ホモ・ルーデンス (中公文庫)

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著者 : ホイジンガ
制作 : 高橋 英夫 
  • 中央公論新社 (1973年8月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (477ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122000254

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ホモ・ルーデンス (中公文庫)の感想・レビュー・書評

  • 祭祀、競技、法律、戦争、貴族生活、知識、哲学、詩、音楽、舞踊、スポーツ...から「遊び」要素を抽出した本。ホイジンガの結論は 「人間は遊ぶ存在」

    遊び=闘争or表現
    遊び→表現→文化、詩、芸術、儀式
    遊び→闘争→訴訟、競争、賭け、贈与

    プロ意識を考えさせられる。スポーツなど 遊びを職業とした職業遊戯者には 遊びの精神がない。自然さ、気楽さがなくなる。「文化は 遊びのなかに、遊びとして発達する」のに、「遊びは 真面目になりすぎて」遊びの最高、最善の部分を失っている

    遊び心の本質=冒険、まだはっきりわからない勝利への期待、成り行きの不確かさ、緊張

    遊びの特徴
    *自由。命令される遊びはない
    *日常ではない
    *その場で行われ、その中で終わる
    *遊びは秩序そのもの。固有の規則がある
    *リズムとハーモニーに充されている


    「勝つことが 利益になりえない」

  • 遊びは気晴らしとは似て異なるもの。遊び自身が目的であり日常とは無関係のもの。自由な行動だし、表現や競争や優越感は大事な駆動源。独自のルールや場があるもの。

  • 想像していたよりも深く、難しい内容だった。
    (「遊び」の歴史が主題であると思っていた)

    そもそも生物として人間が持っていた「遊び」の要素が様々な文化を生み出し、「真面目」に属すると思われるものについてもその根幹には「遊び」の要素があったりする…みたいな話なのでしょうか。

    「遊び」に基づくものが自然であり、「真面目」が行き過ぎるとそれらを歪めてしまうものであるというのは今も変わらぬ心理やもしれません。

  • きだみのるは人間をまず「定義できないもの」としたうえで定義したが、こちらもいろいろ葛藤の果てに遊ぶものとして人間を指したと思われる。
    アレア(機会) アゴーン(闘争) ミミックリー(模倣) イリンクス(幻惑)、これらはすべて神のミミックリーであり、魔術の根幹である。
    ロジェ・カイヨワがたたき台として使ったわけだが、本書はまだ面白い。

  •  始めにもう本書の結論が提出されている。つまり文化の根源には遊びがありそれが創造的要因となり文化を形成していった、と。その後のページは言語や法律、競技、戦争、哲学、詩など多くの領域の具体例を援用してその主張を固めっていってるのだけれど、やはりこのスタイルの進め方は「金太郎飴」みたいになってしまい、「どの章を読んでも同じようなことを書いてる」ことになり読み手としては、退屈を強いられる。小熊英二×古市の対談において小熊(&うちのゼミの先生)はこんなことを言っている。

    「著者が自分のなかに予めある見解をそのまま出しましたという本は、好きじゃないんですね。その作品を作る過程で著者自身が変化していったり、化学反応を起こしているものが好きです。そういう化学反応がない人は、何を書いてもみんな同じになってしまう。」

    まぁ論証のスタイルについて文句を言ってもしょうがない面はある。内容に関して興味深かった点が特に一つ、ホイジンガは終章にて遊び要素が現代においては経済生活に導きいれられた、と書いている。この本が書かれたのが38年でこの上述の主張は経済のスポーツ化を指摘しているが、アップルやグーグルのオフィスの映像を思い出したとき、そこにはまさに遊びの空間が展開されていた。もしかしたらこれからの時代、閉塞を打破し時代を切り拓くのは遊びの創造的機能かもしれないのでは…と思う。

  • レジャー、趣味と同列の意味として遊びを捉えていたが、違う側面が遊びにはある。作者が遊びの定義として挙げているのは、「緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決」といったものがある。遊びは何らかのイメージを心の中に想起することから始まり、時間的空間的制約の中で行われる。これを聞いただけでは、はて?という感じだ。

    遊びという時に頭の中に対立するものとして仕事がある。サザエさん症候群といったように、多くの人は仕事はやりたくない嫌なものとしてとらえられがちだ。しかし、仕事を遊びと見方を変えることはできないだろうか。仕事自体はやり方次第でいくらでも工夫ができる。さらに、競争する要素もある。社内でも社外でも生き残りのための競争が繰り広げられる。クリエイティビティも必要だ。仕事は本来遊びの要素をふんだんに含んでいる。では、なぜ仕事は遊びにならないのだろうか。

