空海の風景 (下巻) (中公文庫 し 6-33)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (417ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122020771

作品紹介・あらすじ

大陸文明と日本文明の結びつきを達成した空海は、哲学宗教文学教育、医療施薬から土木灌漑建築まで、八面六臀の活躍を続ける。その死の秘密をもふくめて描く完結篇。昭和五十年度芸術院恩賜賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • この時代の中国のおおらかさは、清々しい。
    現代の方が閉ざされてる感じすらする。

    長安には、色々な国の人、宗教、文化が入り混じり、新しい発見であふれており、色々な書物も中国語に翻訳されていく。

    そして密教に至っては空海に三種の神器的なものまで継承しちゃう。おおらかすぎる。

    そして20年の留学を3年で帰ってきた空海が、また凄い。新しい仏教を持ち帰ったのだから、鼻高々、京に入るのかと思いきや、インドで別々の発展を遂げた2つの密教を一つの体系の中に理論化してしまう。

    これは今の日本経済にも通じるように思う。真新しいものを生み出すのは苦手だが、新しものを組み合わせて、あるいは進化させて発展してきた日本経済とそっくり。

    仏教でも日本人の特性が、空海にもあるのだなぁ、と感心した。

    さて最澄とのやり取りになると、急に人間的な空海が垣間見える。イライラしていて、前半の神秘的で権力なんて超越した感じが薄らいで、親近感。

    特に泰範の件では、空海、最澄という卓越した存在の中に、愛に翻弄される空気が、ゴシップ的な面白さがあった。

    空海の死は、即身成仏を体現し、密教の言葉では伝えられない、師からのみ教えは伝えられるという考え方が千年以上続いている凄みを感じた。

    カリスマなんて言葉が霞む。

    密教と顕教、仏の世界は奥深い。

  • 「空海の風景(下)」司馬遼太郎著、中公文庫、1994.03.10(改版)
    417p ¥780 C1193 (2024.02.18読了)(1999.11.26購入)(2002.01.30/15刷)
    この巻では、最澄が結構出てくるので、インターネットに掲載されている説明を如何に拝借しておきます。
    ◆さいちょう【最澄】
    (767〜822)平安時代初期しょきの僧そう。日本の天台宗てんだいしゅうの開祖かいそ。近江おうみ国(滋賀しが県)に生まれ,父は中国からの渡来とらい人の子孫しそん。19歳さいのときに東大寺とうだいじで正式の僧そうとなったが,当時の仏教ぶっきょうのあり方に不満ふまんをいだき,故郷こきょうに帰って比叡山寺ひえいざんじ(のちの延暦寺えんりゃくじ)をたてて12年の間,1人で修行しゅぎょうした。さらに深く仏教ぶっきょうを学ぶため,804年に遣唐使けんとうしにしたがって唐とう(中国)にわたり,天台宗しゅうの教えを受けて,翌年よくねん帰国。桓武天皇かんむてんのう*の保護ほごを受けて,新しい宗派しゅうはをおこした。◇死後,朝廷ちょうていから伝教大師でんぎょうだいしとおくり名された。

    【目次】
    十六~三十
    あとがき
    解説  大岡信

    ☆関連図書(既読)
    「空海の風景(上)」司馬遼太郎著、中公文庫、1994.03.10
    「空海の思想について」梅原猛著、講談社学術文庫、1980.01.10
    「司馬遼太郎の風景(1)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1997.10.25
    「司馬遼太郎の風景(2)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.01.25
    「司馬遼太郎の風景(3)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.04.25
    「司馬遼太郎の風景(4)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.07.25
    「司馬遼太郎の風景(5)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.12.25
    「司馬遼太郎の風景(6)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.03.25
    「司馬遼太郎の風景(7)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.05.25
    「司馬遼太郎の風景(8)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.07.25
    「司馬遼太郎の風景(9)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.11.25
    「司馬遼太郎の風景(10)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、2000.07.30
    「司馬遼太郎の風景(11)」街道を行くプロジェクト、 日本放送出版協会、2000.09.30
    (「BOOK」データベースより)
    大陸文明と日本文明の結びつきを達成した空海は、哲学宗教文学教育、医療施薬から土木灌漑建築まで、八面六臀の活躍を続ける。その死の秘密をもふくめて描く完結篇。昭和五十年度芸術院恩賜賞受賞。

  • 空海の話だけではなく最澄との関わりとかへえ〜と思いながら読み進んだ。お二人とも歴史に名を残すだけあってクセのある方だったようで。物語の形式ではないので、ドラマティックな描写とか省かれていたため読みやすかった。

  • 「空海 高野山 真言宗」
    雲の上の存在の立派なお大師さま、というだけのイメージでしたが、たくましくしたたかに生きる人間味あふれる姿に親しみがわきます。

