魯山人味道 (中公文庫 き 7-3)

制作 : 平野 雅章 
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (394ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122023468

感想・レビュー・書評

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  • 読んでて美味い魯山人の食エッセー。
    山椒魚の料理法が書いてあるとは思いもしなかった。
    ~目次~
    お茶漬けの味/くちこ/すき焼きと鴨料理――洋食雑感――
    てんぷらの茶漬け/三州仕立て小蕪汁/味を知るもの鮮し
    味覚の美と芸術の美/塩鮭・塩鱒の茶漬け/夏日小味
    家庭料理の話/小ざかな干物の味/山椒魚/序に代えて
    持ち味を生かす/数の子は音を食うもの/料理する心
    料理の妙味/料理の秘訣/料理は道理を料るもの/料理も創作である
    料理一夕話/日本料理の要点――新雇いの料理人を前にして――
    昆布とろ/昆布とろの吸い物/明石鯛に優る朝鮮の鯛
    東京で自慢の鮑/洗いづくりの世界/洗いづくりの美味さ
    洛北深泥池の蓴菜/海にふぐ山にわらび/海苔の茶漬け/猪の味
    琥珀揚げ/生き烏賊白味噌漬け/田螺/知らずや肝の美味
    筍の美味さは第一席/納豆の茶漬け/美食と人生/美食多産期の腹構え
    若狭春鯖のなれずし/若鮎の気品を食う/茶碗蒸し/蝦蟇を食べた話
    西園寺公の食道楽/道は次第に狭し/食器は料理のきもの
    鮎ははらわた/鮎を食う/鮑の水貝

  • 目が洗われるような文章。

  • 様々な分野で業績を残した天才か、あるいは偏狭な美意識にこだわり抜いて孤独な晩年を送った変人か。読む者にとって魯山人がどちらに映るかは人それぞれであろうが、ともあれ強烈な個性の持ち主であることは間違いない。料理でも材料でも、また花々の美しさを取ってみても、みな日本が一番優れているのだ、という主張にはいささか同意しかねるが、自分の家で喰う食事以外は美味いと思わなくなってしまって、どこに行っても楽しめない、などという話を読むと「なるほどなぁ…」と同情してやりたくなるような気にもなる。

  •  魯山人っていうヒトは、嫌になっちゃう程凄い人だ。食の達人にして天才陶芸家であり、読めばわかるけれど、名文家でもある。しかも格調高くかつ達意の美文である。
     ブックファーストの銀座店は、うろついていると読みたくなる本が必ず見つかる店なのだが、そこで表紙の絵が目に留まった。
     西瓜や色とりどりのぶどうが籠に入れられていて、脇を悠々とコオロギが歩いている。惚れ惚れ見入ってまった。大きく『魯山人味道』と書名が朱記されている。魯山人は画人としても超一流の才能の持ち主なのであろう。凄すぎてため息が出てしまう。

     食、陶、文、画と共通するのはやはり「美」だ。美味いと書いて「うまい」と読むごとく美食は卓越した美意識の舌による表現といえる。その美食の「用の美」こそ器であろう。とことん突き詰められ、かつ論理的に再構成された美意識は、そのまま文にすれば達人の奥義が、読む凡人の頭にもスルスルと入って行く達意の美文となる。本書を一読すればそのことが直ぐ解かる。勿論画筆を執れば美しいものがそのまま見るものに伝わる絵となる。

     そういうため息が出るような凄い人が、ふぐの味だけは全くわからないといっている。読んでいる私は救われた気になった。魯山人は、「最高の美食はまったく味が分からぬ」といい、だが「やはり不思議な魅力をもっている」とふぐを勿論礼賛しているのである。

