大衆の反逆 (中公クラシックス)

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著者 : オルテガ
制作 : Jos´e Ortega y Gasset  寺田 和夫 
  • 中央公論新社 (2002年2月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (263ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121600240

大衆の反逆 (中公クラシックス)の感想・レビュー・書評

  • 内田樹先生が度々引用されている御本なのでいつかは読んでみなくてはと本棚に用意してあった一冊。立憲主義の破壊に扉を開いた参院選前に読んだというのも何かのお導きなのだろう。いや、俺が求めていたのか?
    国家って様々な形があって、生き物みたいにうごめいているもんなんだなぁ~と思った。立憲主義や民主主義って言っても、ある政治形態に名前をつけただけで、実際に営まれている政治過程は複雑怪奇でよくわからない。
    僕らが国家の構成要素だということは、否定しがたい事実だけれども、階層性の論理から言うと階層下位にある国民は、階層上位にある国家の活動を制御しようがないのだろうな、とふと思った。
    それは、決してあきらめとか自棄とかではなくて、だからこそ、精一杯生きていきたいなぁ~という希望を含んだ気持ちです。

  • 大衆の中にいると、大多数のうちの1人という安心感から、自分を疑わなくなる。

    議論から逃げ、暴力やクーデターに走ろうとする。

    自分の中の知性を磨くことこそが重要。

    ってことかな?

    難解でした。

  • ここ最近ライトな本に逃げている自分がいたので、久しぶりに難しい本を読んでみた。

    タイトル的に今までの独裁主義、封建制度が崩れて大衆の時代が来たのだあああああ新世界の夜明けやあああああ

    みたいな話かと思ったらまったくもって真逆だったwww俺の乏しい読解力の中で理解したのは以下のとおり。

    今まで国、大衆を支配していたのは優れた才能、能力がある、もしくは優れた才能、能力を得ようと努力している人間だったのに、民主主義の名のもとにいまやなんの才能もなければ努力もしてない、むしろ積極的に凡庸な大衆という立場に甘んじてる無能が支配的な立場にあることに対して警鐘を鳴らしていて面白い。そもそも優れた文化、芸術、学問、技術は常に一部の才能豊かな人間によって作り上げられてきて、大衆という名の凡人共はその恩恵を受けているだけだったのにいつの間にお前らそんなに偉くなったと勘違いしてるの?なんなの?そもそもお前らなんで生きてんの?お前らの生きる意味ってなに?っと大衆に対する警鐘から大衆の「生」に話が展開されていく・・・はず。

    ただしこの「生」については残念ながら俺の国語力ではよくわかんなかったwwww

    しかし、今から100年くらい前に書かれている本なのに既にこの時代に今で言う欧州連合が将来できることを予想しているオルテガちゃんはなかなか賢い。

  • 密集という事実

  • 自分が大衆人だということは分かった。

  • タイトルから受け取るイメージとは裏腹に大衆というものがいかに無責任で無知であるか、そしてその大衆が今国の中心になってしまっていることの恐ろしさを指摘した書。1930年に書かれた作品なのですが、驚くほど現代そのものだと思った。

    権利や自由があらかじめ用意された世代に生まれたわれわれはそれが空気と同等であるかのように扱い、感謝するということをせず(自然物であるかのような扱い)、義務も遂行せずに、ただひたすらに権利権利を叫びたてる。

    現時の特徴は「凡庸な精神が、自己が凡庸であることを承知の上で、大胆にもその凡庸なるものの権利を主張し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある」とオルテガは主張する。

    その延長線上に、「サンディカリスムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押し付けるタイプの人間がでてきたのである」

    この二点だけとってもオルテガが主張する「大衆」というもののおろかさが分かると思う。

    なんだか最近のニュースを見ているととってもうなずける。

    更に、現代のほうが前世紀よりも技術も環境も整備されているのに幸福感が少ないのは、「時代は他の時代より上だが、自分自身よりは下だ」と書かれている「時代の高さ」という章に大きくうなずいた。

  • 向上心が湧く本。
    自分に高い課題を課せる者だけが、エリートになれる。

  • 19世紀のヨーロッパが、まさにいまの、21世紀の日本の状況に酷似しているという衝撃。僕たちはこれから、どんな未来を選択してゆけばいいのだろう…。

  •  本書の内容がはじめて発表されたのは1926年、マドリードのある新聞だ。80年以上前に書かれたものであるにもかかわらず、(あるいはそれ故に)これは現在の日本にぴたりと当てはまる分析ではないかと思ってしまう箇所が少なからずあったことに驚きの念を禁じえないとともに、ヨーロッパではじまっていたことが遅れて日本で起こっているのかもしれないとも思った。

    (以下引用) 

     要するにわれわれの時代の高さとはいかなるものだろうか?

