文章読本 改版 (中公文庫 ま 17-9)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (395ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122024663

作品紹介・あらすじ

当代の最適任者が、多彩な名文を実例に引きながら、豊かな蓄積と深い洞察によって文章の本質を明らかにし、作文のコツを具体的に説く。最も正統的で最も実際的な文章読本。

感想・レビュー・書評

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  • 文章読本〔改版〕
    著:丸谷 才一
    中公文庫

    文書読本なるものは複数あり、
    昭和9年 谷崎潤一郎
    昭和25年 川端康成
    昭和34年 三島由紀夫
    昭和50年 中村真一郎
    昭和55年 丸谷才一である

    明治以来口語文となってきたこと、極端な欧文調の文章を書くな、日本の文章は、日本古来の調子をうまくいかしたほうがいい、ということを冒頭で伝えている
    文章の型が大事といっている人である

    気になったのは、以下です

    ・自分が読んで感心すればそれが名文であり、自分がつまらないと思ったものは、駄文である

    ・筆者のいわんとするところが、読者の頭にすっきりとよくはいる
    ・イメージがいちいちくっきりと浮かぶ
    ・言葉の選び方が常に適切である

    ・思ったとおりに書け、とはいったが、大変な心ちがいをしている。文章は、文章の型にのっとって書くものである
    ・当たり前の話だが、文章の型を学び、身につけ、その型に合わせて思うこと
    ・現代は伝統を学ぶ気風が薄れ、かたちを喜ぶ態度が軽んじられている時代なのである

    ・文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言わんとする内容をはっきりと読者に伝えて誤解の余地がないこと、あるいは極めて少ないことが文章には要求される
    ・個々の文がちゃんと内容を伝達し、互いに辻褄が合う仕掛けになっていることが要求される

    ・和漢混淆文の文字使いが日本語の文章の常道となった。
    ・漢字と仮名を遠慮会釈なくまぜるというこの方法は、わたしの言う意味での近代にすこぶるふさわしいものであった。
    ・合理的で機能的だからである。
    ・日本語が漢字に寄り添うようにして発達した以上、これがいちばん書きやすく、かつ読みやすいからである

    ・単語の選択のよしあしは、異をたてようとするな
     ①分かりやすい語を選ぶこと
     ②なるべく、昔から使い慣れた語を選ぶこと
     ③適当な語がない場合は、新語を当てること
     ④新語もない場合でも、造語をむやみに使わないこと
     ⑤難しい熟語よりも、耳慣れた外来語や俗語があれば、そちらを使うこと

    ・語彙を増やす目的で辞書を読むというのは、いわば、補助的な方法である、本筋は、優れた文章の中で生きている言葉とつきあっていくしかない

    ・緒論、本論、結論とのことがいわれているが、この通りに書かなくてよい

    ・文章を書くにあたっては、まず、書こうとする内容をしっかり、見すえなければならない。次の、その主題や色調にふさわしい文章の型を見つけなければならない

    ・流麗な美文をかかなくてもいいので、まことに淡々たる口調で静かに頭に訴える文章を書く

    目次
    第1章 小説家と日本語
    第2章 名文を読め
    第3章 ちょっと気取って書け
    第4章 達意といふこと
    第5章 新しい和漢混淆文
    第6章 言葉の綾
    第7章 言葉のゆかり
    第8章 イメージと論理
    第9章 文体とレトリック
    第10章 結構と脈絡
    第11章 目と耳と頭に訴へる
    第12章 現代文の条件
    主要引用文一覧
    わたしの表記法について
    解説 大野晋

    ISBN:9784122024663
    。出版社:中央公論新社
    。判型:文庫
    。ページ数:395ページ
    。定価:762円(本体)
    1980年09月10日初版発行
    1995年11月18日改版発行
    2015年06月25日改版11冊発行

