パンセ (中公文庫)

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著者 : パスカル
制作 : 前田 陽一  由木 康 
  • 中央公論新社 (1973年12月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (644ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122000605

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パンセ (中公文庫)の感想・レビュー・書評

  • キリスト教が絡んでくる社会情勢の中で書かれたものでしょうから,パスカルの真意をよく汲み取れていないかもしれませんが,自分流の解釈をつけながら,記録していきます。


    *****
     哲学をばかにすることこそ,真に哲学することである。(断章4)
    ⇒否定学の精神か。「心理学をばかにすることこそ,真に心理学することである」も成立するのか?

     人を有益にたしなめ,その人にまちがっていることを示してやるには,彼がその物事をどの方面から眺めているかに注意しなければならない。なぜなら,それは通常,その方面からは真なのであるから。そしてそれが真であることを彼に認めてやり,そのかわり,それがそこからは誤っている他の方面を見せてやるのだ。彼はそれで満足する。なぜなら彼は,自分がまちがっていたのではなく,ただすべての方面を見るのを怠っていたのだということを悟るからである。(断章9)
    ⇒物自体は見えない。ある側面からの解釈が全てではないという相対性を配慮しましょう。世界平和のためにも,科学論としても大事な視点だろう。

  • 自分の宗教体験をきっかけに護教論を書こうとしたパスカルの、その草稿メモを集めたもの。全編をとおして含蓄に満ちた、まるで散文詩のような言葉がちりばめられています。感想がとてもまとまりそうにないので、私が衝撃を受けた断章と、それについてのコメントをつらつらと書いてみます。

    断章23「言葉は、ちがった配列をすると、ちがった意味を生じ、意味は、ちがった配列をすると、異なった効果を生じる。」
    私が大学、大学院でやってきた「読み」についての研究内容を、パスカルはたったの1文で表してしまいました。おそるべし。

    断章77「私はデカルトを許せない。・・・彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それからさきは、もう神に用はないのだ」
    直感と信仰とを尊び、合理主義を徹底的に批判したパスカルの、デカルトと時代と母国とを同じくしたからこそ抱いた怒りのように、感じられます。

    断章139「・・・彼らには、気ばらしと仕事とを外に求めさす、一つのひそかな本能があり、それは彼らの絶えざる惨めさの意識から生じるのである。・・・」
    人は何もしないと、自身についてただ考え苦悩せずにいられなくなるような、不幸で惨めな存在である、と指摘するパスカル。私たちはなぜ仕事を持たないといけないのか。深く考えさせられます。

    断章262「・・・よい恐れは信仰から起こる。偽りの恐れは疑いから起こる。・・・」
    読んでいると、讃美歌「Amazing Grace」の2番を思い出します。パスカルの心情が2番に近いなら、デカルトのそれは6番「神は永遠に私のもの」に近いのかもしれません。

    断章347「・・・たとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を押しつぶすものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。・・・」
    「考える葦」で有名な断章の一節。考えて、人間の脆弱さを見つめることこそ、人間の尊厳の源であり、「道徳(=真偽を判断する力)の原理(=根源)」と説く。この謙虚な姿勢には感銘を受けるばかりです。

    断章373「・・・私はここに私の考えを無秩序に、しかもおそらく無計画な混乱ではないように、書き記そうと思う。・・・」
    パスカルはこのメモ書きたちの行く末を予見していたのでしょうか。少なくともこの「ブランシュヴィック版パンセ」は、この言葉通りの本になったのですから。

    断章547「・・・われわれは、それと同時に、われわれの悲惨さを知る。・・・われわれは自分の罪を知ることによってのみ、神を明らかに知ることができる。・・・」
    人間は欲深く高慢で惨めであると、パスカルは本書のなかで嫌というほど繰り返します。恐ろしくも迫力のあるこれらの指摘は、キリスト教徒ではない私をして、暗い奈落のふちに立ったような震えを起こさせました。

    断章678「・・・符号は二重の意味を持つ。・・・まして文字どおりの意味に明白な矛盾が認められるときは、なおさらのことではあるまいか。・・・」
    キリストの出現が旧約聖書の中にひそかに預言されていた、という主張の中の一節ですが、現代の記号論、暗号理論のような鋭い指摘です。