     現代は、あらゆる時代の絶頂ではないが、しかし、自分があらゆる過去の時代よりも上にあり、知られている限りの頂よりもなお高いところにあると感じている。われわれの時代が自分自身について抱いている感じをまとめるのは容易ではない。つまり、われわれの時代は他のあらゆる時代よりもまさっていると信じながらも、それと同時に自分が新しい時代の始まりだと感じていて、しかもそれが末期の苦悩でないことに自信が持てずにいるのだ。以上をどういうふうに表現したらいいものか?たぶんこんなものになるだろう。すなわち他のあらゆる時代にまさりながら、自分自身には劣っている時代、非常に強いが、それを同時に自分の運命には確信がもていない時代。自分の力を自慢しているが、それと同時にその力におびえている時代。それがわれわれの時代である(p79)

  • 「現代のヨーロッパは退廃している」
    オルテガは、19世紀の科学文明の発達がヨーロッパ社会に「大衆的人間」を生じさせ、自らに義務を課し、社会に対して責任を持って生きていこうとする従来からの「貴族的人間」と対峙する存在であるとした。この、文明の成果をまるで自然環境であるかのように享受し、その外に出ようとせず、自分の殻の中に閉じて生きていこうとする大衆的人間が支配する社会が現代の社会であり、このような社会は退廃している、と彼は痛烈に批判している。
    社会に対して責任を持ち、もっとリアルな生を生きるべく社会に参加すべきことを主張している。

  •  大衆が社会的勢力の中枢に躍り出た。少数の限られた人だけの特権が、大衆に侵食されてきている。気付けば周りは匿名で没個性の無知な大衆で溢れかえっているのである。
     オルテガは『大衆の反逆』において、現代における大衆の脅威と危機について語った。しかし、現代について語る前に、此処で言う大衆の定義とその発生の過程についてまず触れておきたい。

     まず、大衆とは何なのか。大衆とは漂う波に身を任せ、没個性的であり、匿名性を帯び、無知な非教養人を指す。他人と同じであるという安定感に快楽を覚え、例え知識があったとしても専門化された特定のことだけしか知らない。
     そしてまた、それら大衆はどのようにして生産され、また近代において台頭するに至ったのか。オルテガの述べる大衆化のプロセスは三つである。自由主義的デモクラシー、工業化、科学的実験だ。自由主義的デモクラシーは多数決の原理を持ち出し、多数派である大衆の肥大化を促進した。工業化は大量生産・大量消費によるみんなが同じものを所持するフラット化を可能にした。科学的実験は、学問の専門化の進展により、バランスの崩れた専門化傾向を顕著にし、教養人を消し去ってしまった。

     さて、現代についてだ。現代は大衆の洪水が起きている。冒頭でも触れた通り、いままでは限られた人の特権だったものが、大衆の波に全て飲み込まれているのである。また、何かについて決める際にも大衆の波が流れる方向に事が運ばれていく。前近代においては限られた人物によって決められていたことが、不特定多数の感情に流されていくのである。
     政治的決定における大衆の感情の介入による問題は、大衆が無知なことである。大衆化のプロセスでも述べたように、大衆は科学的実験による学問の専門化の進展により、バランスの崩れた専門家になっているのだ。官僚機構における専門性の優位性は認めるところがあるが、全体を俯瞰して行う政治的決定においては大衆の感情に任せた決定というのは極めて軽率に感じられる。

     衆愚の問題は現代日本における大衆民主主義の限界にも重なる。メディアや第一印象に任せ、自らの快楽に沿って選挙を行う日本では、政治の限界は大衆の限界でもある。また、今日の日本においては大衆の従うメディア自身も大衆であるため、自助更正はいよいよ難しいようにも感じるときもある。

     大衆の限界、それを乗り越えるにはどうすればいいのか。それこそ語られねばならぬことだ。必要なのは新しい規範なのか、大衆の排除なのか、それとも再生産なのか。私の結論は、大衆の全肯定である。
     無知な大衆の選択により、果たして本当に社会は悪くなるのか。私にはどうもそうとは思えないのである。大衆の行動原理が漂う波に身を任せ安楽を貪るだけなのであれば、破綻による脅威が牙を向けば、大衆は自然と目覚めるように思えるのである。
     ただ、ひとつ現代において我々にできることと言えば、教養人となることである。大衆とは教養を失い、快楽に生きる存在である。そこから抜け出ることだけが、現代を生きる我々にできることのように思える。社会全体の変革を行うのは容易なことではないのだ。そこでできることといえば、ひとりでも大衆ではなくなることである。快楽に溺れず、考えることができる人間の存在こそ、日本を良き方向に導く。
     また、大衆を全肯定することについてだが、過去においては大衆を圧政していた暴君は一部の貴族だった。しかし、現在においては大衆を圧政する暴君が大衆自身となっているため、たとえメディアが機能不全を起こしたとしても、大衆自身の中で自浄作用が生じると考えられるのである。