  • 「多彩な名文を実例に引きながら、
    豊かな蓄積と深い洞察によって文章の本質を明らかにし、
    作文のコツを具体的に説く。」

    いまさらなんですが、これでも少しは勉強しようかと
    読んだからとて、教養は一朝一夕にいかず、才能は生まれつきにしかず

    第1章から第12章までのうち、いいなと思った章は

    第2章 名文を読め
    第3章 ちょっと気取って書け
    第5章 新しい和漢混淆文
    第9章 文体とレトリック

    少々乱暴にまとめると

    名作名文をたくさん読んで
    意気込みと勇気をもって
    今の日本語、漢字かなカタカナ混じりの、時々はローマ字もいれて
    言いまわしを選び、リズムをもって書くのだ

    つまり何はともかく、本をたくさん、たくさん読めってことで
    丸谷才一さんの『文章読本』はさながら高級な読書案内でもありましたよ

  • ちょっと小難しい本を読んでみる…と、思った以上に読了までに時間がかかってしまった。

    一番の理由はきちんと時間をとって読み進めようとする意図が足りていなかったこと。我が国においては元来文語と口語には明確な境界があったこと、それが言文一致体となり始めてからまださほどの時間が経過していないこと、しかしながらそのかつてあった文語はまず外国語のそれを輸入しただけの形であった頃から、時間をかけてより洗練された日本語文語として熟成されていった経緯を持つこと等々を様々な引用を用いながら滔々と説かれるとき、うすら眠い頭で読んだのではスキっと入ってこず、何度も読み返さざるを得なくなってしまうためだった。

    そもそもは自身が今までに触れた文語日本語の量が圧倒的に少ないことに起因するからであろうことは読んでいるうちに分かってくる。そしてそれと同時にとはいえこれからどうすればよいのだという絶望感にも襲われる。そんななか筆者はやわらかいことばで、わかりやすい言葉で、ときには励まし、ときには突き放し気味に、今後の精進を促してくれる。本作に引用された作品を全て踏破する器量は自分にはないであろうと思われるものの、折にふれて本作を読み返すことによりその疑似体験を経るところからまずは始めたい。

    さすが米原女史が惚れ込んだだけのことはある御方。すばらしい。

  •  本書を読むことが最上かつ最良の文章上達法と井上ひさし氏が言っておりました。心得的なことを書いてあるところが多いですが、名文は人によって違うのだからという姿勢は好きです。

     個人的には第四章の「達意ということ」がよかったですね。

    「しかし文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言わんとする内容をはっきりと読者に伝えて誤解の余地がないこと、あるいは極めて少ないことが、文章には要求される。何よりも先に要求される。文章に一番大事なことはこのことだから、わたしは野暮を承知で敢えて言わなければならない。」

     このことを手取りばやく示してくれる例として、現行憲法と明治憲法をあげています。そして次の一文もいい。曖昧性や多様性を必要としている文章はあるとしながらもこう述べます。

    「明晰な名文は極めて明るいレンズに似ている。われわれはその、くせのない、難しい言葉などちっともつかわない、なだらかな文章を読んで、文章の存在を忘れ、筆者の述べる内容だけを考え、いや、その内容もいま自分が考えていることのように感じ、そして心のどこかで、自分は頭がいいからこういうこと(筆者の意見)を考えたのだという錯覚をちらりと抱く。ちょうど上等のレンズを使ったメガネをかけて、視力がよいと思うようなものだ。透明度の高い、邪魔にならない文章なのである。」

  • 『考える力をつける本』の著者である轡田隆史氏の推薦書。
    轡田氏曰く「文章について読むべき一冊だけを挙げろといわれたら、ためらいなく『文章読本』を推す」と。
    そして、本書の中のこの一説を味わうことが書かれている。
    「人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない。」

