- Amazon.co.jp ・本 (644ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122000605
感想・レビュー・書評
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17世紀フランスの哲学者、数学者、自然科学者、キリスト教神学者であるブレーズ・パスカル(1623-1662)の遺稿集。未完に終わったキリスト教弁証論(合理主義や懐疑論に対してキリスト教を擁護する議論)のために書き残された草稿をまとめたもの。
本書の構成は、パスカルが残した草稿を内容別に14の項目に分類整序して配列しなおしたブランシュヴィック版(1897年)に基づく。このブランシュヴィック版では、前半(第1章~第6章)には人間性に関する研究が展開されており必ずしも宗教的背景をもたない現代人にとっても興味深いものであるが、後半(第7章~第14章)のキリスト教に関する議論はキリスト教やその歴史について相応の予備知識がないと理解が難しいと思われる。
本書を通して、実存思想と信仰とのかかわり(深い信仰心に基づく思索が、人間存在の根源的な在り方としての実存への覚醒を導き、その覚醒がさらに深い信仰へとつながっていく)を、そして実存という考え方が20世紀のハイデガーやサルトルらによって突如として語られはじめたのではなくて長い西欧精神史のうちに跡付けられるものであるということを、驚きをもって確認することができた。
以下、興味をもった点について簡単にまとめておく。
□ ジャンセニズム
パスカルは若い頃から、円錐曲線論、流体に関するパスカルの原理、確率論など数学や自然科学に関して業績を上げてきた一方で、1654年の「回心」以降は信仰生活に入っていく。彼が傾倒したジャンセニズムは、思想的に次のような特徴をもっている。則ち、それはアウグスティヌスの流れを継いで、人間存在に対する神の絶対性を強調する。つまり、神と人間とのあいだには近接不可能な絶対的隔絶があり、神に対して人間の理性や自由意志の力は徹底的に無力であるとされる。この考え方は、神と人間とのあいだに契約関係が成立するとみなす人間主義的なジェズイットとは対照的である。人間に一切負っていないジャンセニズムの神と、契約関係を通して人間に規定されてしまうジェズイットの神との対照は、17世紀の時代精神における信仰と理性との緊張関係を反映している。ジャンセニズムはカトリック内部の最左派として、むしろプロテスタンティズムに近いものと位置づけられる。こうしたジャンセニズムの考え方が、パスカルの人間観の底流にある。
□ 実存への覚醒
① パスカルは人間を「中間者」として規定する。則ち人間は、無限大からも無限小からも等しく隔てられた存在である。中間者であるがゆえに、人間は、無限大の方向であれ無限小の方向であれ、究極的な実体というものを把握することができない。
「無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである」(七二、p44)。
② さらにパスカルは、こうした「中間者」という規定から、人間を不釣合な存在 disproportion とみなす。則ち人間は、自己を基準としてそれとの比例関係 proportion において世界を捉えることができない。
「われわれは、広漠たる中間に漕ぎいでているのであって、常に定めなく漂い、一方の端から他方の端へと押しやられている。われわれが、どの極限に自分をつないで安定させようとしても、それは揺らめいて、われわれを離してしまう。そしてもし、われわれがそれを追って行けば、われわれの把握からのがれ、われわれから滑りだし、永遠の遁走でもって逃げ去ってしまう。何ものもわれわれのためにとどまってはくれない。それはわれわれにとって自然な状態であるが、しかもわれわれの性向に最も反するものである。われわれはしっかりした足場と、無限に高くそびえ立つ塔を築くための究極の不動な基盤を見いだしたいとの願いに燃えている。ところが、われわれの基礎全体がきしみだし、大地は奈落の底まで裂けるのである。/それゆえに、われわれはなんの確かさも堅固さも求めるのをやめよう。われわれの理性は、常に外観の定めなさによって欺かれている。何ものも有限を、それを取り囲み、しかもそれから逃げ去る二つの無限のあいだに固定することができないのである」(七二、p48)。
③ そんな不釣合な存在である人間は、自己を基準として世界との有意味な関係を構築することができず、端的な無意味として世界から疎外され、孤独へと投げ出されている。
「私は、誰がいったい私をこの世に置いたのか、この世が何であるか、私自身が何であるかを知らない。私は、すべてのことについて、恐ろしい無知のなかにいる。[略]。私の知っていることのすべては、私がやがて死ななければならないということであり、しかもこのどうしても避けることのできない死こそ、私の最も知らないことなのである」(一九四、p128-129)。
「私の一生の短い期間が、その前と後との永遠の中に〈一日で過ぎて行く客の思い出〉のように呑み込まれ、私の占めているところばかりか、私の見るかぎりのところでも小さなこの空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくてここにいることに恐れと驚きとを感じる。なぜなら、あそこでなくてここ、あの時でなくて現在の時に、なぜいなくてはならないのかという理由は全くないからである。だれが私をこの点に置いたのだろう。だれの命令とだれの処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう」(二〇五、p146)。
