意志と表象としての世界 (2) (中公クラシックス W 37)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (347ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121600707

感想・レビュー・書評

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  • ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」

    3巻 天才論と芸術論から 新しい世界秩序を展開。全体像が少し見えてくる。2巻の意志の世界を、生に盲目的であり、自由の代償として孤独を感じる苦悩の世界としている。

    イデアは 本質、普遍的な真理、不変の原型、意志が適切に客観化されたもの

    イデアは いっさいの現象(表象)の普遍的な形式(客観は主観に対応した存在)をまもっている〜イデアのみが意志(物自体)の適切な客体性といえる

    純粋な認識主観はイデアを認識しているだけ

    著者の伝えたいことは「目前に存在するのは、自分自身でなく 客観のみであるという幻覚を作り出せれば、あらゆる苦悩から免れることができる〜意志としての世界は消え失せ、残るのは 表象としての世界である」

    そのためには、芸術や天才から 純粋な認識主観を捉え、世界の本質を観照せよ、という論調。崇高感から純粋主観を説明した文章から想像するに、純粋主観は 宗教的解脱に近いものに感じた

    天才は 根拠の原理に従わず、事物のイデアを認識し、自分を個体として意識するのでなく、意志を持たない純粋な認識主観として自分を意識できる

    普通の人間〜自然が毎日作り出す工場製品のごとき人間
    生への意志を肯定し、自己利益を至上原理とする普通人は 世界を観照することはない

    意志を持たない純粋な認識主観、プラトンのイデアの認識。美の認識を可能にする主観と客観の関係〜ショーペンハウアーの芸術論の基礎

    芸術は時間の歯車を止める〜ただ本質的なもの、イデアのみが芸術の客観である

    天才的な認識(イデアの認識)は 根拠の原理に従わない認識のことである〜イデアは直観的な認識の領域にある〜理性的な認識とは対立

    天才は狂気に近似している

    天才は根拠の原理に従った相互関係の認識を見捨てて、事物の中にイデアだけを見る

    芸術家〜人間の美しさを描き出し、その描写において自然を凌ぐほど
    芸術家は生への意志に奉仕しない、想像力と理性により自然がじつげんしたことないイデアを先取りし表現できる

    人間の本質を顕わにすることが芸術の最高目的

    人間の美とは、意志の認識可能性の最高段階における意志の完全な客観化である

    あらゆる芸術家はイデアを描き出す点で目的を一にしている〜本質的な違いは、描き出すイデアが意志の客観化のいかなる段階かという点

    人間は意欲の激しい、暗い衝動である〜人間は同時に、純粋認識の永遠な、自由な、晴朗な主観である

    崇高な性格
    自身の人生航路とそこで出会う災難を、自分の個人的な運命と見るより人類一般の運命と見て、悩むというより認識するという態度


    哲学とは、普遍的な概念を用いて世界の本質を完全に再現し、言明すること。哲学は意志の要求に応じて世界秩序を構築するものでなく、意志を肯定する世界の本質(イデア)を概念により表現すること。哲学は科学より芸術に近い


    4巻の基本命題「表象としての世界において意志の前に意志を映す鏡が現れ、鏡に照らして意志は己れ自身を認識する」
    *再び意欲の動機となって意志の肯定の永劫回帰が確立する道
    *意欲の鎮静剤になって意志が消滅する道

    ショーペンハウアーの死生観
    意志の現象の形式〜は現在だけであって、未来でも過去でもない〜現在といい、内容といい 動揺することなしに存立しているが、それはあたかも滝にかかる虹のよう

    意志の現象が完全になるにつれ、苦悩もあらわになる
    生への意志の肯定が強まり、他者の意志に対する侵害(苦しみ)も増加する

    いっさいの生は苦悩であることが本質的であることは、苦しむ動物の世界を見れば得心する

  • 謙虚というものは、卑劣な嫉妬に満ち満ちたこの世の中で、長所や功績をもっているものがそれを持たない者に赦しを乞い求めようとするときの手段として用いる卑下の装い以外の何であろうか。

  • ショーペンハウアーが多くの芸術家から支持されたのは当然とも言える。
    なぜなら、ショーペンハウアーが登場する以前の時代から、もしかしたらペシミズム(厭世観)という言葉が登場する以前から、絵画、音楽、詩など様々な形で、芸術家たちはこの世が苦しみや悲しみで満ちていることを描くことを試みてきたのだから。
    そして、さまざま芸術の中にイデアを見出し、伝達しようとする試みも、芸術の作り手たちが考えてきたことだからこそ、共感を得たのではないかと思う。

    悲劇が、人物の特性を遺憾なく発揮し、人間の心情の深さを開示するという点で、詩芸術の最高峰というのはまさに言い得たことだろう。人間の本質は楽なとき、喜びに満ちているときより、苦しみ悲しむときこそ現れるものだから。

