美しさと哀しみと (中公文庫 A 10)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122000209

感想・レビュー・書評

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  • 人のなかのぼこぼこと煮えたぎる溶岩のような魔は自分のなかの醜い塊から生まれるんじゃなくて、いつまでもいつまでも慈しみ抱いていたい愛の結晶から不純物として剥ぎ取られた要らないものが魔となるんだろう、そう思った。
    だから魔の戻るべき場所が魔界というならば、そこはきっと仏の愛のなかではないだろうか。だってそれは一つだったものが二つに分けられた、ただそれだけのことなのだから。

    二十数年前、16歳の女学生だった上野音子は妻子持ちの大木年雄と恋愛関係になるものの、17歳のときに大木との嬰児を流産で喪ってしまう。そのショックで一時狂乱した音子は大木とも別れ、精神病院で数ヶ月を過ごしたのち、心の傷を癒すために母と一緒に京都に移り住んだ。
    その2年後、大木は音子との恋愛経験を描いた『十六七の少女』を発表し、小説家として名実を得る。
    時を経て、日本画家となった音子を京都に訪ねた大木は、彼女の弟子であり同性の恋人でもある若く美しいけい子と出会う。

    激しい気性のけい子は、音子のために大木や息子の太一郎への復讐に拘り続ける。けい子の狂気を孕んだ復讐心はあまりにも強烈で恐ろしい。
    けれど音子自身は大山への復讐など全く望んでいないのだ。彼女のなかでは、あの頃のふたりはすでに浄化され、昇華した神聖な像となっていた。

    私は最初、恋人だとはいえ、どうしてけい子がここまで音子のために大木らへ復讐することに執念を燃やすのか、またけい子がそうすることで自分を苦しめることになっているはずなのに、なぜ音子はけい子を手放さないのかが理解できなかった。
    そこでふと、須賀敦子さんの『本に読まれて』のなかに川端康成の『山の音』を翻訳する際のエピソードがあったことを思い出した。
    そこには『雪国』のトンネルが象徴するものについても書かれており、それがとても私のなかにストンと落ちるものだったので、今回も何かヒントがあるかもと再読してみた。
    すると、そこには『美しさと哀しみと』にもほんの少しだけれど触れられた箇所があり、読んでみた私は思わず声をあげた。なぜならわずか2、3行の一文のなかに、答えをもらったような気がしたから。

    「たとえば『雪国』の駒子と葉子、『美しさと哀しみと』の音子とけい子のように、いってみれば六条の御息所とその「あくがれでるたましい」の関係にある人物画設定、ほんとうはひとりなのに、ふたりの女としてつくられた人物( 後略 )」
           『須賀敦子全集第4巻』P318

    そうか、けい子と音子を別々に考えてはいけないのだ。けい子は音子の一部であり、音子はけい子とふたりでひとりなのだ。だから音子は自分自身でもあるけい子をどうしても手放すことができなかったのか。

    「先生、けい子を捨ててみるといいのになあ。」
    「あなたもしつっこいわね。」
    「あたしは先生、好きになった人から捨てられるように出来ている娘だと思うんですの。先生、あたしはしつっこいでしょうか。」
    「………。」 P149

    音子の自分では決して持っていないと、あるいは浄化させたと信じていた嫉妬や憎しみなどの感情が実は行き場を失った魂の一部分であり、今もずっと体から離れて彷徨っている。それがけい子という形となって音子の前に現れた。そう考えると、けい子と音子のこの会話も、傲慢なけい子の哀しさが伝わってくるような、そんな気にもなってくる。

    ラストシーンのけい子の“涙をきらきら浮かべた目”は、どう捉えればいいのだろう。魔は仏の胸に還りひとつに戻ったのだろうか。それとも仏が魔に抱かれひとつになったのか。それとも。

    川端康成は「仏界易入、魔界難入」という一休宗純の言葉を好んだ。芸術とは、小説とは、この入り難い魔界に出入りし、その世界を描くこと、ということだろうか。川端作品を数冊読んだくらいの私にはまだ本当の意味はわからない。川端は『舞姫』で初めて「魔界」という言葉を用いる。
    川端康成の文章は美しい。そして私は『美しさと哀しみと』のクモの巣のように張り巡らされた美しい文章に絡め取られる魔に魅せられてしまった。川端の描く世界は魅惑的で恐ろしくて、そして難解で、本当に難解で、だから私は魅了されたのだろう。

