とはならない。
重要なのは、無駄な監視ごっこがはびこってしまうことをどう考えるかである。