- Amazon.co.jp ・本 (289ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121600561
感想・レビュー・書評
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ことばに対する驚きと情熱をもって臨む彼の姿はいつだって精神をくすぐる。彼の思考ははるかかなたへ向かっていくのに、研究である以上、論理でことばを尽くさねばならず、ことばの方が彼について来れないようなもどかしさが感じられる。
この自分が話していることばは何だ。彼の出発点はここにある。この正体が知りたくて、彼はその始まりまで深く沈んでいく。奈良に都が置かれるよりもっと前、いったいそこにはどんなことばがあったのか。
どうも、ことばの始まりには、何か未知なるものへの畏れや、その力にあやかろうとする思惑、与えられる喜び、そういう所から始まっているように、彼には思えたのだ。言霊。はじめにことばありき。ひとが必要に応じて、情報のために発したのではない。その存在を知ってしまったことによる人間の端的な驚きが音になってしまったのだ。
そこからこの国の文学というものは広がっていった。ことばに触れる人間は畏怖と喜びをもって扱われる。倭政権はあるひとつのことばの信仰を持って支配に乗り出した。受け容れられたり、絶滅したり、混ざり合って新しいものになったり、そういうものをひとつひとつ縺れた糸をほどいていくように示せるのは、ひたむきにことばに向かっていく彼だから成せるのだと思う。
そのように考えていくと、この国の短歌というものに必要なのは、ますらをぶりやたをやめぶりとかではなく、「細み」にならざるを得ない。これはおそらく、世阿弥の強さ・幽玄の考え方と同じものだろう。物事がそれ自体で在るということ、それ以上に何がいるだろうか。芸とはその存在に至る道だ。古代の歌人たちは、ひとりひとりがそうやってことばと共に生きて歌ってきた。そのことばへの信仰がなくなるその時、歌は死んでゆくのだろう。だが、信仰が忘れられることはなくなることではない。何かのはずみでふっと、そういうものは必ず漏れ出してくる。それらが一つの流れとなって、玉葉集・風雅集へと至るのだ。
彼のたどる歴史は、そういうことばと共に生きたひとの精神の軌跡を辿ることだ。そういう歴史を一緒に辿っていくと、ことばが在るということばの尽きる場所に投げ出されてしまう。わからないからこそ、狂おしいほど渇望する。海の彼方からやって来たとしか彼には言いようがなかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示