    中田英寿さんが、自身のサッカー人生について、ずっと遊んでいただけと言っていた。この言葉は結構衝撃的で、あれほどの成果を出してきた人がさらっとこんなことを言っていた。スポーツとビジネスで内容は異なる部分はあるが、考え方、ものの見方は参考になる。仕事を遊びにしてしまえば、人生が楽しくなる。社会に出てからずっと遊んでいられるのだ。スポーツで大事な感覚は、何かができるようになる、上達するということだと思う。中田もあるプレーを想像して、それができるようになるまで反復練習するのだ。素晴らしい創造力あふれるプレーは想像力と反復練習で生まれていた。

    ビジネスマンはこういうことができるようになりたいと想像する機会が少ないのではないかと思う。ただ単純にその機会を持っていない、そういう例が身近にいないということだけである気がする。1日の中で5分間、どんなことができるようになりたいか、想像力を膨らませてみるのもいいかもしれない。それが仕事を向上させる原動力になるのではないだろうか。

  • 面白い。文化の背後に遊びが存在しているという前提で、さまざまな人間活動を読み解く。ただ19世紀以降は、「まじめ」が強くなりすぎたと、ややペシミスティックな評価をしている。1938年という刊行年の時代意識を反映しているのか。ただ次の一節は印象的。
    文化は遊びとして始めるのでもなく、遊びから始まるのでもない。遊びの中に始まるのだ。(p.165)

  • これも古本。二冊あったので安い(汚い)ほうを。"遊びの中で、遊びとして、「文化」は生まれ、発展したことを、文化人類学と歴史学を綜合する雄大な構想で論証し、遊びの退廃の危機に立つ現代文化に冷徹な診断を下す、前世紀最大の文化史家の記念碑的名著"

  • 現代はありとあらゆる文化というゲーム間の戦争。パイの奪い合い。

  • 著者の手になる「中世の秋」と並ぶ有名な本。人の定義にはホモ・サピエンス等色々あるが、ホモ・ルーデンスは「遊ぶ人」である。確かに、真の意味で遊ぶ、そして笑う、動物は人間だけかも知れない。人間が真面目くさって行う儀式の中にも遊びの要素があるのかも知れない。

  • ・遊びとは、あるはっきりと定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。
    ・それは自発的に受け入れられた規則に従っている。
    ・その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的な拘束力を持っている。
    ・遊びの目的は行為そのもののなかにある。
    ・それは緊張と喜びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏付けられている。

    遊び概念を定義づけた(もはや)古典書。

    大まかなフレームを読み取ったあとは、遊びー(法、戦争、知識、詩、哲学)の各論を流し読み。

    当時のメディア環境とかけ離れてしまった部分をよくよく考えながら現在に応用しましょう。

  •  随分昔に書かれているのに、現代において全く色褪せていないというか、特に戦争については未来を透視していたのかとさえ思えます。

     現代のスポーツやゲーム(の一部)について、ルールの厳重化と訓練の強化によって、遊びの領域から去っていく=気楽な感じが失われているというか考えも面白かったです。

  • 各論以外の部分を読了。
    文化は基本的に遊びと真面目の両輪の中で発達してきたということを論証するための本?

    真面目に読むなら相当な時間が必要。
    ゲーム化してる社会を考えるのに必要かも

  •  若い頃、積読で読めなかった本を読んだ。だけど、30%も理解出来ていないのでは?と思う。
     「人間は遊ぶ存在である Homo Ludens」と、人間存在の根源的な様態は何かという問いに出した結論。人間文化は遊びの中において、遊びとして発生し、展開してきたのだと確信が強まったという、ホイジンガ。遊ぶということが、他のさまざまの文化現象のあいだでどういう位置を占めるのかということではなく、文化そのものはどこまで遊びの性格を持っているか、ということを問題にしている。
     僕が生まれる8年前に出版された本書は、著者自身の生きてきた、19世紀、20世紀に対しては、遊びが希薄になってきたと手厳しいが、この当代一流の歴史家をもってしても、現代史が鳥瞰図的には見極めがたい限界なのではなかろうか?

  • ホモ・サピエンスではなく,ホモ・ルーデンス.
    ホモ・サピエンスは,人間とほかの動物の違いを「考えることができる」ところ.
    ホモ・ルーデンスは,人間とほかの動物の違いを,「遊ぶことができる」ところ

  • 目次
    まえがき―序説
    Ⅰ文化現象としての遊びの本質と意味
    Ⅱ遊び概念の発想とその言語表現
    Ⅲ文化創造の機能としての遊びと競技
    Ⅳ遊びと法律
    Ⅴ遊びと戦争
    Ⅵ遊びと知識
    Ⅶ遊びと詩
    Ⅷ詩的形成の機能
    Ⅸ哲学の遊びの形式
    Ⅹ芸術の遊びの形式
    Ⅺ「遊ビノ相ノモトニ」見た文化と時代の変遷
    Ⅻ現代文化における遊びの要素

