朝の影のなかに (中公文庫 D 4-2)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122002531

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  • オランダの文化史家ホイジンガ(1872-1945)による文化批判の書、1935年。ファシズムが台頭してきた1930年代ヨーロッパの文化状況を思想的に掘り下げて解明しようと試みたものとして、オルテガ『大衆の反逆』(1930)と並び称される。

    □ 文化の条件

    まず、ホイジンガは文化が満たすべき条件を規定する。

    ① 精神的価値と物質的価値との均衡
    ② 理想や理念など個人を超越した普遍的な価値の措定とそれへの努力
    ③ 自然の支配

    これらは全て「形而上的価値への志向」というひとつの本質に帰着できる。①は、動物的自然から発する即物的欲望の充足という次元を超えた、ヨリ高次の価値への志向性を含意する。③のいう「自然の支配」には物質的自然だけでなく人間的自然の克服も含まれ、そこから個人を超えた義務、倫理、規範、奉仕の観念が生じる。こうして、自然的現実とは異なるヨリ高次の形而上的価値を志向する文化一般の本質が導かれる。

    「[略]、文化という概念は、文化の志向性を規定するある理想がその文化をになう共同体のさまざまな利害関心の外側に、またそれを越えてつらぬかれるとき、はじめてその場を与えられる[略]。文化は形而上的に志向づけられなければならない」(p48)。

    これらの基準に照らしながら、1930年代ファシズム台頭期のヨーロッパ文化の現状を次のように分析する。則ち、現代文化は形而上的価値という超越性への志向を忘失し、個々人はそうした形而上的価値から切断されてしまった個別的自然的な欲望にとらわれてしまっている、と。

    □ 形而上的価値の無化

    では、なぜ現代文化はこのような無思想とでもいうべき状況に到ってしまったのか。いかにして形而上的価値は忘失されるに到ったのか。そこには19世紀以降のヨーロッパで進展してきた社会構造の変化という歴史的要因が見出される。

    ① 科学技術の進歩、教育の普及、情報伝達手段の発達などにより社会が専門分化していくことで、個々人が所有し得る知識は断片的部分的なものにならざるを得なくなり、誰も自らの知識のみを頼りにして全体的な世界像を構築することができなくなる。こうして、自立的な判断力や批判精神が衰弱していく。

    「知的覚知の衰弱、これがここにあらわれているのである。知性の認識しうる事物について可能なかぎり正確に、客観的に考え、その考えじたいを批判的に検証しようとする意欲、これが弱まったのである。思考能力のくもりが、あまたの精神をぶあつくおおってしまっている。論理のはたらき、美意識のそれ、感情のそれ、こういった精神の諸機能間の境界は、故意に無視される。理性による批判的否定もみられぬままに、いやそんなことは承知の上で、判断記述のなかに感情がまぜられる。判断対象の種別など、いっさいおかまいなしだ。人びとは直観を肯定する。実はこれは、感情を基礎とする意図的な選択でしかないのに。利害関心と欲望の命令でしかないものを、認識にもとづく確信と混同する。そして、こういったやりくちを正当化しようと、理性の支配に対する抵抗の必要をうんぬんする、実は、それは、論理という原則そのものの放棄だというのに」(p76-77)。

    また、膨大かつ多様な商品が生産され提供されることによって、かつては能動的な文化創造を担っていた個々人の活動が、受動的、傍観者的な消費行動へと頽落してしまう。

    ② このように、断片化した理性は「存在」の全体性を把握することが不可能となる。つまり、理性による概念的把握によっては「存在」そのものに到達することはできない、と考えられるようになる。そのため、非合理的、超理性的なしかたで「存在」との直接的な結合を果たそうとする。ここに、「存在」を理性よりも上位に置く思想が生まれることになる。

    そもそも理性の働きとは、諸個物の差異のうちに同一性を抽象しそれらを概念として束ねて普遍を作り出すことであり(そして真偽とは、或る個物が或る普遍に属するか否かの標識である)、また、諸個物相互の比較を可能にする共通の基準を作り出すことでもある。とするならば、抽象性、真理概念、比較可能性は理性の働きによってはじめて成立することになる。よって、「存在」に対する理性の無力を唱える思想のもとでは、「存在」は常に個別的であり抽象化普遍化不可能であり、「存在」に対する真理概念の適用は無効化される(つまりこの思想のもとで真理と呼ばれるものがあるとしても、それは理性とは全く無関係な代物である)。さらに、「存在」に関する一切の価値が共約不可能性のうちに投げ出され、他の諸価値を吊り支えるなにか特権的な価値といったものは不可能となる。

