長谷川恒男虚空の登攀者 (中公文庫 さ 39-2)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122031371

感想・レビュー・書評

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  • 厄介そうな性格の、でも自分で人生を掴み取った長谷川恒男さん。
    自伝も読んでましたが事実として記憶は意図せず改ざん・編集されるものでもあり、当時関わりのあった第三者からみた人物像を併せることでより深くこの方を理解できた気がします。

  • ハセツネカップで名前だけ知っていた人。御岳山の上にも石碑があってとても気になっていた。どんな人生を歩んだかがよく分かって読み応えがあった。意外と薄い本のため、最後の方の山登りは一つ一つを書いてはいないが、スピード感があっていいか。自分の知らない昭和の熱気ある日本山岳史の一端を知ることができた

  • 長谷川恒男の名は彼が、三大北壁を冬季単独登攀したときにリアルタイムで知っていた。しかし、それがどれ程の偉業であるかは今更ながら本書で初めて知った。著者佐瀬稔の筆致も素晴らしい。ベビーブーマー世代、一貫して8百万人の1人という時代背景をベースにして長谷川の山への傾倒を辿ってゆく様は、それぞれの時代に応じた登山熱を分析してくれている。三大北壁の登攀そものは案外あっさり書かれているが、それは長谷川自身の書へのリスペクトだろうと推測する。

  • 長谷川恒男は、1947年生まれ、谷川岳でクライミング技術を磨き、1973年に第2次RCCによるエベレスト登山隊のサポート隊員として活躍(登頂後衰弱した加藤保男らを救助したが、自分は見捨てられたと思い込み、その後単独行へ拘るようになったという)し、1977~79年に世界初のアルプス三大北壁(アイガー、マッターホルン、グランド・ジョラス)冬季単独登攀、南米アコンカグア南壁(新ルート)の冬季単独初登攀を果たす。その後、日本で初めてアルパインガイドを職業として確立する一方で、ヒマラヤのダウラギリⅠ峰、ナンガパルバット、エベレスト(3回)に挑戦しながらいずれも敗退し、1991年に当時未踏のウルタルII峰(7,388m)で遭難死した世界的クライマーである。
    本書は、スポーツや社会問題を扱った作品を多数執筆したノンフィクション作家・佐瀬稔(1932~98年)氏による長谷川の評伝である。1994年出版、1998年文庫化。
    私はノンフィクション物が好きで、これまでにも、登山や極地行としては、世界的なロングセラーの『世界最悪の旅~スコット南極探検隊』や『エンデュアランス号漂流記』から、植村直己、山野井泰史(チョ・オユー南西壁単独初登)・妙子(女性初のグランド・ジョラス北壁ウォーカー稜冬季登攀)夫妻、竹内洋岳(日本人初の8,000m峰全14座登頂)などを描いた本を読んできた。そして、本書を含めた、それらの作品に描かれているのは、「人間の存在そのものが、そもそも許されていない」場所、「死は必然であり当然であり、生は単なる偶然(僥倖)でしかない」場所(この表現は、本書の中に繰り返し出てくる)で悪戦苦闘する人間の姿である。
    何故、クライマー・冒険家と呼ばれる人たちは、そのような場所に自ら進んで身を置き、かつ、一つの目標を果たすと、次に更に難しい目標に挑み続ける(そして、長谷川や植村を含む少なからぬ人が還らぬ人となる)のか。。。「あとがき」には、著者が、世界最高のクライマーのひとりであるイタリア人のラインホルト・メスナー(1944年~/1986年に人類史上初の8,000m峰全14座無酸素登頂)にインタビューをしたときの次のような言葉が記されている。「死は生の一部だと思います。死が生全体を支配している。死があるからこそ生きていられる。だから、小市民が好むような生き方はしたくない。一度しか生きられないのだから、自分の好きなことを貫きたい。アルピニズムは、スポーツの埒外にあります。自分を表現するという意味で、むしろ芸術に近い・・・」 小市民たる自分には想像の及ばない世界ではあるが、長谷川も同じように生きざるを得なかった、非凡なクライマーだったのだ。
    世界のクライミング史に名を残した長谷川の43年の記録である。
    (2021年9月了)

