- Amazon.co.jp ・本 (263ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121600240
感想・レビュー・書評
-
スーパー書評「漱石で、できている」7ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』 - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)
https://wirelesswire.jp/2020/08/76927/
大衆の反逆|全集・その他|中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/zenshu/2002/02/160024.html詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タイトルから受け取るイメージとは裏腹に大衆というものがいかに無責任で無知であるか、そしてその大衆が今国の中心になってしまっていることの恐ろしさを指摘した書。1930年に書かれた作品なのですが、驚くほど現代そのものだと思った。
権利や自由があらかじめ用意された世代に生まれたわれわれはそれが空気と同等であるかのように扱い、感謝するということをせず(自然物であるかのような扱い)、義務も遂行せずに、ただひたすらに権利権利を叫びたてる。
現時の特徴は「凡庸な精神が、自己が凡庸であることを承知の上で、大胆にもその凡庸なるものの権利を主張し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある」とオルテガは主張する。
その延長線上に、「サンディカリスムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押し付けるタイプの人間がでてきたのである」
この二点だけとってもオルテガが主張する「大衆」というもののおろかさが分かると思う。
なんだか最近のニュースを見ているととってもうなずける。
更に、現代のほうが前世紀よりも技術も環境も整備されているのに幸福感が少ないのは、「時代は他の時代より上だが、自分自身よりは下だ」と書かれている「時代の高さ」という章に大きくうなずいた。 -
■■レジェメ■■
1)一言でこの本を言うなら?
2)本書のキーワード 『生』『大衆的な人』『貴族的な人』
3)要約 1)時代と生き方の変化 2)大衆的な人ばかりになって大変 3)科学者は始末が悪い
4)感想 –
1)表面的
2)自分の中で反応した知識
3)自分に落とし込んで見る
4)アクションプランにつながるかんがえ
■一言で表すなら?
曇った生き方をする『大衆的な人』が、社会大半をしめ主人公となった と分析した本。
■本書キーワード
○3つある。『生』『大衆的な人』『貴族的な人』である
これらを理解することが大事だと思って、どんな意味で使われているのかをまとめてみた。
1)貴族的な人|自分自身と闘いながら、自己を律して能動的に動く人。自己を高めたり貫くことに人生を賭ける人。
『生』を感じている人。少数派になった。(私の主観では)岡本太郎的。
2)大衆的な人|みんなと同じが良くて、自分が生まれる前からあったことは当たり前の自然で、
他人に権利を要求する。一方自分に要求することはなく、当たり前だから有り難みを分からず施しを享受する
慢心した坊っちゃんであり、自分が享受するメリットにしか興味がない人のこと。
多数派であり現代日本人的でもある。『生』を感じていない人々。(私の主観では)ニーチェのいう末人的でもある。
3)生|今ここではないどこかに到達したいと願う、心からの感情。行動的の源泉であり、自分を突き動かすもの。
■要約
○ピックアップする主張は3点ある。1)時代と生き方の変化 2)大半が大衆的な人になって大変 3)科学者始末が悪い
である。
1)時代と生き方の変化
●20世紀前半から現代まで続いている、科学技術の発達で、事実を見れば満ち足りた黄金時代を過ごしている。
●それに基づいた我々の時代は、すべての過去の時代よりも豊かであるという、うぬぼれでがありますと。過去全体を無視し、古典的、規範的な時代を認めず、自分が、すべての過去の時代よりも優れている新しい生であるとも主張している。
2)大衆的な人ばかりになって大変
●いい時代の一方で、どこか自分を突き動かすような欲求、実感が無く、漫然と過ごしている大衆的な人が多なりましたと。
●特に強い想いのない大衆的な人が、社会の舵取りをする世の中になってしまったから、さあ大変。
○これまではたくさんの暴君もいたけれど、哲学思想を持った李世民のような、貴族的な考えの人が世の中を動かしていたと状況が変わった。
大変だ。と嘆いている。
3)科学者は始末が悪い
●極度に細分化と専門特化した科学技術の現代では、一番権力を持っているのは、実は科学者だといっている。
●科学者は人の言うことを最も聞かないし、少し専門を外れたことは何も知らないくせに知ってるふうな顔をするという始末の悪い人間と述べている。 -
-
大衆とは、みずからを、特別な理由によって、よいとも悪いとも評価しようとせず、自分が「みんなと同じ」だと感ずることに、かえっていい気持ちになる人々全部。
そのため、社会を大衆と優れた少数派に分けるのは、社会階級の区分ではなく、人間の区分であり、上層階級においても大衆が支配的であるのが、現代の特色。
また、凡庸な精神が、それが凡庸であることを承知の上で、凡庸の権利を確認し、これをあらゆるところへ(政治的にも社会的にも)押し付けようとする。
大衆の支配=歴史的水準の全般的な上昇。かつ、昔は崇高なものと思われた個人の権利が、広く当たり前のものになった時代。
ここにはじめて、すべての古典を無視する時代、過去の中に手本や規範の存在する可能性を認めない時代が誕生した。しかし、現代は他の時代より上であるが、事故の運命に不安をいだき、自らの力に怯える時代だ。