     凡人の私は、長らく(あるいは今でも)ふぐの味はどこが美味いのかさっぱりわからん、と思っている。だがなぜか食いたいと思うことがある。不思議である。
     新米営業マンだった頃、役員クラスの人事部長や財務部長が相手の接待で、銀座のふぐ料理屋を何度か使った。こちら側は常務か専務がメインホストで、店の手配やら案内状を作ったりの下働き役は当然担当の私の役回りだった。
     若い頃の私がふぐを食べられるのはそんな場面でだけであった。本邦有数のエグゼクティブを目の前に、脇には社長から数えて序列ナンバー3の専務とかがいて、
     「君、ふぐはね、こうして箸で一度に沢山つまんでね、がばと食う、これだよ」
     などと言われちゃう。でも序列3千何番目かの平社員が、一緒の大皿から遠慮なくとって食えるはずもなく、食べていなくはないですよ程度の食べ方しかできはしなかった。当然、味は全く感じられなかった。
     でも、その後同じ店で何度も昼のランチを食べた。偶然お昼に通りかかってお手ごろプライスのお昼のふぐ雑炊コースがあるのを発見したからだ。初めて試したとき、小さなふぐ刺しも付いていて感激した。感激はしたけれど、やっぱり美味いのかどうか分かった気はしなかった。それでも何度か足を運んだのは、女将が接待係だった私をしっかり覚えていて「先日はありがとうございます。今日はお一人ですか」とか「次は、彼女とご一緒に」とか言ってくれたり、小鉢のサービスをつけてくれたりしたからだったかもしれない。さすがに老舗の女将は違うと勉強してしまった。
     そんなことがあって、「ふぐ食べた暦」だけは年数と回数を重ねた私なのだが、ふぐの本当の旨さとは何なのか未だにさっぱり分かっていない。だのにやっぱり高いのに食べてしまう。これが魯山人のいう「最高の美食はまったく味が分からぬ」なのだなと今回初めて得心がいった。

     もうひとつ、同じ頃の恥ずかしい思い出。
     銀座に「久兵衛」という寿司の名店がある。当時久兵衛は私の顧客で、だからということで営業部の忘年会をそこで開いた。たしか1人2万3千円のところを特別に1万8千円に割引してはくれた。それでもかなり高額な、つまりは超高級店だ。店主が「いつもお世話になってます」と宴席まで挨拶に来てくれた。挨拶のお返しとお世辞のつもりで私はいった。
     「こちらは魯山人の器を使っておられるという噂ですが、それはどれでしょうか」
     店主、目じりがむっとしながら口は穏やかに、
     「ここにお出ししているもの全部です」
     大皿から醤油さし、豆皿、箸置きに至るまで全てが、壊したらおお事な魯山人の作品であったのだ。
     若気の至りの冷や汗エピソードではあるが、今改めて思い起こすと、あれも「用の美」に徹した魯山人の器の、極めて正しい使われ方だったのだな、としみじみ思う。

     こういうことが「分かる」ようになるのにざっと20年、かかった。

  • 五感にかかわる事柄に執着して研鑽していくと、不幸になるのではないか。磨くほどに不感症になり、本物にしか心躍らなくなるでしょ。本物はめったにないのが世の常なので、悶々とする時間の方が長くなる。五感にこだわるのはほどほどがいいでしょう、という結構大切な指針が得られた。
    あと料理とバイオの実験は全部のステップに理屈があり、理解せずに適当にやってると必ず結果に反映されるし、全く一緒だなと気づく。

  • 感想も言えないような読書もある。だから抜粋。俺はひどい貧乏人の家に何べんも何べんもやられてね。お父さんやお母さんが何人いるかわかりません。兄弟なし。叔父叔母も血縁も何もなしにこの年まで来ちゃった。愛情。そんなものあるのかなくらいのもので大きくなったのです。空腹に耐え骨身を削って精進した長き不遇時代。遅咲きの天才美食陶芸家。腹がへってもひもじゅうない。と言うようなものには食わせなくてもよい。腹がいっぱいでもまだ食いたい。と言うようなやつにも食わせなくてもよい。

著者プロフィール

北大路魯山人 (きたおおじ ろさんじん)
料理研究家・陶芸家・書家=本名房次郎。1883(明治16)年、京都・上賀茂神社の社家の次男として生まれる。1904(明治37)年、日本美術展覧会の千字文の書で一等を受賞。その後、篆刻、陶芸に手を染める。19年には古美術商を営むかたわら、会員制の「美食倶楽部」を発足させる。25年には東京麹町に、当時のセレブを対象にした日本料理の料亭、星岡茶寮を創設、顧問兼料理長に就任。26年、北鎌倉の山崎に窯を築き、星岡窯と称した。料理と陶磁器と書に鬼才を発揮、新境地を開いた。美食に人生をかけ、美的生活に耽溺した。1959(昭和34)年12月21日、好物のタニシのジストマによる肝硬変で死去。

「2020年 『魯山人の和食力』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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