    今中国語を勉強している私としては、唐に渡る前から中国語が堪能だった空海にあこがれます。
    この時代世界一の都であったろう唐の長安に留学して街を見て学んだ空海はどんなにワクワク興奮したことでしょう。

    西安、高野山、行きたいな。

  • 空海の生涯を数多くの文献と司馬遼太郎の考察により紐解いていきます。小説と考察文の中間のような書物です。そして上下巻読んで思うのは空海ほど天才という言葉が似合う人はいないのではないかということです。10代で儒教、道教、仏教を比較して仏教の優位性を説いたり(しかも戯曲という形で)、遣唐使として唐に渡れば、現地の中国人よりも漢詩が上手く中国人の尊敬を集めたり、唐に渡って半年で梵語をマスターしたり、帰国後は氾濫を防ぐための大きな溜池の土木工事をしたり(現在も香川県で使われている)と1つ成し遂げただけでも凄いのに、そういうエピソードが多岐に渡ります。そして1番凄いのは、勿論真言宗という密教の宗派を開いたこと。密教の正統な後継者として唐の高僧に伝授してもらうだけでも奇跡的なのに、さらにそこに空海の独自の思想を反映させ、新しい宗派を確立させるのは常人にはできない偉業としかいえないと本を読んで思いました。

  • 正に「巨人」。かつて日本に「個」の力のみで世界に通用した人物いたと言うことに心から感動した。

  • 本書には「この稿はこまかい詮索を目的とせず、ただ空海という千年以上前の人間を、ほんの片鱗でもあるいは瞬間でも筆者において目撃してみたいということだけが目的」と書かれている。なんだそうだったのか。本書は「小説」ではなかったのだ。それならば最初から、「NHKスペシャル」のようなドキュメンタリー番組で表現した方がよかったのではないか。

    空海の経歴には、山林修行で『虚空像求聞持法』をマスターしたとか、口から星が入ってきたとか、唐に渡った時点で唐音が完璧だったとか、恵果に逢うやいなや直ちに密教の正統継承者となったとか、普通の伝記的なアプローチでは理解しがたいエピソードが多い。それを"天才"の一言で片付けるのであれば、「小説」の存在意義はない。あるいは膨大な史料の突き合わせで解決しようとしても、それこそ説得力がないのである。

    ここでたとえば空海が、前世である不空三蔵の記憶をもっていたとしたら?こう書けば、著者には「物事を冷厳に認識する人でなく」、「興に乗ってみだりなことを書く」と斬り捨てられてしまうのだろう。だがその基準はどこにあるのか?もちろん著者の中にしかない。

    著者は「~という想像はゆるされるかもしれない」などと書く。誰が許すのか?その基準は著者の中にしかない。また許されなかったらどうなるというのだ?さんざん自分の妄想で頁を埋めておきながら、厳密に検証作業をすすめました的な小賢しさが気に入らない。「あとがき」までそんな調子なのである。もう言い訳はよせ!と言いたくなってしまった。残念ながら、著者に対する俺の評価は低い。

    もし「小説」を志すなら、まず自分の想像にすぎない空海を自由に表現する旨を宣言した上で、潔くそれに対する責任をとってほしい(言い訳は聞きたくない)。

    四国遍路に出発する前に読了できたので、唯一そこだけは満足である。

  • 空海が真言宗開祖として各プレイヤー(朝廷、貴族、他派仏教)を御しつつ宗派の礎を巧みに築くあたりは面白かった。僧という武力を用いない勢力間が鎬を削るわけで当然に清々しくはなく社内政治が如くで妙に刺さる部分があった(司馬遼太郎の題材では少数派だろう)。ただ全体を通して仏教、密教と言った話が多く、また自分には難しかった。恥ずかしながら相当な部分を読み飛ばした。

  • 中国関係の積読を先に片づけていたので、上巻から少し間が空いてしまいました。
    下巻ももちろん司馬遼太郎節。小説というより、司馬遼太郎による空海講釈。
    下巻の中心は、長安から帰り、日本に真言密教を伝える空海。中でも、比叡山の最澄との交流。っていうか、対決。対立。歴史の授業では、天台宗の最澄と真言宗の空海とセットで覚えさせられるけど、そう一筋縄にはいかない。
    あとがき読んだら、高野山にも行きたくなった。まずは高雄山かな。

  • 上巻に続き一気に読みました。下巻では真言宗の創立と最澄との交流が中心的に書かれています。書かれている内容自体、当事者たちからするとタブー的なこともあるかもしれませんが、そこは司馬遼太郎氏の立場から、かなり自由奔放に思いのまま書かれていて好感が持てました。個人的には本書を読んで、まだ行ったことがない高野山および本書に登場する各種寺院を巡ってみたいという気持ちが強くなりました。とても面白かったです。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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