    「真理とは、それを真理であると公言する人びとにとってなんらかの本質的価値をもつところのものである。真理とは、なにか特定の時代にとって有効なものであり、そのかぎりのものである。[略]。このようにいわば相対主義にまで堕してしまった真理概念からひきだされるさまざまな結論には、なにか精神的、道徳的平等主義といったようなものの介在が感じられるのである。さまざまな理念間の等級づけ、価値による区別といったことはいっさいかえりみられないのだ」(p92)。

    ③ こうして、普遍的で超越的な形而上的価値は成立不可能となる。ここから導き出されるのは、理性による一切の価値判断の放棄、つまり価値相対主義であり、それはついにはニヒリズムへと到り着くだろう。このような徹底的な相対主義からは、次の二点が帰着する。

    第一に、こうした価値の相対性が、逆説的にも、所有と支配という即物的な(無)価値の特権化を導くことになる。則ち、一切の価値基準が無効化されるならば、生命の本能としての「力への意志」が絶対化されるしかない、と。

    「それにしても、いったい、一般的な志向の契機としてなにが残るというのか、現世を越え、死を越えた救いをめざす超越的信仰をしりぞけ、真理を求める思考をしりぞけ、正義と愛とをふくむ諸価値の体系として認識された人間の倫理をしりぞけたそのあとに。答えはつねに同じである、ただ生それじたいのみが残る、盲目の、不可知の生が、対象であり、同時に尺度である生が。新しい視点、生の哲学は、精神の基盤の全的放棄へと帰結する」(p124)。

    「こんにち指導権をとりたがっている文化は、たんに理性をみすてるのみではない、知的なるものそのものをすてようとするのである。理性より劣るもの、衝動と本能のためをはかって。意志が選択される。[略]、地上の権力へとむかう意志である。「知識と精神」への意志ではない、「存在」への意志、「血と土」への意志である」(p94-95)。

    第二に、諸価値の共約不可能性という状況にあって、いかなる価値も他の諸価値に対して超越的な位置に立つという特権性を正当化できなくなり、こうして同一平面上に並列化された諸価値が、理性に基づく議論や弁証法的発展とは全く異なる、ただ相手の否定を目的とする永遠の闘争状態に陥る。これがヴェーバーの所謂「価値の多神教的状況」「神々の闘争」という事態である。

    「今日の世界は、絶対の倫理規範は、これを否認するという方向にむかってつきすすんでいる。善と悪とを、確信をもって区別することをしないのだ。この世界の遭遇している危機は、すべてこれをあい対立する諸傾向の争い、たがいに敵同士の権力闘争のあらわれとみようとするのである」(p205)。

    ④ このようにして、主知主義から主意主義への精神史上の転換が惹き起こされる。「理性/意志」の対立は、「主知主義的・理性的な熟議/主意主義的・暴力的な決断」「合理性/非合理性」「納得/陶酔」「逡巡/突破」「媒介性/直接性」「再現前/現前」「自他分離/自他融合」「代議制/独裁制」の対立であり、ホイジンガが問題視する「生の哲学」の潮流においては、人びとは前者の価値を否定し後者に魅せられていく傾向にある。こうして、代議制に倦んだ果てに、代議制を超越した絶対的権威による強権的な支配体制、則ちファシズムを招来してしまう。

    「ヒロイックなるものへと精神をかりたてる衝動は、知識と理解とをすて、生の直接の経験を志向する、まさしく文化の危機の核心と呼んでしかるべきあの大掛かりな精神の転回現象を示す、もっともはっきりした徴候である。行為を行為それじたいとして礼讃すること、意志に強烈な刺戟を与えて批判的判断力を麻痺させること、美しいあやかしを仕掛けて理念をぼやかすこと、新たな英雄礼拝において展開されているのは、まさにこれである」(p147-148)。

    なお、マルクスも『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』において、「決まり文句の権力に対する文句抜きの暴力の勝利」という言葉を残している。

    □ 個別の文化事象における危機の徴候

    続いてホイジンガは、現代文化の危機の核心、則ち「形而上的価値の無化」とそこから帰結する「即物的無価値の絶対化」「神々の闘争」という徴候を、具体的な学問や芸術のうちに見出していく。

