日本的霊性 (中公クラシックス J 36)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (383ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121601025

作品紹介・あらすじ

日本を代表する仏教思想家が禅体験から紡ぎだす「さとり」の極北。

感想・レビュー・書評

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  • p279
    「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名付けるのである。」

    p282
    「君らのそう逃れたいという生死なるものは何処にあるのか。誰か君らを縛っているものがあるか」こういう塩梅に逆襲してるのが禅論理の特性である。普通の常識をまず否定されて、その否定がまた否定されて、元の肯定に帰るというのは周り遠い話である。しかし我々の意識は事実上この回り道をやらないと承知しないのである。こんな面倒なことができるのは人間の特権である。人間にのみ霊性的生活が許されてあるからである。
    このまだるこしさが人間以外にはないと言うところに人間の悲劇と喜劇がある。動物にはもちろんそういうものはない。人間以上の神であるとかあるいは天人と言うなものにしてもこの人間的なまだるこしさと言うものはない。つまりこのまどろこしさ、悩み、煩いと言うような事は人間の特権だと言っているのである。般若はこの人間の特権と言うものをはっきりと認めている。そこに霊的生活の世界が開けていくのである。



    以下、即非の理論について述べたwebから引用
    即非の論理などと言うといかにも物々しいが、「一切皆空」が仏教の根本原理であることを了解していれば実に当たり前のことなのである。

      「山は山ならず、これを山と名づける」

    我々は山を見て「山」と言う。しかし、「山」と呼ばれるものの実体はないと言うのが、「山は山ならず」と言う所以である。
    山は土と石でできている。その山を少し削るものとする。そしてその土と石をバケツに入れたとする。私たちはそのバケツに入れられた土と石を決して山と呼ぶことはない。また、少しくらい削られても、相変わらず元の山を「山」と呼ぶ、削られた分確実に変形しているにもかかわらずである。

  • やー。
    これはすごいわ。
    もう、そんな感想しか出てきません。
    でも、頑張って書いてみる。

    まず題名から、いわゆるspiritualな本のように感じるかもしれません。
    しかし、そのような期待で本書を読むと、見事に裏切られるでしょう。
    もう、とことん理詰めで、徹底的に現実的な考察だと思います。
    それは、鈴木大拙という人物像を知れば、納得の結果となるはず。
    <a href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99>Wikipediaの記事</a>を貼っておきます。
    他にも、検索すれば関連記事はたくさん出てきます。

    多分、ぼくが何を書いても胡散臭げな言葉になってしまうような気がします。
    とりあえず読んでみるべき、としか言えないですね。
    本当に、この本は多くの人に読まれるべき本だと心から思います。
    いろんなことに気付かせてくれる作品だと思います。
    『宗教』という枠を越えた、もっと多面的な何かを見出せるはず。

    とりあえず。全然関係ない方向でお茶を濁すことにします。

    宗教というのは、哲学と対をなすものだと最近思います。
    どちらか一方だけでは足りない、というか、同じ面の表と裏。
    というと、あまりに陳腐に過ぎるのですけれど、他に言いようがない。
    『知』からのapproachと、『情』からのapproach。
    冷静で論理的な、段階を重ねることで近づいていく『哲学』。
    直感と感性で、あらゆる物事を一足飛びで越えながら近づいていく『宗教』。
    んー、やっぱり胡散臭いですか・・・(苦笑)。

    とにかく、本書を読んでその事を痛感したのです。
    なるほどな、こっちからこういう風に進んでいくのか、と。
    『有』とは『無』であるのだから、『有』は『有』となる。
    『無』とは『有』であるのだから、『無』は『無』となる。
    言葉で提示されても、多分、絶対に「分かる」ことは無いでしょう。
    それを実感として『理解』するために、どうすればいいのか。
    そもそも、なぜ『そのこと』を『理解』しなくてはいけないのか。
    それが、ある面では哲学という形を取り、ある面では禅という形を取る。
    お互いに補い合うわけでもなく、それぞれはそれぞれで独立して存在する。
    しかし、それらは明らかに『繋がっている』のです。

    ぼくは、両方共に単なる半可通だと自覚しています。
    なので、この理解が正しいなんて全く思っていません。
    けれど、この理解は、ぼくにとっての『真実』です。
    重要なのは、たぶんその部分、なんだと思うのです。

    外国の方は、『宗教』を持たない人を馬鹿にする、と聞いたことがあります。
    本書を読んで、なるほど、それもある意味で当然のことなのかも知れない、と思いました。
    ただ、日本人は、『無宗教』ではないですね。無自覚なだけなのでしょう。
    たぶん、外国のようにくっきりとした形を取っていないだけ。
    あとは、自分が属しているものを、自覚出来るかどうか、なのだと思います。
    つまりそれが、「日本的霊性」なのだと思うのです。

  • 2012/02/15
    from library

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著者プロフィール

1870(明治3)年、金沢市本多町生まれ。本名貞太郎。1891年、鎌倉円覚寺の今北洪川について参禅。洪川遷化後、釈宗演に参禅。1892年、東京帝国大学哲学科選科入学。1897年、渡米。1909年に帰国、学習院大学・東京帝国大学の講師に就任。1921(大正10)年、真宗大谷大学教授に就任。大谷大学内に東方仏教徒教会を設立、英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊。1946(昭和21)年財団法人松ヶ岡文庫を創立。1949(昭和24)年文化勲章受章。同年より1958年まで米国に滞在し、コロンビア大学他で仏教哲学を講義。1956(昭和31)年宮谷法含宗務総長から『教行信証』の翻訳を依頼される。1960(昭和35)年大谷大学名誉教授となる。1961年英訳『教行信証』の草稿完成。1966(昭和41)年7月12日逝去。

「1979年 『The Essence of Buddhism 英文・仏教の大意』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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