    断章895「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない。」
    こういうときほど、それを犯した人間の扱いに困るときはないし、こういうことが起こるから、倫理を規定し悪を予防することが難しいのだと思うのです。

    (2008年6月 読了)

  • 「短い言葉が、それを露頭させている深い氷山の下の世界をよくうかがわせるに足る力をもっている」(大岡)

  • 意外とよみやすいですよ^^

  • かなーり昔の本ですか、現代においても通ずるところがたくさん。
    気が向いたときにパラパラめくって目にとまった項を読むだけでもok。

  • 「人生は須らく暇潰しである」シニカルでありながら、人間愛に満ちたパスカルの言葉はどこを取っても琴線に触れる。

  • ちょっと難しいところもあるが、飛ばして読んでもOK。印象に残った点は、・繊細な精神の人は直感で、幾何学的な精神の人は原理に基づいて判断する。・人に話をするときは、その人の身になって見ることが必要。言い回しを自分自身に試してみて、その言い回しがその心にあっているかどうか見なければならない。・人は自然の中の虚無と無限の間の深淵な溝にいる。このことに気付けば、人は怖れを抱き、その自然を僭越な心で探求するのではなく、沈黙のうちにそれを眺めるだろう。 ・信仰とは、理性だけでなく、心情も必要とすることが、彼の宗教に対する考え方であるようだ。神は試そうとしているものには姿を見せず、神を求めるものだけに姿を見せる、などである。 割とありきたりな問題から、パンセの天才的な鋭い洞察まで味わえる。

  • パスカルは若くして亡くなったが、数学、物理学においていくつもの偉業をなした天才と言われる。彼は病に煩わされながらもこの本の原稿を執筆するが、彼の生きているうちには完成しなった。彼は多くのメモや原稿を残すが、それはほかの人々の手によて纏め上げられたものが「パンセ」である。この本は、パンセの残した断片的な一言メモなども含まれているので、意味がわからない部分も多かった。しかし、飛ばし読みしても問題ないのがこの本の強みである、と訳者も記しているように、分厚い割に早く読めるし、読むのが苦になりにくい。
     私が、特に印象に残った点は、・繊細な精神の人は直感で、幾何学的な精神の人は原理に基づいて判断する。
    ・人に話をするときは、その人の身になって見ることが必要。言い回しを自分自身に試してみて、その言い回しがその心にあっているかどうか見なければならない。
    ・人は自然の中の虚無と無限の間の深淵な溝にいる。このことに気付けば、人は怖れを抱き、その自然を僭越な心で探求するのではなく、沈黙のうちにそれを眺めるだろう。
     ・信仰とは、理性だけでなく、心情も必要とすることが、彼の宗教に対する考え方であるようだ。神は試そうとしているものには姿を見せず、神を求めるものだけに姿を見せる。
     などの点である。この本は拾い読みするような気持ちで重要なところを自分で見つけてじっくり読むのが言いと思う。
    ・人間の真の善とは神である。
    1、2、4、8章読。後はキリスト教をもう少し知ってから。