    ① マルクスの唯物史観においては、倫理規範などの精神的なものは上部構造に属するとされ、それらは経済的な下部構造によって規定されることになる。則ち、精神的なものが物質に還元されてしまう。ここでは、倫理や道徳や宗教といったものは、階級闘争に対する有用性という政治的尺度によって計られることになる。ここで起きているのは「形而上的価値の物質化・政治化」とでもいうべき事態である。また、フロイトの精神分析においては、倫理観や宗教や芸術を含めたあらゆる精神活動は無意識下のリビドーの働きに還元される。ここで起きているのは「形而上的価値の自然化」とでもいうべき事態である。このように、マルクスとフロイトの思想は、従来形而上的であると考えられてきた観念を形而下へと引きずりおろしてしまう。ここにおいて、この両思想がキリスト教的伝統に連なる古典的な西欧知識人に与えた反キリスト的衝撃の意味合いが、理解される。現代の自然主義哲学に対する反感のうちにも、形而上的なるものへの郷愁とでも呼ぶべきものがあるのかもしれない。

    ② シュミットの「政治的なるもの」概念や「友敵理論」、マイネッケの「国家理性」概念によく表れているように、国家こそは、最も典型的な「力への意志」の主体である。彼らの理論においては、国家は、一切の形而上的価値の外部に置かれ、いかなる道徳律や倫理規範からも自立した絶対的な主体である、とみなされる。国家は善悪の彼岸にある。国家が服従するのは、ただ自己保存(自己利益の増大と敵の殲滅)の意志のみである。諸国家を超越的に統御する価値基準はなく、諸国家同士は同一平面上で永遠に闘争を繰り返すだけである。これは、理性を放棄し「力への意志」を絶対化した思想の極北であるともいえる。

    ③ 現代芸術は、理性による概念的把握によっては「存在」そのものへ到達することは不可能である、という断念から出発する。よって、20世紀初頭のアヴァンギャルド芸術は、反理性、反概念、反言語、反意味、反ロゴスへの志向をもつ。ホイジンガはアヴァンギャルド芸術の諸潮流を一括してその反理性の傾向を批判するが、しかし、その批判は果たして妥当だろうか。たとえば、ダダとシュルレアリスムについて。シュルレアリスムは反ロゴスを実体化してそれを志向するが、ダダは反ロゴスを志向しながらもそれを貫徹することの不可能性に自覚的だったように思われる。こうしたダダのアイロニカルな構えを考えると、ダダを「生の哲学」の派生形態であるとみなすことはできないのではないか。

    ④ ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』において、人間文化の根底に「あそび」の要素を見出したことで知られている。ここで、「あそび」とは、形而下的な現実に従属することのない虚構の領域における行動様式のこと。つまり、「あそび」が行われる虚構の領域というのは、形而上的な精神性に裏打ちされた、いわば精神の解放区のこと。ところがホイジンガによると、現代文化においては、「あそび」の中にも形而下的な論理がもちこまれることで、虚構の精神性が侵害されてしまう。つまりここでも、現実に対する虚構の形而上的な自立性が形而下へと引きずりおろされる、という現象が起きていることになる。

    □ 「現代思想」以後から見て

    ファシズムに向かう文化状況に対抗してホイジンガが主張するのは、理性への回帰であり、形而上的価値の復権である。このように西欧的価値を擁護する態度というのは、西欧の文脈においては、文化保守の典型例である。

    こうした文化保守に対して、第二次大戦後に展開された「現代思想」というのは、西欧形而上学に依拠することなしに、そして従来「生の哲学」に属する思想家としてファシズムの先駆者とみなされてきたニーチェの読み替えを通して、ファシズムを批判することが可能であることを示そうとする試みであったといえる。そして「現代思想」は、「当の西欧形而上学のうちにこそファシズムを導く暴力性が内在している」、「啓蒙的理性が野蛮に転化する」、という逆説的な議論を展開していくことになる(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』)。

    この意味では、西欧形而上学を復権させることでファシズムに対抗しようとするホイジンガの議論は、「現代思想」を経たいまとなっては、やはりナイーヴなものと映ってしまう。