  • 30年前から何度か手に取る本です。 僕の考え方に大きく影響を与えた本です。

  • 2009/12/24八勝堂書店で購入:400円
    2009/

    772夜

    遊びの哲学といえば、ただちに私たちの頭に思い浮かぶのがこの本であろう、と澁澤龍彦さんが言っていた。

  • 著者は、オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガ(1872年12月7日-1945年2月1日)です。

    タイトルの「ホモ・ルーデンス」とは、「遊びの人」を意味します。
    本書は、遊びの中で文化が生まれ、発展してきたことと、現代の遊びの変化と問題について指摘した本です。
    内容はかなり難しいです。
    しかし、素晴らしい内容です。

    <span style="font-size:x-large;">「遊びは文化よりも古い。」</span>

    この言葉から本書は始まります。
    まんまと「えっマジで!?」って乗せられてしまいました。
    これは、<span style="font-size:x-large;">文化とは人間の共同社会</span>が前提にあるが、<span style="font-size:x-large;">遊びは人間が存在する前から動物が行ってきた</span>ものだからと本書は言います。
    「あっ確かに、犬とかもじゃれて遊ぶよね!」と納得です。
    この時点で、もう既に著者の着眼点に感服して、すげぇ人だと思ってしまいました。

    本書は、遊びの定義から始まり、遊びと文化の関係を説明し、時代ごとの遊びの移り変わり、そして、色々な遊びを論じ、最後に現代の遊びの文化について論じています。
    この中でもっとも面白いと思ったのは、色々な遊びについてです。
    だって、<span style="font-size:x-large;">「裁判、戦争、哲学」も遊び</span>として説明されているんです。
    <span style="font-size:x-large;">裁判は、権利を掛けた競技であり、悪口雑言をやり合う競争</span>だから遊びであり。
    同じように<span style="font-size:x-large;">戦争は、秩序を持った競争であり、決闘裁判</span>だから遊びであり。
    そして、<span style="font-size:x-large;">哲学は、謎解き競技、質問競技</span>だから遊びなのです。
    もう、目から鱗落ちまくりです。

    本書では、日本の文化についても触れており、以下のような言い回しについて、<strong>常に遊びとして遊びならが行っている</strong>と言います。
    「あなたは東京につく」を<span style="font-size:x-large;">「あなたは東京におつき遊ばします」</span>
    「私はあなたの父上が亡くなられたと聞きました」を<span style="font-size:x-large;">「私はあなたの父上がお亡くなり遊ばしたとうかがいました」</span>
    確かにそう言ったりしますね。
    遊びとは奥が深い。

    そして、本書は以下のような結論に達します。

    <span style="font-size:x-large;">真の文化とは何らかの遊びの内容ををもたずには存続してゆくことができない。
    真の文化はつねに、どんな観点から見ても、正しいフェアプレイを要求している。</span>

    しかし、現代はスポーツや戦争のように純粋な遊びではなく、特定の目的を実現する手段として遊びを利用していると言います。
    そして、そのことが文化そのものを犯していると指摘しています。

    考えさせられますね。
    そして、遊びのあり方について考える必要がありそうです。
    今後はすべてのことを遊びとしてとらえ、純粋に楽しんでいるか自分に問いかけて考えながら行動していこうと思います。

    評価:★★★★☆

    目次は以下の通りです。
    <hr size="1" />
    文化現象 と し て の 遊び の 本質 と 意味
    遊び概念 の 発想 と... 続きを読む

  •  “私の心のなかでは、人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたのだ、という確信がしだいに強まる一方であった。(P12)”という著者。本書は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と題された。

     ホイジンガは“スポーツは遊びの領域から去ってゆく(P399)”とし、“現代社会生活のなかではスポーツは本来の文化過程のかたわらに、それから逸れたところに位置を占めてしまった。...スポーツは完全に泰献性なきものと化し...何か実りを生む共同社会の一因子というより、むしろただ闘技的本能だけの、孤立的な表れなのだ。(P399〜P400)”なのだと言う。

     ちなみに、『スポーツにおいては、身を鍛えることによって過去におけるすべての成績をはるかに上まわる成績があがっているという事実はたえず報告されているし、だれでも知っている。その一つ一つに感心したり、達成された記録に注目するだけでは不十分であって、その頻繁さがわれわれの気持ちに与える印象に注目しなければならない』と言ったのが、オルテガである。

     そしてホイジンガは、たやすく満足は得られても、けっしてそれで飽和してしまうことのない、つまらぬ気晴らしを求めたがる欲望。粗野なセンセーションの追求。巨大な見せ物に対する喜び。こうしたものを“小児病(P414)”と名づけた。

     そして“小児病に対しては遊びの形式としての性質を認める事ことを拒否しなければならないと思う(P417)”とホイジンガは言う。

     つまり、遊びが消えゆく事もしくは小児病という現象に対し、言わば警告をしたとでもいうのがホイジンガであり、本書だという事である。

     その示唆は、今の時代になっても薄らいではいないであろう。

  • ホモ・ルーデンスとは遊ぶ人の意。遊びについての文献。

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