     大衆の時代において大切なことが二つある。一つは考えること、もう一つは待つことである。
     一つ目の考えることは、自らを大衆の波に沈まぬようにしてくれる。... 続きを読む

  •  「俺はもう我慢ならねぇ。もう言わなくちゃ気がすまねぇんだよ!」とでもいう感情があって書かれたのかなという気がする一冊。

     そういう気がするので、思想書や学術書という意味合いで書いたというよりも、社会にインパクトを与えようという意味合いで書いたのではないかという気がするので、その意味で政治的な一冊ではないかと思う。ちなみにだから、おそらく、論理的には問題があるのではないかとも思う一冊。

     そのように私は思うので、本書が人々に何かしらの衝撃や印象を与えたとするならば、本書の目論見の一つは成功したという事になるのではないかと思う。(2010年1月17日記)

  • ジャーナリスティックな文体で、非常に読みやすい。
    「時代の高さ」「生の増大」など、やや特殊なタームがでてくるが、意図するところはイメージしやすいだろう。

    大衆論には、going public型と、対象たる大衆から距離を置くないし離脱して批判を展開する型があるが、後者の典型。
    一方で本書でいう大衆とは、一定の社会階層でなく、「われわれの時代を代表していて、われわれの社会を支配しているような人間の種類またはあり方」を指しており、科学者やブルジョワジーも該当しうる点で、「いわゆる大衆論」と一蹴せずに、自分に引き付けて、注意深く読むべき。

  • 大衆とは
    ?生まれたときから、「生」は容易で豊かであるという感覚を抱いている。
    ⇒根拠のない楽観主義とそのことへの確信、そしてそこからその「当たり前の状況」を実現させることに対して強い要求が生じる。

    ?現存の自己を肯定し、同時に自己の道徳や知性も肯定する。
    ⇒ゆえに、外部からの言葉に耳を傾けけず、自分の意見を絶対視する。しまいには他者の存在を考慮すらしなくなる。

    ?そればかりか、あらゆることに対して、自己の道徳や知性などを押し付けようとする。

    ゆえに現代の大衆は「満足しきったお坊ちゃん」の時代である。


    そして恐ろしいことに、その大衆が社会の支配階層となっている。(大衆とはその人物の地位の問題ではなく、その人物自身の問題。ゆえに、一般的にはエリート階層と解されている医者や法律家も「大衆」である。そればかりか、ほとんどの政治家も「大衆」である。)

    その大衆の支配する社会には、あるべきモラルも価値観も、未来へのビジョンもない。


    -------------------------------------

    おおざっぱに書いちゃえばこんな感じの内容かと。
    19世紀前半〜半ばにかけて書かれた本だけど、現在にも通じるところがある、というか現代のほうがその傾向は強くなってきている?


    こんな内容の連載をよく当時のスペインの新聞は載せたなぁ。その器量はすごいww

  • 思うにオルテガは、近代の生成の過程で必然的に生まれてしまった鬼っ子である「大衆」が、まさしく必然の結果として近代市民国家を破滅の淵に追いやろうとするのを見るに見かねて、本書によってするどい警告を発したのではないか。しかし、大衆がオルテガの定義するとおりの無自覚的に愚昧な存在であるがゆえに、その警告は耳に入らず、ナチズムや冷戦をはじめとしたさまざまな「20世紀の愚行」を引き起こしたのだとすれば、オルテガの努力はまさしく皮肉な結果に終わったといえる。
    http://d.hatena.ne.jp/hachiro86/20070521#p1

  • 欧州の大衆の統計学的考察
     歴史は大衆の反乱をなんども経験している いかにナポレオンのように権力のみ持つものは結局民衆の反感を買い ムソリーニのように合理的に大衆が選んだファシスト政権であっても ただ権力の上に胡坐を書くだけではいけない。
     ただ オルテガから読み取れる日本は まさに悪い意味での世論主義 歴史から見ると恐ろしい状態である。

  • 【目的】

    【引用】

    【感じたこと】

    【学んだこと】
    選ばれた人間=自分に多くを要求し、困難と義務を背負い込む。

  • これくらいは読んでおいて! (*>ω<*;)フシュー

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