  • 川端康成が1961年から1963年にかけて雑誌"婦人公論"に発表した長編小説。何度か映画化もされています。鎌倉と京都を舞台に、中年小説家、大木年雄と、かつて彼が愛した少女だった日本画家、上野音子、そして、その日本画家の内弟子、坂見けい子と年雄の息子、太一郎が繰り広げる愛憎劇。やはり、川端康成の作品は日本語が美しい。作者が不安定な時期に書かれたとは思えないです。情景が目の前に浮かび上がってきます。登場人物も妖しく動き回ります。小説中の小説"十六七の少女"って読んでみたいな。

  • 何度か映像化されている本作は、川端康成のキャリアとしては晩年に書かれた作品にあたり、執筆から数年後にはノーベル文学賞を受賞し、さらに数年後には自死を遂げることになる(事故死説もあるがここでは採用しない)。そう思って読むと、たしかにどこか翳を感じる部分がある。本作の登場人物である大木年雄と上野音子のエピソードには、著者の実体験が反映されているらしく、作品に通底する妖しい雰囲気には、たしかに数年後命を絶ってもおかしくないような部分もある。実際、本作の結末でも、ある登場人物が死という道を選ぶ。まるで川端本人の心の闇がそのまま反映されているかのようである。物語自体はそこまで特別な内容ではなく、師匠であり同性愛関係にある女性の過去を知った画家が、彼女になり代わって復讐を誓い、その「過去」に関係した男性の長男に近づいてゆくというもので、いわゆる「悪女」の話であるが、その行動はタイトルにもあるように、時に「美しさ」を感じさせ、時に「哀しみ」を感じさせる。このアンビヴァレンツもまたテーマとなっており、坂見けい子は純粋に復讐しようとしているように見えて、それを超えた感情を抱いているようにも感じられるし、音子も過去を許しているようにもいないようにも見える。この二重性という部分に着目して、ひるがえって川端本人について見てみれば、ノーベル賞という最高の栄誉を受賞し、作家生活のまさに絶頂にいるなかで、突如命を絶ってしまう。これもまた「アンビヴァレンツ」である。そう考えてみると、本作は晩年の川端の思想がもっとも如実に反映された作品といえるのではないだろうか。

  • 三島由紀夫は川端文学を評して、「抒情のロマネスク」であると記している。

    そこでは美徳も悪徳もついには悲しみに紛れ入ってしまう文学であると、三島由紀夫は言っている。

    そうした川端文学の中の「美しさと哀しみと」に関して、山折哲雄はこの小説を書いているとき川端は、「源氏物語」を念頭に置いていたのではないかという。

    「美しさと哀しみと」のあらすじは、以下のとおりである。

    作家の大木年雄は妻子ある身で、十六歳の少女・上野音子と交わり、やがて身ごもった音子は流産する。

    音子は母親に大木との仲を引き裂かれ、京都でその後画家となっている。

    時が流れ、大木はある年の暮れに、音子と再会し除夜の鐘を聞く。

    その折に大木を京都駅で迎えたのが、音子の内弟子・坂見けい子であった。

    けい子と音子は、レスボス島の関係であった。

    音子を慕っているけい子は、音子がまだ大木を思い続けていることを知って、強い衝撃を受け、嫉妬のほむらを燃え立たせる。

    けい子は大木に復讐する為に、大木の息子の太一郎を誘い出す。

    音子はそれを制止しようとするが、けい子は今度は大木とホテルに泊まる。

    大木はけい子が音子の名前を呼ぶのを聞いて、思い止まる。

    終幕はけい子が太一郎を琵琶湖のホテルに誘い出し、モーターボートに二人で乗る。

    事故が起こって、太一郎は死に、けい子だけが助けられる。

    山折哲雄は六条御息所の「もののけ」が葵の上にとり憑いたように、音子の嫉妬心がけい子にとり憑き、その「もののけ」が大木を脅かして、ついに息子の太一郎の命を奪ってしまう。

    「源氏物語」の「もののあわれ」は、「もののけ」の闇の領域と背中合わせであると、山折は記す。

    それはまた、万葉集の「相聞歌」と「挽歌」の関係の中にも探り出せるという。

    切実な愛の歌は、最も親しい者の死の場面において極まるであろうから。

    死者との惜別こそが、取り返しのつかぬ恋情を紡ぎ出すからだと山折は言う。

    「相聞歌」と「挽歌」の関係は、「もののあわれ」と「もののけ」の相関にそのまま当てはまるわけである。

    その愛の明暗は、愛の無常である。

    相聞の調べが挽歌を包み込んで、「もののあわれ」が「もののけ」の気配を飲み込むとき、愛の歌は無常の旋律を奏でる他はないであると、山折は書いている。

    「美しさと哀しみと」もまた、「相聞の美しさと挽歌の哀しみと」を詠じて、無常愛の旋律を奏でているのである。

    川端は「源氏物語」の現代訳に挑戦しようという考えを、持ち続けていたと言われる。

    その川端が、「源氏物語」の世界を自らの小説の中に用いることは至極自然であり、日本古来のつまり「万葉集」と「源氏物語」の中に奏でられている「美しさと哀しみと」こそが、この小説の主人公であったかもしれないのである。

