富士 (中公文庫 た 13-1)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (638ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122000216

感想・レビュー・書評

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  • 約700pに及ぶ長大なボリューム。面白すぎて凄まじい速度で読了。
    あまりにもカオスで深淵、一言で表現が出来ない。
    解説の堀江敏幸も本作を『樹海』と表現。
    富士とは何を指すのか、ほんの僅かに分かった(気がした)だけでも、読んだ甲斐があった。

  • これもゴツイ。
    昭和19年、富士山麓の精神病院が舞台。
    以前住んでた千葉にも傷痍軍人下総療養所という似たような施設があったのを思い出す。
    作品中はほとんど患者との対話や行動の描写で占められており、濃い。本作執筆中に著者は体を壊したというがさもありなん。
    最後は奥さんの『富士日記』に出てきたエピソードも活用されていて、前に読んでいたので腑に落ちる。実際の時系列では本作品の方が『富士日記』より先に発表されているので逆なのだな。

    武田泰淳/百合子祭りは一旦終了とする。

  • 戦中の精神病院が舞台、とはいっても、「正常と異常」の象徴的に「精神病」が用いられているのであって、その部分のディティールに対して(ましてや現代的な知識でもって)ツッコむのは無粋である。

    劇中には幾人もの患者が登場する。彼らに共通しているのは、精神病患者であることは自覚しつつも、自らの思想や生き様に一切の揺るぎがないことだ。それはある意味での魂の高潔さではないのか。

    「正常」と「異常」。これは当作品において切り離すことはできないテーマであろう。しかし決して対立ではなく同化でもない。境界の論議でもない。

    医者が患者を治そうとする時、「神の指」にならなければならぬという。それはあたかも、動物と接するときにはるか天の神のような立場から何かを施すように。
    動物は「富士」を認識できないだろう。しかし患者の「宮様」も「哲学少年」も富士を見ていた。
    私は、この作品の終盤においてようやく、「富士」というタイトルに見合う壮大さだけは知覚できた。しかし、「富士」は見えなかった。評価は★★★としたが、歴史に残るすばらしい大作だろう。

  • 読書会にて
    突き放し感というか達観というか追求してる感じがイイ!

  • 精神科の先生ではないようで、確かに内容からも伝わってくる。疾患へのイメージなどもすこし大雑把

    精神病院における医師と患者の立場の逆転とはまた怖い発想だ。時間が経てば退院する患者と違って医師は生涯を病院で過ごす。また社会のあらゆる制約に縛られない精神患者と違い、精神科医を縛るものは法律やら規範やら数多い。確かに患者の側が怯える医師を観察しているという表現もなるほど一理がある。拘束の権利を与えられているのはその立場の弱さゆえかもしれない。
    この立場の逆転の考え方は辻仁成の海峡の光、吉村昭の破獄で学んだもの


    神と選ばれたる民
    神は恵みの神、救いの神でありつつ、また怒りの神、抹殺の神でもありうるという運命をもつ
    脳が脳を裁く
    優しさという拘束具
    各行の最初の文字に必ず漢字をえらんでいるのはてんかん病患者特有の傾向
    患者をつくりかえる「神の指」となり、患者をおびきよせる「神の餌」をばらまかねばならないのだ

  • 【#ブックカバーチャレンジ Day2

  • 武田泰淳 「富士」戦時の精神病院を舞台とした医師と患者の物語。

    モチーフは ヨブ記だと思う。登場する人物は 不条理な苦難を受け、物語は終始 混沌としている。「カラマーゾフの兄弟」や 埴谷雄高「死霊」の描く世界に似ている


    章構成が「神の餌」で始まり、「神の指」で終わる。主題は 「人間の狂気性に苦悩する医師と神の関わり」だと思う。


    神が人間にどう関わるか〜沈黙する神、寄り添う神、慰める神。富士は 神の象徴?


    物語の中で 精神病や患者の死は 何を意味するのか〜人間の限界を知ること。その限界の中で人間に何ができるかを問うこと。



    宗教批判や戦争批判は感じないが、階級批判や平等主義は随所に感じた



  • 解説は斎藤茂太。

  • このボリュームを三日で読み終えたのだからいかに無我夢中に読んだかお分かりいただけよう。戦時下の富士山麓の精神病院が舞台。序章と終章の描写は『富士日記』と大いに被り百合子さん信者の私としてはもうたまらない。自分を宮様と信じて疑わない虚言症患者の一条実見の登場シーンに盟友埴谷雄高『死霊』の首猛夫を重ねずにいられない。それら作品との関係性を意識しながらのミーハー読みも一興であるが、狂気と正気がダイナミックに入り乱れ蠢く豊穣な人物像に舌を巻いた。狂気を扱う形而上文学であると同時に娯楽性も兼ね添えた群像劇、大傑作である。

  • 狂気と正常、生と死の境界が曖昧になる瞬間のカタルシス、官能と言ったらない。それが動物界か、それとも神の世界かはわからないけれど、少なくとも人間界を束の間超脱したような恍惚を味わった。
    社会権力から見れば(ましてや戦時下の)、それは紛れもない退廃、許すべからざる退廃。けれどもこの読書体験を通じて、その退廃に至る過程が一言で掬いとれるものでは到底ないことを知る読者にとっては、それが輝かしい退廃であるようにも見える。

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著者プロフィール

武田泰淳
一九一二(明治四十五)年、東京・本郷の潮泉寺住職大島泰信の息子として生まれる。旧制浦和高校を経て東大支那文学科を中退。僧侶としての体験、左翼運動、戦時下における中国体験が、思想的重量感を持つ作品群の起動点となった。四三(昭和十八)年『司馬遷』を刊行、四六年以後、戦後文学の代表的旗手としてかずかずの創作を発表し、不滅の足跡を残した。七六(昭和五十一)年十月没。七三年『快楽』により日本文学大賞、七六年『目まいのする散歩』により野間文芸賞を受賞。『武田泰淳全集』全十八巻、別巻三巻の他、絶筆『上海の蛍』がある。

「2022年 『貴族の階段』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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