    しかし、死が排泄物と同じとは。排泄物を悲しむことがないように、死の場合にしても恐れおののく理由はなにもないということなのだけど。さすがにこれについては他の表現をして欲しかった。

    ショーペンハウアーは芸術論において人間の「生」について語り、その対極である「死」についても語る。

    死に対する考えや行動を美化するのでもなく、卑下するのでもなく、あまりにも率直にその姿を描いている。

    苦しいからといって自殺しても得るものはない。
    常に死の恐怖に触れているわけではない。
    死を自分の意識の中に入れようとしない。

    うつ病や自殺を考えている人などに、ショーペンハウアーを読ませるなというのは、かえって路頭に迷わせるように思える。
    むしろショーペンハウアーやウィトゲンシュタインを読ませ、生きること、悩むこと、そして死とはなにかを自分で考える時間と力を与えるべきではないだろうか。

  • 2022/4/23

  • ドイツの哲学者 アルトゥル・ショーペンハウアーの代表的な著作。哲学に興味を持つと一度は通る道ではないでしょうか。本巻は第三巻「表象としての世界の第二考察」と第四巻「意志としての世界の第二考察」の一部が収録されています。第三巻では芸術論が展開します。表象において範型として表現された意志として定義されるイデアを認識するための芸術という、ショーペンハウアー特有の考えが凝縮しています。あらゆる分野のものを語りつくしています。第4巻では意思について論じられます。第一巻、第二巻よりも読みやすいです。

  • 「意志と表象としての世界」第3巻と第4巻の一部を掲載したのが本書。ショーペンハウアーの芸術論(第3巻)と世界観(第4巻の一部)で構成されている。
    芸術論はイデアの世界観と芸術の世界観をテーマにペシミストたるショーペンハウアーが垣間見せるポジティブな世界観。音楽を最高の芸術と称して芸術はイデアの世界を認識させてくれるという。
    そしてこの意志というものは万物を動かすエネルギーみたいなもので、盲目なるエネルギー。こうやって考えるとドーキンスの「盲目の時計職人」を想像させる論理で、人間が制御できないエネルギーだからこそ人間の生は苦悩という次巻の結論につながっていく。

  •  本書はショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界(正編)』の第三巻に相当する(第四巻の一部も含まれる)。「表象としての世界の第二考察」は芸術論であり、ショーペンハウアー哲学の最も個性的な側面といえよう。
     世界は私の表象に過ぎず、その表象を認識させている知性は意志の奴隷に過ぎない。しかしこの知性が異常に発達した人間、すなわち天才においては、例外的に知性が意志の支配から脱却することがある。そのとき知性は世界を客観的に映す明澄な鏡となる。かかる過程を経て生産されたものが芸術作品であり、天才の業である。
     ショーペンハウアーの芸術至上主義が遺憾なく発揮されている本書では、空間のみを形式とした建築、時間のみを形式とした音楽、その他ありとあらゆる芸術(彫刻、絵画、詩、等々)が俎上に載せられる。だがショーペンハウアーが最も高く評価するのは音楽である。音楽こそは、時間以外のあらゆる狭窄物を取り去った、生のままの意志に最も近い芸術様式であるという。
    「意志」から解放された客観的な世界の認識にショーペンハウアーが肯定的な価値を付与するのは、やはりそこにプラトン的なイデアの把握を見て取っているためであろう。「意味」を剥奪された「物自体」の認識については、例えば漱石が「発狂」「自殺」「宗教」の三つの可能性しか認めなかったり、あるいはサルトルが『嘔吐』を書いたりといったように、むしろ否定的な解釈が多いことを考え合わせると興味深い。
     ショーペンハウアー哲学がアカデミズムの世界よりもワーグナーやトルストイ、トーマス・マンなどといった芸術家たちによって高く評価されたのも、この芸術論があってこそであろう。第一巻・第二巻とは隔絶した明朗な哲学世界に、読者は魅了されるに違いない。

  • 繰り返し読むべき本。

  • 普通人にとって認識能力とは、自分の実生活上の道を照らしてくれる提灯であるが、天才にとってのそれは、世界を明らかにしてくれる太陽である。p46

    「草木はこの世界の仕組みが目に見えて美しいかたちをなすよう、感覚に対しその多様な形態を提供して知覚に役立ててくれる。草木は自分では認識することができないから、いわば認識されることを欲しているようにみえる」(聖アウグスティヌス『神国論』)p91

    純粋に後天的(アポステリオリ)には、つまり単なる経験だけからでは、いかなる美の認識も可能にならないであろう。つねに美の認識は、先天的(ア・プリオリ)である。それはわれわれにア・プリオリに知られている根拠の原理の形態とはまったく違った種類の認識ではあるが、少なくとも部分的には、美の認識はア・プリオリなのである。p123