「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」(二〇六、p146)。
ここに描かれているのは、中世の目的論的世界観が崩壊し、機械論的世界観のもとで生と世界の意味=本質=価値=当為を喪失してしまった近代人の悲劇である。パスカルは、こうした近代合理主義の典型的な思考様式を「幾何学の精神」と名づけている。「幾何学の精神」は、自然を要素に分解しそれを力学的な因果系列における機能に還元してしまうことで、世界から目的論的秩序およびその位置価としての意味を抹消してしまうことになる。なおこの「幾何学の精神」と対比されるのが、世界をそれ自体として一挙的に直観しようとする「繊細の精神」である。
④ 唯一可能なことは、思考することである。ここに「考える葦」の比喩が位置づけられる。宇宙は人間を空間によって呑み込むが、人間は自分を呑み込む宇宙を思考によって包み込む。つまり人間は、宇宙における自己の惨めさを、思考によって自覚する。それはいかなる規定からも見放され無意味なものとして宇宙に投げ出された自己の虚無性を自覚するということ、則ち、意味以前の実存という在り方に覚醒するということである。
「人はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない」(三四七、p225)。
⑤ パスカルは、このような人間の惨めさの自覚に、人間の偉大さをみる。そして、その惨めさをもたらす「中間者」としての位置から一方の極端へと到達し得たなどという自己欺瞞に陥らず、飽くまで「中間」に留まり続けることに偉大さをみる。なぜなら、パスカルによれば、こうした実存への覚醒が、人間を信仰へと導くことになるからである。というのも、生が無意味なものであるという痛切な自覚があればこそ、死後の永遠における幸福を確信すべく、「賭け」として神への信仰を選び取ることになるのだから。人間の思考は、このように信仰に通じる道である限りにおいて、偉大なものとされるのである。
「なぜなら、この世で生きる時間は一瞬にすぎず、死の状態は、その性質がどんなものであるにせよ、永遠であるということは疑う余地がないからである。したがって、この永遠の状態がどうであるかによって、われわれのすべての行動と思想とは、全く異なった道をとらなければならないのであるから、われわれの究極の目的とならなければならないこの一点の真理によってわれわれの歩みを律しないかぎり、ただの一歩も良識と分別とをもって踏み出すことはできないのである」(一九五、p140-141)。
「私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう」(二四一、p168)。
このようにパスカルは、死後に獲得される幸福の期待値を計算することで、神への信仰に「賭ける」ことが合理的な選択であることを示している。とはいえ、それは決して理性によって神の存在が「証明」されたことを意味しているわけではない。なぜなら、人間の無力な理性によって神の存在/非在を決定することはできないのだから。つまりこの「賭け」は、死後に獲得される幸福の期待値が大きいという意味では合理的な選択であるが、神が存在することの「証明」が与えられていないという意味では非合理的な選択であるといえる。そしてこの非合理性は人間にとって乗り越え不可能な宿命であるのだが、にもかかわらずそのもとで「あれかこれか」の決断を強いてくるのである。
□ 気散じ
「中間者」としての実存的不安に耐えきれない人間のなかには、信仰へ向かわずに、「気散じ」に逃避することで「死への不安」「無(意味)への不安」を遣り過ごそうとする。こうした「気散じ」を本来の在り方から外れる態度として批判する議論は、ハイデガーにおける「頽落」の議論と並行的であるといえる。
「人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした」(一六八、p113)。
「人は、いくつかの障害と戦うことによって安息を求める。そして、もしそれらを乗り越えると、安息は、それが生みだす倦怠のために堪えがたくなるので、そこから出て、激動を請い求めなければならなくなる。なぜなら、人は今ある悲惨のことを考えるか、われわれを脅かしている悲惨のことを考えるかのどちらかであるからである。そして、かりにあらゆる方面に対して十分保護されているように見えたところで、倦怠が自分かってに、それが自然に根を張っている心の底から出てきて、その毒で精神を満たさないではおかないであろう。/このように、人間というものは、倦怠の理由が何もない時でさえ、自分の気質の本来の状態によって倦怠に陥ってしまうほど、不幸な者である。しかも、倦怠に陥るべき無数の本質的原因に満ちているのに、玉突きとか彼の打つ球とかいったつまらないものでも、十分気を紛らすことのできるほどむなしいものである」(一三九、p96-97)。
自己も世界も何もかもが空っぽで、そこでは人間存在の諸々の規定の全てが取り去られてしまっているという実存への覚醒が根底にあればこそ、一切の雑多な感情が取り除かれたとき、人間は何も感じないのではなくて、最後に残る最も elementary な無内容の哀しみを覚えるのだと思う。
□ デカルト批判、三つの秩序