  • トレランをしてる者ならば、ハセツネカップの名を知らぬ者はいないが、長谷川恒男の功績や人となりを知らない人は多いのではないだろうか。

    かく言う自分もその一人で、長谷川恒男ってどんな人なんだろう、という興味本位から本書を手に取った。時代背景やその時代の空気感まで感じることができ、時代考証としても優れている。長谷川氏の人物像については、青年期の抜群の才能はあるが自負心とエゴが強すぎる頃の長谷川氏の姿には正直引いてしまったが、晩年の姿には共感・好感をおぼえた。

    次にハセツネカップに出る際は、これまでとは違った気持ちで臨むことになると思う。

  • 神々の山嶺の印象で何となく悪い印象がハセツネにはあったが払拭された。アルピニストはそれぞれに魅力的だ。

  • 長谷川恒男もまた、山に魅入られた男。
    森田勝ほどの天然ではなく、常識をわきまえているゆえに、集団で行動できずソロクライマーの道を選んだ。
    ところどころで昔のパートナー、遠藤のコメントが入ってくるのだけれど、これが切ない。美化されているのかもしれないが、理解と尊敬の心があって。もっときちんと話せばよかったのに。

  • 登山に格別興味があるわけでもなく、長谷川恒男を殆ど知りませんでしたが、読了後安易にも山登りをしてみたいと思う自分がいます。

  • アルピニズムはスポーツの埒外にあります。自分を表現するという意味で、むしろ芸術に近い…

    • michinorikagawaさん
      常に高みを望むと最後に死が待っているのか?引き際を間違えると、アルピニストに訪れる死。所詮人間は自然に勝てない。
      常に高みを望むと最後に死が待っているのか?引き際を間違えると、アルピニストに訪れる死。所詮人間は自然に勝てない。
      2012/05/25
  • 野球選手やサッカー選手の評伝なら、競技を始めた理由については、親に教わった、部活に入った、やってみたら面白かった、という程度の記述ですませても許されるのかもしれない。しかし、登山はそうではない。生命の危険を冒してまで、人はなぜ山に登るのか。「そこに山があるからだ」という、いかようにも解釈できる回答は、問いの深さを映し出しているからこそ私たちの記憶に長くとどまっているのではないだろうか。

    本書は、長谷川恒男(1947−1991)が山に登り始めた理由を、彼が生まれた時代に求めている。団塊の世代800万人が否応なく放りこまれた過酷な人生のレースというものがあり、そこから落ちこぼれた人々、反逆した人々が向かった先に登山があった、という説明には説得力がある。戦後日本の混沌のなかで山に向かった世代の生態描写は興味深かった(第一章「八百万人の風景」)。

    登山家の評伝は、登山を始めた理由だけでなく、登山を続ける理由にも紙幅を割かなくてはならない。本書は、登山家・長谷川の成功や失敗をつぶさにたどっているが、記述の中心は、なぜその年に、その山を、そのコースで登ろうとしたのか、という動機の掘り下げである。その点でも、登山家の評伝は他のジャンルのアスリートス本とは異なる。他の競技なら、自己記録更新をめざすのは当然、オリンピック出場をめざすのは当然であり、従って、動機の説明よりも、いかにパフォーマンスを向上させたかという技術論が中心になるのではないだろうか。

    同じ著者による森田勝の本(『狼は帰らず』)に続いて本書を読んだが、読み終わったいま残っているのは、明暗を分けた2人の登山人生のコントラストの余韻ではなく、同じようなコンプレックス、同じようなエゴに縁取られた、動機の描写の濃密さの記憶である。

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