われらの時代は、全ての過去の時代よりもすぐれ、過去に還元されない、新しい生であるとみなしている。いまだかつてないほど資産、知識、技術を持っているのに、途方に暮れている、かつてなかったほど不幸な時代。
【大衆について】
大衆は、世界各国が民主主義と技術の発展により、人口を急激に増加させることにより、発生した。
生を受けたときから、世界は完全であり自分の前に障害は無いものとして認識しており、それが過去から続く偉い人々の不断の努力の結晶であることを忘れ、まるで空気を吸うように、自然の権利として要求している。
大衆的人間は、自分のうちにあるものを無意識に肯定し、自分以外のいかなる権威にもみずから訴える、という習慣を持っていない。高貴な身分は不断の努力によって手に入れ、手に入れた後は義務を伴うのに対し、「人権」、「市民権」のような共通の権利は、受け身の財産だ。そうした惰性の生を大衆と呼ぶ。
大衆は愚かだということではなく、反対に、現在の大衆的人間は利口であるが、それを所有しているという漠然たる感覚は自己の内部に隠れ、それを使用しないことだけに卓だっている。言い換えれば、凡人が自分は卓抜であると信じているのではなく、凡人が凡庸の権利を、宣言し押し付けているのである。
今日の平均人は、世界で起こることに関して、ずっと断定的な思想を持っており、聞くという習慣を失った。その思想は、真理や原理を欠く、とうてい思想とは呼べぬ野蛮なものだ。
思想を持つとは、思想の根拠となる真理を所有していると信じることであり、それを議論する対話にある。しかし、大衆的人間は議論をしない。かれらの思想は、他人と対話をしようとせず、言葉を吐き出したいという欲望以外の何物でもない。
平均人が科学から受ける恩恵と、科学に捧げる、感謝との間の不均衡。
今日では、人間が自分たちの文明自体の進歩についていけていない。文明の進歩は問題の複雑化であり、その解決には、その背後にたくさんの歴史を持つことである。
しかし、過去全体を圧縮して自分の中に取り入れることが、過去全体を凌駕するための不可欠な条件であるにも関わらず、それをやらない。
科学者は、科学者が専門分野に特化していく(特化せざるを得ない社会的枠組みができた)中で、総合的教養を失い始めた。また、科学の発達による機械化によって、非凡な者に仕事を与えることが可能となった。
専門家は、自分の知らない問題に対して、自分の特殊な問題では知者である人間として身勝手にふるまう。これが大衆の支配の象徴である。
支配とは、世論による力であり、世界を支配するというのは、思想、願望、目的などの体系が世界で優越していることだ。支配とは、誰かに命令することと、何かを命令することであり、誰かに命令することは、結局、何かの事業に、大きな歴史的運命に参加せよということ。
人生とは、ある目標に向かって自分の生を賭けるものであり、現代人は、何かに生を捧げることはなく、緊張も形もなくなっている。
ヨーロッパに内在する支配の夢(科学、芸術、技術による発展への緊張した目標)が無くなれば、ヨーロッパと、そのあとの全世界が、野蛮状態に陥るだろう。
衰退、無力の感覚は、現在ヨーロッパが持つ潜在力の規模と、その力を発揮すべき政治組織の大きさの間に釣り合いが取れていないからだ。
議会の非能率を叫ぶ人に、何に対して非効率なのか、現代の公共問題の解決とは何かを聞いてみても、はっきりした答えは帰ってこない。
議会の権威失墜は、政治的な道具としての欠陥とは全く無関係な原因であり、ヨーロッパ人が、この道具の使い方を知らないこと、伝統的な社会生活の目的を尊重しないこと、結局、自分の属する国家についての夢を持っていないことだ。
まとめ
今日の世界は、大衆の無法な反逆が目立ち、退廃している。退廃の原因は、ヨーロッパが、世界でふるっていた権力がどこかに行ってしまい、支配しているということに自信がなくなっているからだ。
時代の充実は、明確な、前もって定められた、間違うことのない未来が前提とされるのに、今はどの方角に向かっているか分からない。どれもこれも生の本質的な根底からの想像ではなく、根無し草だ。
今日の国は限界を迎えており、生の新しい原理を打ち立てねばならぬが、ここで台頭するのは国家主義だ。
国家主義は排他的であり、既に固まっているヨーロッパを立て直すのには役立たない。ヨーロッパ大陸の諸国民を1国家とする超国家を建設する決意だけが、ヨーロッパを蘇らせる。
現在流行している共産主義に、ヨーロッパ人が逃げ込むことを抑えているのは、臆病だからではなく、ヨーロッパ人が、共産主義の組織によって人間の幸福が増すとは思わないからだ。
しかし、ソビエトの断固とした改革と、彼らの信条と緊張した生き方は、ヨーロッパの人々に強い影響力を与えうるだろう。それに打ち勝つためには、西欧にも新しい生の計画への意欲を打ち出さねばならない。
大衆的人間は、こうして他の人が建設し積み上げてきたものを否定しながら、その否定するものによって生きている。 -
オルテガの名は聞き及びながら今まで読んでこなかった一冊。安倍、トランプのありようをみているとまさに「文明の一切の原理に興味がない」ものが社会の主導権を握っているというオルテガの主張が今を行われているかのように感じる。そしてヨーロッパ大陸の諸国民を一丸として一大国家を建設する」という現在のEUの姿とその矛盾が思い起こされる。オルテガは1930年にこれを書き、その後にヒットラーがドイツを興隆させ再び戦争を引き起こすわずか1年前だったことが、これから私と子供達が住む世界の未来を暗示させている。
-
大衆の連帯は加速している・・・
ネットやスマホの存在で、大衆は見えない形で連帯している。選挙やデモや集会でしか反逆できなかったオルテガの時代とはずいぶんちがう。そして無自覚であれば、容易にそのような、ネットやスマホの大衆の連帯に巻き込まれてしまいかねない。くだらないネットニュースにくだらないコメント合戦・・・距離をおいて高潔にあることが求められているのだろう。ということは、ここなるレビューもまた大衆的ということか。自虐。 -
現代がうまくいかんのは、大衆が身勝手やからやあ!という主張はよくわかりましたが、全体的にとっちらかっていて読みにくい。でもところどころ刺激的な文書がならぶ。