  • 最高。人間の不確かさや永遠と無限に関するパスカルの洞察には痺れる。

  • 2016.10.25
    第8章までで断念。どうも宗教に関することは入って来にくい。が、学びは多くあった。実存哲学の先駆けとも言われるパスカルの人間洞察は、確かにと唸らせるものがある。人間は悲惨な存在であるという。考えたいのは、実存と愛について。
    人間存在、実存は、悲惨であるという。全てを知ることもできなければ、また全てを知らないということもできない。自分の存在の意味、生きる意味も知らなければ、生まれた瞬間に死が決定されている。このような自分の存在の悲惨さから目を背けるために、気晴らしをするのが人間だという。狩をするのは獲物を手に入れたいからではない。狩をすることで自分の存在の悲惨さを忘れるためである。そんな人間の悲惨さを救済するのが、キリスト教であるという。しかし多くの人間は、神の存在を認識できないが故に無神論者となり、また神とは〇〇であるとか、真理とは〇〇であると自分で決めつけることによって理神論者になる。ここには、自分の悲惨さを直視せず、神を信じないもしくは神に成り代わろうとする人間の傲慢がある。神が見つからないだけではなく、求めようともしないこのような人間にパスカルは閉口する。こうして人間の大半の状態は、絶望と高慢であるという。自らの存在の矮小さに苛まれる人間の絶望は、神なしでは絶えることはできない。自らの存在の汚さを直視しない傲慢さは、それもまた神から最も遠いという。人間が救われるためにはキリストを信仰せねばならない。神の存在は人間を超越している以上、人間の理性で神の存在を証明できるはずはない。しかし、求めるものは世界の中に神を見いだすことができる。この著の最初の部分に、理性的認識と感性的認識について書かれていたが、まさに神とは、幾何学や論理学のように証明できるものではなく、感じるもの、しかし確実にその存在を直感できるものであり、その直感の条件として、神を求めることが前提としてあるのだろう。故に、求めなければ、見えない。神の存在を知ることによって、人間は救われる。そのためにはまず、人間の高慢を改め、人間存在の矮小さを徹底的に自覚しなければならない。私はゴミ以下の存在であることを芯から理解せねばならない。気晴らしや、高慢になることなく。その上で救いを神に求めた時、神の愛に気がつく。私は神と一体であったことに気がつく。死後の永遠の生が約束される。絶望の深淵に降り立つとき、人はその絶望の原因を、乗り越えることができるわけである。このとき人間は、悲惨な存在でありながら、絶望も高慢でもない、という状態に行き着く。
    私は無神論者である。2億人いる仏教徒の一人である。私は宗教とは人間の生み出した発明だと思っている。そんな私が、このパスカルの宗教への帰依に深く共感したのは、私は神とは別の経験で、この状態を知っている、経験しているからである。それは私にとって、「愛されるためには」という問題であった。私は愛されるために、いい子であろうと生きてきた。しかしいい子であることで愛されてきた、というより、私は「好かれて」きたのであって、私でなく、私の能力や振る舞いなど性質が好かれたのであって、この私が愛されているのではないと、無意識的に感じてきた。その後、諸事があり、絶望に堕ち、いい子アイデンティティは崩壊した。しかしその崩壊した、つまり「いい子」ではない私になって初めて、それでも私と関係を持ってくれる他者に対して、私は「ああ、愛されてるな」と思えたのである。私にはこの問題が理解できなかった。人当たりがいいから愛される、これは論理的である。しかし、私は畜生であるという自己認識に陥った時、それでも私を好きでいてくれた人は、なぜそうだったのだろう、それがわからない、そして、それがわからなく、非合理故に、私は私の性質や属性が愛されているのではなくこの私という存在が... 続きを読む

  • 構造主義について調べていた際に興味を持ち手に取った。

  • カテゴリ:図書館企画展示
    2015年度第5回図書館企画展示
    「大学生に読んでほしい本」 第3弾!

    本学教員から本学学生の皆さんに「ぜひ学生時代に読んでほしい!」という図書の推薦に係る展示です。

    伊豆藏好美教授(哲学科)からのおすすめ図書を展示しています。
        
    展示中の図書は借りることができますので、どうぞお早めにご来館ください。

    開催期間:2016年1月6日(水) ~ 2016年3月4日(金)
    開催場所:図書館第1ゲート入口すぐ、雑誌閲覧室前の展示スペース

    数ある哲学の古典の中から、とくに哲学や思想史についての予備知識がなくても読める本として上記三冊をお奨めします。「おもしろい」とか「わかりやすい」とはあえて言いません。私自身、これらの本を高校から大学にかけての時期に初めて読んだときは、「わかった」とも「おもしろかった」とも思えませんでした。それでも「わかりたい」とは思い、「いつかもう一度読みたい」とも思いました。そして、これまで折にふれて読み返しては、その都度新たな驚きや感動を与えてもらっています。結局はそのような書物こそが「古典」と呼ばれるのでしょう。多少なりとも自由な時間のある大学生時代こそ、そうした書物との最初の出会いのまたとない機会です。どうかその機会を逃されませんように。

