使いみちのない風景 (中公文庫)

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著者 : 村上春樹
制作 : 稲越 功一 
  • 中央公論社 (1998年8月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (145ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122032101

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有効な左矢印 無効な左矢印
村上 春樹
村上 春樹
有効な右矢印 無効な右矢印

使いみちのない風景 (中公文庫)の感想・レビュー・書評

  •  使いみちのない風景。


    それは、旅先で見かけたワンシーン。
    心のどこかに引っかかり続ける記憶。

    そこでしか見ることのできないもの。
    それ自体では何も生み出さないもの。

    でも、僕たちが必要としている風景。


     たまに旅にでたいと思うことや、
    日常を少しだけ離れたいと思うのは、
    どこかで、こういった風景を探し求めているからかもしれない。


     使いみちはなくとも、必要という何かを。

  • タイトルのフレーズに惹かれて購入しましたが
    村上さん自身もアントニオ・カルロス・ジョビンの曲名を
    呼び名として使っていることからこのタイトルとなったとのこと
    村上さんの文章は外国の日常を切り取ったような写真とよく合うなと感じます

    使いみちがないという言葉から攻撃性でなく
    虚無感を感じるのは、続く言葉が風景だからなのでしょうか

    “だからこそある種の風景は、たとえ現実的な有用性を欠いていたとしても、
    我々の意識にしっかりとしがみついて離れないのだ”

    一見非効率的に見えるパーツの収集こそ実は意味がある
    というのは感覚的に理解できるところだと思います

  • 夜中に次いで程度に読んでみたのだが、とても気持がよかった。一ページずつめくっていったときの短い文章と写真の絡み具合が素晴らしい。音楽が鳴ってます。

  • 『僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものだから。』(108頁)


    本当は他のところを長々と抜きだしていたんだけど、

    やっぱり自分で消してしまった。

    この本みたく隣に写真が無いと、すごい味気ないことばに見えちゃうから。


    1ページごとに写真があって、まるで雑誌を読んでるような気分にさせる本でした。


    あたしの中にある使いみちのない風景は、たとえば、

    雨の武蔵野線(京葉線直通東京行き)。
    雨が降ってたから、学校をサボることにして、
    そのまま武蔵野線の終点まで行ってみた高2の冬のこと

    とか、

    南国のむわっとする空気のなか歩いてたら、
    台風で根元から折れて倒れた電信柱を見たこと

    とか、

    真夜中の船の甲板から一人ぼっちで遠くの陸の灯りを眺めてたときの、
    空か海か陸かどこが境目かわからない程の真っ暗闇

    とか。

    誰とも共有してないから、あるか無いか証明できないけれど、確かにあった風景。

    そんなことを思い出した。

  •  風景写真に村上春樹のエッセイがついた文庫。淡々とした写真に、淡々とした文、でもなんだか切ない。「人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから」 うむ、私もそれがわかる歳になってきたらしい。過去をもう一度欲しいとは思わないけれど、その美しさを愛でる気持ちは大事にしたい。

  • 学会帰りの道すがら、松江にartos(http://www1.megaegg.ne.jp/~artos/about.html)という本屋がありそこで手にとった本。良いセレクトショップだなという店内の雰囲気と旅情があいまって自然とこの本になった。僕たちの記憶の中に断片的に残されている旅の風景。それを使って何かをするということはできないけど、でもそんな風景の集まりが、何か自分という存在を引き出してくれるような気もする。「あーあるよね、そういう風景」、と言われてみれば思い当たるふしもあるが、それを「使いみちのない風景」と一言で名指してみせるのは、やはり文学者のえらいところだなと思う.