  • 主張の骨子は奇をてらうようなものでもなく、後発の「文章読本」としてその視座を上手く活用しながら語り口がウィットに富む。参考書よりは読み物として。

  • 読み終わるのにだいぶ時間がかかってしまった。
    ざっと10日ほどか。

    引用される文章が面白い。
    他ではあまり見ないような文章も多い。
    尾崎一雄「虫のいろいろ」
    佐藤春夫「吾が回想する大杉栄」
    井伏鱒二「中込君の雀」
    坪井忠二「コケコッコー」
    このあたりは、引用だけでも面白い。
    そして、丸谷さんはあまり川端康成を買っていないのかとも思われる。
    (大野晋さんの解説で、川端康成の「文章読本」が代作だったいう情報があるのはありがたかった。)
    そんなところにばかり、最初は目が行ってしまう。

    が、だんだん、気になりだす。
    この本はどういう読者を想定しているのだろう?
    文章を書きたい人?
    それとも、深く読めるようになりたい人?
    そもそも「文章」って、どういう種類のものを想定しているのだろう?

    読んでいくうちに、何となく伝わったことがある。
    この本でいう「文章」は、実用文でも文学的文章でもどちらでも構わないということではないか?

    はじめに、書くべき内容がある。
    それがあって、それを伝えるために最もふさわしい文体、用語・用字法、文章構成を選び取るべきだ、という。
    「文は人なり」というような自然主義的な文章観はとらない。
    むしろ、気取って書くべきという。気取らないふうに気取るということさえしても。

    本書を読むと、丸谷さんの世代(大体今から100年前に生まれたあたり)では、現代語の文章や文体を確立させる格闘がまだ意識される時代だったのだとわかる。
    生活に根付いた漢語まで排斥する必要はないとか、そんな議論が出てくるような状況。
    じゃあ、今はどうなのか、という検証は必要なのかもしれないけれど。

  •  しかし文章上達の秘訣はただ一つしかない。あるいは、そのただ一つが要諦であって、他はことごとく枝葉末節にすぎない。当然わたしはまづ肝心の一事について論じようとする。
     とものものしく構へたあとで、秘訣とは何のことはない名文を読むことだと言へば、人は拍子抜けして、馬鹿にするなとつぶやくかもしれない。そんな迂遠な話では困ると嘆く向きもあらう。だがわたしは大まじめだし、迂遠であらうとなからうと、とにかくこれしか道はないのである。観念するしかない。作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに尽きる。事実、古来の名文家はみなさうすることによって文章に秀でたので、この場合、例外はまったくなかったとわたしは信じている。〈中略〉人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない。ある種の学者たちのやうに、せっせと名文とつきあっても書く文章がいっこうに冴えないのは、文章の伝統から学び取る態度が間違っているためなのである。

     ところで、名文であるか否かは何によって分かれるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められていようと、教科書に載っていやうと、君が詰らぬと思ったものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひっそり埋れている文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君自身の名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか・
     ただしここで大切なのは、広い範囲にわたって多読し、多様な名文を発見してそれにし親しむことである。これは、わたしのすすめた、君自身と名文との激烈ではあっても独断的な関係がともすればもたらしがちな弊を補ふのに、ずいぶん役立つだらう。

     この透明度の高さ、ほとんど異常なほどの高さのせいで、林の言はんとすることはわれわれに完全に伝達されるのだが、ここで重要なのは、人間の精神は普遍的なものだといふ確信があるからこのやうな文章が成立つといふ事情である。彼は自分の思考の構造とリズムを尊重して、それに寄り添ひながら、あるいはそれをいっそう鮮明なものにしながら文章を書く。それゆえわれわれ読者はそれを自分の思考の構造とリズムにぴったり合ふと感じるのである。さらにはまるで自分で考へたかのやうに思ふのである。彼の文章が快くて論理的なのは、まづこのことに由来するだらう。