  • パスカルが好きという人の多くは、専門家に限らず、だいたい15歳から18歳くらいの間に『パンセ』と出会っているようです。
    「『パンセ』数学的思考」より

  • 物事の価値が両義的であることを、
    しっかりと捉えつつ、懐疑論に与しない。
    その代わりに、キリストへの愛をもって、
    人生の価値を担保しようとする。

  • 中途半端な存在としての人間 不確実であり惨めであり、真にも善にも辿りつけないが、動物でもない。
    そこで人間は考えることから逃げて気晴らしをする。賭けは賭け金が必要だが、その金がほしいわけではなく、その時間を楽しむ。何もかもが気晴らしであって、死の事実、惨めさに直面するのは不幸。しかし逃避するのもそれはそれで不幸。そこからの逃げ道をキリスト教に求める。

    良さの核心を永続性に置き、旧約と新約を折り合わせるための原理を表徴に求める(事実において合っていない部分は隠喩的表現にすぎないと解釈するということ?)。新約の中心人物としてイエスを置き、正当性の基準の一つを奇跡に求めて、奇跡について論じる。

    モンテーニュ批判。自分の頭で考える、という姿勢に対していかに習慣や自己愛が人間に作用しているかで以て反論する。

    終盤は教皇批判も。信仰において真理を重視することと、理性を優先することの一致。

  • ぼくらの頭脳の鍛え方
    書斎の本棚から百冊(立花隆選)54
    哲学
    誰でもこれくらいは手に取るべき。

  • 人間は生まれたときに死へのカウントダウンが始まっている。
    でもそれを考えるのが怖いので、気晴らしを求める。

    昨日(2012/8/26)都内某所で自身初の哲学読書会を開催した。
    その記念すべき初回にパスカルのパンセを課題本として選びました。

    NHKの100分de名著6月号や、今年猫町倶楽部で暇と退屈の倫理学を
    呼んでパスカルのパンセに非常に興味を持ったので課題本とした。

    パスカルは恐るべし人間への観察力を持っていた。
    もともと数学の天才だった彼が論理的に物事を考える能力を駆使して
    人間を観察するもんだから、人間についてのコメントは300年も色あせない。

    僕が気になった断章。412と413。理性と情念について書かれている。
    人間は常に理性と情念の間で戦いをしている。
    こうして人間は常に分裂し、自分自身に反対している。

    例えば情念ではやりたいと思っていることを理性が止める。
    これっていいことだろうと思うけど、
    時にこの決断は僕を欲求不満にさせる。
    生理的にやりたいことを否定するわけだから。

    もう一つ気になったのは断章162
    。人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。
    原因は私にはわからない何かであり・・・。
    この章と断章163はグサリと心に刺さる。

    こうして人間は不幸である、死について考えるのが怖い、
    考えることが原罪であると言い切るんだが、
    考えて考えて考えまくる人間は尊厳だといい、
    人間は考える葦であるというあの名台詞へと至る。

    これ以外のことは参加者に解説としてお伝えすることができたので、
    ここではデカルトとパスカルについて述べ感想を終えよう。

    デカルトとパンセは当時犬猿の仲だった。
    パンセでは徹底的にデカルト批判をしている。
    でも我々の先輩方はデカルトの理性は万能であるという考え方を採用し、
    デカルトは近代哲学の祖といわれるまでになった。

    でも21世紀になってから、そのデカルト的な考え方にひびが入っている。
    その典型が原発事故。絶対安全だと政府は言ってきたので、
    国民はそれを信じてしまった。でも結果はご存知の通り。
    地震で安全神話は崩れた。パスカルは理性には限界がある、
    時には直感を信じないといけないといっている。
    あらゆる現象、出来事はメカニズムがあるというのはもはや一般人の
    我々でも信用することが出来ない。
    今こそパスカルの考え方に再度焦点を当てるべきではないか。

    (参考資料:NHKの100分de名著-6月号)

  • “考える葦”でおなじみ、パスカルの草稿集。…最近よく本屋さんでプッシュしてませんか?(2012年6月25日 30刷発行か)
    混迷の時代なんですかね。超訳ニーチェ、超訳ブッダ、そういうの多い気がするよ。