  • ❖会話を含めた作家の洞察力湛える緊張感のある文体に魅了された。息を呑むような感覚的な閃きはよくみがかれた鋭い刃のそれを連想させる。久しぶりに文体の鋭敏にふれ、文学者の凄味を思い知られた。といっても本作が作家の最良部の長篇『山の音』『雪國』と並ぶ傑作とは思わなかったけれど。感覚的に(あるいは観念的であるにしろ)これだけ人物関係の陰翳を魅力的に描きだせる作家は稀有。登場人物たちの淫する情動の関係から人間の業のようなの官能性(おののき)を巧みに引きだし、作家はモラルではなく美意識で律してみせる。力技を堪能した。

  • 同名のフランス映画の存在をきっかけに本書を手にとった。

    昭和30年代後半、日本にまだ東海道新幹線が開通していなかった時代。
    京都と北鎌倉を舞台に描かれる文芸作品である。

    年の瀬で人気の無いひっそりとした嵐山、夏の鴨川の床の夕涼み、
    初夏、雨の鎌倉。 都ホテル。 
    優雅でどこかゆったりとした時が流れている。

    背景と舞台はしっとりと雅なのだが、
    物語そのものは、炎のような情念がほとばしるごとく、力強く展開する。

    作家の大木は、かつて若い娘だった上野と破滅的な恋愛の末に別離。
    数十年の後、大木は、京都で日本画家として生きる上野と再会。

    しかし上野を慕う弟子のけい子は、大木の運命に深く関わってゆく。
    けい子は恐いほどの美貌をもつ勝気な女、ファムファタル。

    そして終盤、思いがけない急展開のうちに物語は幕を閉じる。

    しっとりした古都の風情と旅情と、
    不条理で鋭角的な女の情念が、鮮やかに対比を成す。

    そして、エロい。
    奥ゆかしいエロチシズムが散りばめられて、それもまたよし。

    中公文庫版では、古風な挿絵が挿入されていてこれもまた趣がある。
    加山又造の挿画である。

    あまりにもドラマチックな物語なので、読後、映画化作品を観たい、
    と思った。篠田正浩監督作品があるようで、配役がこれまた興味深い。 

  • 俺が江ノ島でしていたことと似たようなことを江ノ島のまさに同じような場所でして、最後は何処かの大学の教授と同じような死に方(死なせ方)をする。意外に川端康成の晩年の作品で、おそらく最も完成度の高い最高傑作であろう。日本的な要素(美術と古典が中心の文学、京都…)や流麗な会話表現など、それまでの作品のなかで培われてきたものの自然な集大成。作家自身のアナロジーでもあるだろうか。

    30代の男(大木)と16歳の少女(音子)の恋愛というのはありうるのかわからないが、もしそれが実現したら、という縦軸(※横軸でもいい)と、音子に対する愛で大木に復讐をするけい子という横軸。大木や彼の妻や音子はかつての出来事の当事者であり、苦しみ囚われているのだが、ぽっと出てきた「妖精のような」[p]けい子と、大木の息子の太一郎は間接的にしか関わりがない。太一郎がこのように登場しなければ、太一郎とけい子の最後の京都の周遊を描かなくてもよかったかもしれない。ずっと大木を中心に(それと音子を多少)描いて、最後の悲劇に立ち会わせるだけでも十分ではないか。最初にけい子を太一郎が近くの駅ではなく遠くまで送って行ったと、だけ描いただけで二人の成り行きはその後の大木とけい子の描写からだけでも十分わかるだろう。

    我田引水もあるが、画家と小説家、その他川端康成のあらゆる要素が程よく自然に集まっていることからも、最高傑作であろう。

  • 高校時代の愛読書を読み返してみた。世界観が素敵だけれど、こんな本を愛読する高校生は、あまり関わりたくない感じ。

著者プロフィール

一八九九(明治三十二)年、大阪生まれ。幼くして父母を失い、十五歳で祖父も失って孤児となり、叔父に引き取られる。東京帝国大学国文学科卒業。東大在学中に同人誌「新思潮」の第六次を発刊し、菊池寛らの好評を得て文壇に登場する。一九二六(大正十五・昭和元)年に発表した『伊豆の踊子』以来、昭和文壇の第一人者として『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などを発表。六八(昭和四十三)年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。七二(昭和四十七)年四月、自殺。

「2022年 『川端康成異相短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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