パスカルの思想は、同時代のデカルト(1596-1650)に代表される近代合理主義に対する最初の先鋭的な批判であった。パスカルによれば、物体/精神/愛は、相互に無限に隔てられた異なる三つのカテゴリーとして階層秩序をなす。デカルトが犯した錯誤は、この階層間の区別を混同してしまったことに帰せられるだろう。つまり、神や信仰(愛のカテゴリーに属する)の問題を理性(精神のカテゴリーに属する)に従属させてしまった。神の存在論的「証明」という企てはこうした錯誤の典型であり、近代の傲慢そのものだということになる。
「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ」(七七、p56)。
パスカルから見れば、デカルトは神を人間理性の都合に従属させる理神論者と同列であったのであり、神に対して人間存在は無に等しいとするジャンセニズム的な思想とは相容れなかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人間は考える葦である、で有名な一冊。
かといって、それがどんな本なのか?という素朴な疑問から読み始めた本だったのですが、これがまた興味深くて何度も読み返した。
今のジャンルで乱暴に当てはめるならば、当時のエッセイみたいなものだよね。
ブーレーズパスカルという人が、どういった出来事に感銘を受けて、どういった出来事にムカついたのか。
その対処法などは現代にも通じてすごく面白い。 -
自分の宗教体験をきっかけに護教論を書こうとしたパスカルの、その草稿メモを集めたもの。全編をとおして含蓄に満ちた、まるで散文詩のような言葉がちりばめられています。感想がとてもまとまりそうにないので、私が衝撃を受けた断章と、それについてのコメントをつらつらと書いてみます。
断章23「言葉は、ちがった配列をすると、ちがった意味を生じ、意味は、ちがった配列をすると、異なった効果を生じる。」
私が大学、大学院でやってきた「読み」についての研究内容を、パスカルはたったの1文で表してしまいました。おそるべし。
断章77「私はデカルトを許せない。・・・彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それからさきは、もう神に用はないのだ」
直感と信仰とを尊び、合理主義を徹底的に批判したパスカルの、デカルトと時代と母国とを同じくしたからこそ抱いた怒りのように、感じられます。
断章139「・・・彼らには、気ばらしと仕事とを外に求めさす、一つのひそかな本能があり、それは彼らの絶えざる惨めさの意識から生じるのである。・・・」
人は何もしないと、自身についてただ考え苦悩せずにいられなくなるような、不幸で惨めな存在である、と指摘するパスカル。私たちはなぜ仕事を持たないといけないのか。深く考えさせられます。
断章262「・・・よい恐れは信仰から起こる。偽りの恐れは疑いから起こる。・・・」
読んでいると、讃美歌「Amazing Grace」の2番を思い出します。パスカルの心情が2番に近いなら、デカルトのそれは6番「神は永遠に私のもの」に近いのかもしれません。
断章347「・・・たとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を押しつぶすものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。・・・」
「考える葦」で有名な断章の一節。考えて、人間の脆弱さを見つめることこそ、人間の尊厳の源であり、「道徳(=真偽を判断する力)の原理(=根源)」と説く。この謙虚な姿勢には感銘を受けるばかりです。
断章373「・・・私はここに私の考えを無秩序に、しかもおそらく無計画な混乱ではないように、書き記そうと思う。・・・」
パスカルはこのメモ書きたちの行く末を予見していたのでしょうか。少なくともこの「ブランシュヴィック版パンセ」は、この言葉通りの本になったのですから。
断章547「・・・われわれは、それと同時に、われわれの悲惨さを知る。・・・われわれは自分の罪を知ることによってのみ、神を明らかに知ることができる。・・・」
人間は欲深く高慢で惨めであると、パスカルは本書のなかで嫌というほど繰り返します。恐ろしくも迫力のあるこれらの指摘は、キリスト教徒ではない私をして、暗い奈落のふちに立ったような震えを起こさせました。
断章678「・・・符号は二重の意味を持つ。・・・まして文字どおりの意味に明白な矛盾が認められるときは、なおさらのことではあるまいか。・・・」
キリストの出現が旧約聖書の中にひそかに預言されていた、という主張の中の一節ですが、現代の記号論、暗号理論のような鋭い指摘です。
断章895「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない。」
こういうときほど、それを犯した人間の扱いに困るときはないし、こういうことが起こるから、倫理を規定し悪を予防することが難しいのだと思うのです。
(2008年6月 読了) -
意外とよみやすいですよ^^
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かなーり昔の本ですか、現代においても通ずるところがたくさん。
気が向いたときにパラパラめくって目にとまった項を読むだけでもok。 -
「人生は須らく暇潰しである」シニカルでありながら、人間愛に満ちたパスカルの言葉はどこを取っても琴線に触れる。
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大学時代からの枕頭の書