    人間の美とは、意志の認識可能性の最高の段階における意志の完全な客観化である。p126

    真の詩人の叙情詩のうちには、人類全体の内心が写しとられ、過去、現在、未来に生存する幾百万の人間がいつの時代にもくりかえし出会っていた似たような境涯で感じたこと、またこれからも感じるであろうことは、真の詩人の抒情詩のなかに、適切な表現を得ているといえる。幾百万の人間が置かれてきた境涯は、またこれからも休みなく繰り返され、人類そのものと同じように恒常的な境涯としてありつづけ、つねに変わらぬ同じ感情をよび起こすものであるから、真の詩人の叙情的作品は、千万年を貫いて真実で、感化を与え、またつねに新鮮である。なんといっても詩人とはそもそも普遍的な人間のことだからである。いずれかの人の心を動かしたこと、いずれかの境涯で人間の本性から生じたようなこと、いずれかの場所で人の胸に棲みつきしだいに大きくふくらんでいったこと―これらはすべて詩人のテーマであり、詩人の素材である。p187

    意志は個体のかたちで現象するが、個体の死後も意志は相変わらず生きつづけているのであって、別の個体のかたちをとって現象しつづけるのであり、ただ後の方の個体の意識が前の死んだ個体の意識となんらつながりをそなえていないだけである。p217

    ヴェーダでは次のように表現されている。
    人が死ぬと、その人の視力は太陽と一つになる。その人の嗅覚は大地と、味覚は水と、聴覚は大気と、言葉は火と一つになる。p275(脚注)

    わたしの見解では意志こそ第一のもので、根源的なものであって、認識はあとから意志に単に付け加わったものにすぎないのであり、意志の現象にその道具として帰属しているものが認識である。それゆえいずれの人間も、そのあるがままの相は、意志からこれを得たのであって、意志の性格が根本であり、意欲はその本質の根底をなしているからである。これに認識が付け加わるにつれて、人間はだんだんに経験を重ねていくうちに、自分が何であるかをやがて知っていき、すなわち自分の性格をわきまえるようになっていくだろう。つまり人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にもあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというものではそもそもない。p290-291
    →古い見方では、人間は認識したものを欲するというのであるが、わたしの見方では、人間は欲したものを認識するのである。

    スコラ哲学者「究極原因はそれが実際に何であるかに応じてではなく、それがどう認識されているかに応じて作用する」(スアレス『形而上学論議』)p296

    エピクテトス「人間の心を乱すのは事物ではなく、事物についての意見である」p306

    意志はそれ自体としては、現象を離れたときには、自由であり、いな、ほとんど全能というべきであるが、認識によって光を照らされた意志の個々の現象、つまり人間や動物においては、意志は動機によって規定されているのであって、この動機に対し(人間や動物の)そのつど異なる性格が反応するが、反応の仕方はいつも同じで、合法則的であり、必然的であるということがこれまでの考察でわかったのである。p309

    享楽であれ、名誉であれ、富であれ、学問であれ、芸術であれ、美徳であれ、それらのいずれかを求めようとする一定の努力は、われわれがその努力に関係のないあらゆる要求を捨てて、また他のあらゆるものを断念したあかつきにのみ、ほんとうに真剣に、そして上首尾に追求することができるものなのである。p316

    [就活や、将来について、有益なアドバイス]p317
    単に、やってみたいという意欲があるとか、やればできるという能力があるだけではまだ不十分であって、人間は自分が何をやってみたいかと欲しているかを知っていなければならないし、やれば何ができるかを知っていなくてはならないのだ。かくてはじめて彼は性格を示すことになろうし、そのあとでようやく彼はなにか正当なことを成し遂げることができるであろう。そこに到達するまでには、彼には経験的性格の自然な帰結がそなわっているとしても、まだ無性格である。で、彼は大体において自分に忠実な人で通し、自分の魔神(デーモン)に引かれつつ、おのが進路を一目散に走り抜ける人に相違ないとわかっていても、それでも彼は真一文字の線を描くことはなく、震えた不揃いな線を描き、動揺したり、横にそれたり、後戻りしたりして、後悔と苦痛のたねを蒔くことになろう。こうしたことはすべて、人間におこない得ること達成し得ることは大なり小なり多数あることを現に目前にしていながら、そのなかで自分にだけ適するものは何であるかを彼が知らないために起こることなのである。

    オウィディウス「心を惑わす苦しみの絆をひと思いに断ち切る人は、魂の最良の救い手である」(『恋の葉』)p324

    満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりでは努力はつねに苦悩である。努力の究極の目標というものはなく、それゆえ苦悩にも限度や目標はない。p330

  • 課題で使っただけなので詩の章と音楽の章しか読んでません笑
    ほかはパラパラと見ただけです。
    でも面白かったです。

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