     かつて河上徹太郎は、文藝評論の書き方のコツとして、単一の主題をではなく二つの主題を衝突させながら書くことをあげていた。これは長い体験に裏づけられた貴重な教訓だが、単に文藝評論だけではなく、もっと広く、文章一般の心得としても正しい。いったい文章といふものは、判断や意見を相手に伝へ(伝達)、あはよくばそれを信じさせる(説得)ために書かれる。その際、判断や意見の中核部はあまり単純すぎてはいけない。現実の多様性や複雑さにある程度は応ずるだけの質のものでないと、相手はすっかり拍子抜けして馬鹿ばかしくなり、読み流したり、読みつづけるのをよしたりしてしまふからだ。かうなっては、伝達も説得あったものではない。
     これは別の言葉でいへば、主題が単なる独白的な構造のものでは文章の内容が薄くなる、文章の中身は対話的なものであることが望ましい、といふことである。つまり文章には弁証法的な性格が必要だといふわけだが、このことは日本人にはどうも不得手なやうな気がする。

     彼は疑り深い相手を想定し、これと語り合ひ、説き伏せるといふかたちで、実は自分自身の内心の対話を細密に披露し、自分の思考の過程をおだやかにたどる。その語り口には、自分に長いあひだかかって観察し感じ取ったものについて、じっくりと考へたあげくの結論を述べる人間の、豊かな自信がある。わたしははじめてこの一文に接したとき、論理的に語ることによってしみじみと心に訴えるといふ文章の理想が、一美術評論家の手でなんの苦もなく実現されているのを見て、大きな衝撃を受けたのであった。

     われわれが失った最大のものは、古典主義とでも名づけるしかない何かで、これはおよそのところ伝統性と趣味性によって成立つと言ってよい。この伝統性と趣味性は文章によって極めて重要である。過去から伝はってきた遺産であり、選び抜かれ使ひ込まれた道具であるもの、つまりレトリックをしりぞけて、現在の言葉だけで語らうとするとき、われわれの世界はたちまち浅くなり、衰へるからだ。そしてこの一世紀の日本は、伝統の否定をはなはだ大がかりに実験したのである。それはほとんど、世界に冠たるくらいの新しがり方だったらう。しかも具合の悪いことに、ものを語り、ものを書くに当って、型なしですませることなど、実は不可能なのだ。これは当たり前の話で、いつも自分自身の力で当意即妙に表現を思ひつくなんて、そんな器用な人間などいるはずがない。(文学者が新しい表現に成功するといふのは、伝統的な表現をほんのすこし改める作業のことで、彼はそのためには膨大な努力を持続的におこなはなければならない。)われわれの言語生活とは借用の連続なのである。そこで型の排撃とは、何のことはない、今出来の粗悪な型で我慢することの謂(いひ)にほかならなかった。

     石川がここで語っているのは、書くに値する内容がなければ字を書いてはいけないといふことである。この教訓は、文章においてさらによく当てはまるだらう。すなはち、記すに価することがあってはじめて筆をとれ。書くべきこと、語るべきことがあるとき、言葉は力強く流れるだらう。これこそは人間の精神と文章との極めて自然な関係にほかならない。

  • 文章読本は三島のものしか読んだことがないのですが、それと比べると、例示が豊富で、頗る実際的です。
    これは三島も言っていたことですが、職業作家はやはり文章で飯を食っているだけあって、その文章には光るものがあります。しかし、普通に読んでいるだけでは気が付かない。そこを僕らに提示してくれるのが、この本だと思います。

    丸谷さん独特の表記も味わい深い点です。

  • むつかしい

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著者プロフィール

大正14年8月27日、山形県生まれ。昭和25年東京大学文学部英文学科卒。作家。日本芸術院会員。大学卒業後、昭和40年まで國學院大學に勤務。小説・評論・随筆・翻訳・対談と幅広く活躍。43年芥川賞を、47年谷崎賞を、49年谷崎賞・読売文学賞を、60年野間文芸賞を、63年川端賞を、平成3年インデペンデント外国文学賞を受賞するなど受賞多数。平成23年、文化勲章受章。著書に『笹まくら』(昭41 河出書房)『丸谷才一批評集』全6巻(平7〜8 文藝春秋)『耀く日の宮』(平15 講談社)『持ち重りする薔薇の花』(平24 新潮社)など。

「2012年 『久保田淳座談集 暁の明星 歌の流れ、歌のひろがり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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