    □ いかに個人は簡単にファッショ化してしまうか

    ではいまなお本書を読む意味とはなにか。本書はファシズム批判の書として読まれている。ファシズムときけば、悪魔的な独裁者と機械的な官僚たちと狂信的な大衆という構図を思い浮かべがちであるが、そうした見方では、ファシズムという事象を自分自身の実生活から切り離していわば切断処理してしまっており、その問題性を内在的に直視するのを避けてしまっている。ファッショ的な人間は、決して大文字の政治の世界に限られた存在なのではなく、職場や地域や家庭など身近なところに伏在し遍在している。

    いま問われるべきは、いかに個人が簡単にファッショ化してしまうか、ということではないか。騙される大衆の側ではなくて、ファッショ化してしまう普通の個人の側に、焦点を当てなければならないのではないか。戦後、天皇制を根本的に批判できないまま今日まで来てしまった日本社会には、小天皇とよぶべき者たちがいたるところに蔓延っている。小天皇たる彼ら彼女らにおいては、理性が意志と感情と欲望とに取って代わり、その意志が欲するならば形式的な法秩序(例えば適正手続の原則)、正義と公正の原則、人間の複数性などを侵害することも正当化されてしまう。先に引用した箇所(p76-77)は、そうしたファッショ化した個人という、いまやありふれた人間の姿を描いたものであるようにも読める。

    ここでの意志とは、所有と支配を求める即物的な欲望であり、それを貫徹するために暴力(テロル)と虚偽(イデオロギー)が利用されるだろう。小天皇は、自らの私益をさも公益であるかのごとく僭称し、配下の者たちに対してこの欺瞞がさも真実であると信じているかのごとく振舞うように強要し、私益への奉仕に集団を動員しようとする。そこでは個人を集団に一体化して動員することで大きな力を惹き出すことが図られるのだが、奉仕の動機付けは暴力に対する恐怖であることが多く、個人の内面に根差したものではない。以下の引用に見られるように、ファッショ化した個人が支配する集団においては、責任の集団化が個人の無責任化を惹き起こす。これもありふれた現象だろう。

    「責任の観念は、[略]、個人の意識のうちにこそ求められるべきその基盤から引きはなされ、集団の利益のために、その視野のせまい考えを救済の放棄とまで持ちあげたがり、これを押しひろめようと図る集団の利益のために動員される。およそ集団の結びつきにあっては、個人の責任という観念は、個人の判断ともども、そのなにほどかの部分を、グループということばのうちに失うのである。疑いもなく、今日の世界にあっては、すべての人がすべてのことに対して責任があるという感情が高まっている。だが、それと同時に、また、極度に無責任な大衆行動の危険が、異常なまでに増大してもいるのである」(p186)。

    このように、本書は、身のまわりにある、そして自分自身が既に加担しているかもしれない、いまやありふれたファシズムに気づかせてくれる。

    • transcendentalさん
      りまのさん
      コメントありがとうございます。

      『朝の影のなかに』は、とある本のなかでファシズム批判の参考書として挙げられていて、分量も...
      りまのさん
      コメントありがとうございます。

      『朝の影のなかに』は、とある本のなかでファシズム批判の参考書として挙げられていて、分量も200ページ程度だったので、多少は読みやすいのかなと思って手に取ったのですが、内容が濃密でかつ多岐にわたっており読むのに大変難儀しました・・。
      2021/02/14
    • りまのさん
      もう一度レビューを読み返してみます。ゆっくり理解します。
      もう一度レビューを読み返してみます。ゆっくり理解します。
      2021/02/14
    • transcendentalさん
      もちろん上の文章も、うまくかみ砕けていなかったり論理の飛躍があったりと、我ながら決してきれいにまとめられているわけではありませんので・・。わ...
      もちろん上の文章も、うまくかみ砕けていなかったり論理の飛躍があったりと、我ながら決してきれいにまとめられているわけではありませんので・・。わかりにくくてすみません・・。
      2021/02/14
  • 2009/12/24八勝堂書店で購入:300円
    2009/

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著者プロフィール

一八七二年、オランダに生まれる。一九〇五年、フローニンゲン大学教授。一九一五年、ライデン大学外国史・歴史地理学教授。古代インド学で学位を得たが、のちにヨーロッパ中世史に転じ、一九一九年に『中世の秋』を発表し、大きな反響を呼ぶ。ライデン大学学長をも務める。主な著書に『エラスムス』『朝の影のなかに』『ホモ・ルーデンス』など。一九四五年、死去。

「2019年 『ホモ・ルーデンス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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