イデオロギーとユートピア (中公クラシックス)

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制作 : Karl Mannheim  高橋 徹  徳永 恂 
  • 中央公論新社 (2006年2月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121600868

イデオロギーとユートピア (中公クラシックス)の感想・レビュー・書評

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  • 学部ゼミで行った二冊の比較発表をもとに書いてみます。
    『職業としての学問』は以前もう書評を書いていますが、また読み直したし新しい発見もあったのでもう一度書きなおしてみたいと思います。
    二冊を通じて「我々は(批判精神や提言する力を得るために)何をどう学ぶべきか」という問いが浮かび上がってきました。

    マンハイムの関心は思想や学問が社会のなかでどのように変動するかであり、それは知識社会学として結実した。
    彼のイデオロギーに関する考察の中で最も重要なテーゼは「いかなる思想も部分性(≒普通に使われるところの“イデオロギー性”)を持っているが、我々は常に自己批判と相対化を、多くの部分的なイデオロギーを学ぶなかで行うべきである」ということだ。平たくいえば、古典を多く読めば現代だけの限定的な哲学を絶対視しないで済むとも言い換えられる。

    古典の思想の本質は“破壊”かもしれない。現代を批判的に考察するような視点を授けてくれるからだ。時にその疑いの目は厭世的な哲学として結実し、前時代の枠組みに囚われ新しい思考基盤の建設の足を引っ張るかもしれない。
    しかし現代社会に既存の価値やシステムを変革するにはまず“破壊”も必要なのだ。
    私が非常に感動した本文の一節は
    「特定の状況のもとでは、破壊そのもののうちにすでに建設がひそんではしないか。新しい意志と新しい人間は、疑わしさが深まるにつれて、かえってそこから現れてきはしないか。」である。私も新しい意志を携えた新しい人間たるべく精進したい。

    そして個人が絶え間ない反省ののちに思想の部分性を超克しようとすれば、彼にパブリックマインドの芽が現れる。部分的な視点しか持ちえない者は生活に埋没するが、部分的な各々の複眼の獲得によって思想の全体性を志向するとき、公共へ目を向けるのだ。

    しかしウェーバーの考えは少し違う。もちろんウェーバーも思想の部分性、学問のタコツボ化は意識している。だがウェーバーは思想の全体性が社会全体・学問全体の総和として達成されれば良く、個人はむしろタコツボ化・専門化していくべきだと説く。
    学問はいかに生きるべきかへの答えの道具たりえず、真理を追究するのは学問ではなく芸術の役割だという。『かれはいう「それは無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれは何をすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである」と。学問がこの点に答えないということ、これはそれ自身としては争う余地のない事実である。』
    また教授は主義・主張を伝えるべきでないという。
    「教室には批判の目を以て彼に対する何人もいない」(P.50)「自分と意見をことにするであろう聞き手が沈黙を余儀なくされているような場所で、得意になって自分の意見を発表するのは、あまりに自分勝手すぎる」(P.60)
    学生が教授を絶対視するのを危惧したのだろう。

    だがやはり私は個人もあくまで全体性を志向するべきだと思う。パブリックマインドを持たない専門人の社会は統合と連帯を喪う。教授もそうした全体性の追求の中で浮かび上がる主義主張を以て学生と対峙すべきだ。学生はすぐ教授を絶対視してしまうほど弱いだろうか。
    浄が依然言っていたテンセグリティ―構造のように人間が形成されているなら、そのテンセグリティー構造の一本一本は、事実の積み重ねというよりも激情に近い主義主張だと感じる。情熱的で、ダイナミックで、主義主張的な思想だ。

    この人間形成観からは実証主義も批判的に検証できるし、「それでは、学問の仕事は事実そのものには無関心でただなにか実践的に立場をとることだけが大切なひとにとっては、まったく意味のないものなのだろうか。たぶんそうではないだろう。(…)都合の悪い事実、たとえば党派的意見にとって都合の悪い事実のようなものを承認することを教えることである。」(P.53)¬という(事実の積み重ねで解決できるとみるような)ウェーバーの教育観も見直せるのではないだろうか。

    私は常に激情の中で揉まれて学んでいたい。

  •  たしかに、完全に成長を遂げ、いつもただ自分を再生産するだけの世界では、イデオロギーやユートピアが完全になくなることもありうるであろう。しかし、われわれの世界において存在を超越するものが完全に破壊されることは、人間の意志が死滅するような即物性へと行き着くであろう。
     ここで、存在を超越するものの2つの種類の間の本質的な区別も明らかになる。イデオロギー的なものの没落は、ただ特定の階層にとってだけの危機を示すにすぎず、イデオロギー暴露によって成立した即物性は、全体にとってはいつも自己自身をはっきりさせることを意味する。それにたいして、ユートピア的なものの完全な消失は、全体としての人間の生成の形態を変えることになろう。ユートピアの消失は、人間自身が物となるような、静的な即物性を成立させる。すなわち、もっとも合理的に自己を支配する人間が衝動のままに動く人間になり、長い間の犠牲に満ちた英雄的な発展のあとで自覚の最高の段階に到達した人間がここではすでに歴史は盲目の運命ではなく、自己の創造物になっている、ユートピアのさまざまの形態の消失とともに、歴史への意思と歴史への展望とを失う。
     こういう、考えられるかぎり最大の逆説が起こってくるであろう。
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