    厳密には最初から最後まで「読み終わった」わけではないですが、そういう扱いにします。
    時代のせいか(17世紀フランス)、キリスト教の話題が多めですね。
    自省録(マルクス・アウレリウス)型の本ですな。

  • 時代の違いからピンと来ないものや、普遍的な真理を言い当ててると感じるものまで様々。

    「職業。思想。すべては一つであり、すべては多様である。人間の本性といっても、そのなかにいかに多くの本性があることだろう。いかに多くの天職があることだろう。そして人は、普通、どんな偶然から、ある職業がほめられるのを聞いてそれを選ぶことだろう。」
    「もし一週間の生涯なら、ささげるべきであるならば、百年でもささげるべきである。」
    「一人の人間の徳に何ができるかは、その努力によってではなく、その日常によって測られなければならない。」
    「考えが人間の偉大さをつくる。」

    後半はキリスト教に関する言葉がほとんどであまり関心がなかったけど、300年以上経っても人間の基本的な部分って変わってないんだなあと思わせるものがあります。

  • 644ページもあって,読み応え抜群で,ちょっとしんどかった.
    読むのに2週間もかかった.
    エリック・ロメール監督の映画「冬物語」で,登場人物がこのパスカルの言葉を引用しているシーンがあって,それが非常に心に残ったので読んだ.

    冬物語より,パスカル「賭の論議」
    「霊魂の不滅に賭けた場合,利得は大きく,確率の低さを補いうるし,不滅でないとしても不滅を信じることでよき人生を送れる」

    というものであった.
    私はこの出典がおそらく「パンセ」だろうと思って,読んだ.
    実はこのパスカルの「賭け」についてという議論は有名な話らしい.
    私が知らなかっただけだった.
    上の論議ではそのロジックがいまいち不明瞭だけれども,本の方ではもうちょっと詳しく書かれている(ただし納得できるものではないが).

    私は上のようなパスカルの考え方が好きだ.
    これは神の有無などの問題を考えるときだけの話ではない.
    何かをすべきかどうか,の判断で私がよく用いるロジックである.

    人間,何かをすべきかどうか迷う場面がよくある.

    する  → 後悔する
    する  → 後悔しない
    しない → 後悔する
    しない → 後悔しない

    の4通りがある.
    だから,してもしなくても,後悔するかもしれないし,後悔しないかもしれないということになる.

    ところで,この「後悔」とはなんだろうか??
    当然,「しなかったらよかった」という気持ちである.

    ここで重要なのは,なぜ「しなかったらよかった」と思うのか,である.
    それは,そこにうまくいく可能性が残されていたからである.

    この「可能性」というのがキーワードだ.
    「可能性」というものは事象の生起が時間的に先である場合にのみ意味をなすものである.ゆえに,事象の生起が時間的に既に後ろである場合,すなわち,もう済んでしまったことの場合,可能性は意味をなさない.

    これをふまえたうえで,最初の選択に立ち返ると,「する」という選択をした場合,「しなかった場合」の可能性は全て意味をなさない.

    ところが,「しない」という選択をした場合,「した場合」の可能性はまだ意味をなすわけである.

    ゆえに,どれだけ選択肢が多くとも,した場合の未来の可能性は,しなかった場合の未来の可能性よりも絶対に少なくなる.

    可能性の多さが後悔につながる以上,これらの理由から,しなかった場合の方が後悔する可能性が高くなる.

    ゆえに,「すべき」である.

    このロジックに反論するのは簡単である.
    しかしながら,その反論に反論するのも私は簡単にできる.

    ゆえに,私は「すべき」であるという結論を支持する.
    責任は持たんがね.

  • (本の内容から抜粋)
    幾何学と精神と繊細の精神との違い
    前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用からは離れている。
    ・・・
    ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。・・ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそはよくなければならない。・・あらゆる原理を見るために、よく澄んだ目をもたなければならず、次に、知りえた原理に基づいて推理を誤らないために、正しい精神を持たなければならない。
    ◆紹介:広報スタッフ

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