  • うーん、これはちょっと、大丈夫か? という気分になった。

    掲載された村上春樹のエッセイ?は村上春樹的であるし、ちゃんと味わい深い。そこに問題はない。
    ただ、短いエッセイを細切れの短文に分解して、1ページに3行とか掲載し、間に微妙な写真を載せて1冊に仕立てるというこのやり方は、ぼくには「水増し」に見える。ついでに短い2編のエッセイを同じやり方でくっつけて見せるやり方も、「さすがにちょっとまずいかな・・・少しおまけしとくか」みたいなあざとい計算を感じる。エッセイと写真を組み合わせるという本書の目論見(あるとして)が成功しているかどうかは読み手次第だから断言はしないが、ぼくは全然ピンとこない。ピンと来ない人は多いと思うのだが、そういう人にも「村上先生のやることなんだから、わかんないほうが問題なんですよ?」と言いたげな編集者の視線を感じる。

    被害妄想かな?

  • 風景の記憶。子供の頃よく遊んだ近所の路地。近所の子供たちと自転車で遠出をして工業地帯の橋の上から見た町の景色。下宿していたアパート横の坂道。とげぬき地蔵商店街。缶ビールを飲みながらよく眺めた大和川の流れ。初めての海外旅行で歩いたソウルの下町。パリの路上で食べた出来たてのワッフル。僕にも使い道のないいろんな記憶が残っている。そこには僕はもういない。あくまでも場所が主役で、僕は一瞬だけそこを通りかかったエキストラのようなものだ。しかしそのエキストラはいろんな舞台に出演している。おもしろいものだ。

  • ・じゃあどうして定着型の人間が何年にも渡ってそんなにあちこちと移り歩いたりしているのか、ということになるのだが、結論から言うなら、いささか逆説的なロジックになるけれど、結局のところ僕は「定着するべき場所を求めて放浪している」ということになるのではないかと思う。

    ・僕はこのような生活をとりあえず「住み移り」という風に定着しているわけだが、要するに早い話が引っ越しなのだ。だから僕の略歴にはおそらく「趣味は定期的な引っ越し」と書かれるべきなのだ。その方がずっと僕という人間についての事実を伝えているんじゃないかという気がする。

    ・そこから何かの物語がはじまるかもしれないと僕は思う。アリクイの夫婦の姿から、あるいはギリシャの若い水平の目から。
    でも、何も始まらない。そこにあるのはただの風景の断片なのだ。それはどこにも結びついていない。それは何も語り掛けない。

    ・「いや、ここには何かもっと別のものがあったはずなんだ。これだけじゃないんだ」
    でも僕らがそのときに目にして、そのときに心をかきたてられたものは、もう戻ってはこない。
    写真はそこにあったそのままのものを写し取っているはずなのに、そこからは何か大事なものが決定的に失われている。
    でもそれもまた悪くはない。
    僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものだから。

  •  ちょうど今の気分に合ったので買って読んでみた。

     アントニオ・カルロス・ジョビンの曲 ”Useless Landscape”から取られたタイトルらしいが、なかなかいい。つれづれなる日常をつづったエッセイと片付けてはいけない。「使いみちのない風景」と「旅」にまつわる(実は)一貫性を持った考察だ。

     気分というのは、写真家稲越功一の写真とコラボしている点。そしてタイトル。” 使いみちのない風景”が”使いみちのない写真”とも思えて手に取ってみたもの。どうも近頃、写真の価値はどこにあるのか?というのが気になってしかたがないのだ。

     まず、文章より写真を見てみた。たわいのないスナップが文章と交互に並ぶ。多分、写真1枚だけ見せられても、そこに価値を見いだせるかと言われれば正直なところ「No」だろう。一見そんな写真が多い。58枚並んでこそ、いやそれでもまだ、、、。
     村上春樹の文章と並んでこそか。となると、これらの写真と文章を並べてみようとした意図は? タイトルから発想し本当に”使いみちのない”写真を使ったのか? そうではあるまい。仮にも多くの写真集を世に送り出している写真家である。「使いみちのない写真、くれませんか?」とお願いしたわけじゃなかろう。村上春樹とコラボしての著作に「どうぞ勝手に持っていっていいよ」と写真家も無造作にボツにしたネガを投げてよこした、なんてことも考えにくい。
     ただ、写真にほとんど一貫性はなく、文章との深い関連性も見いだせない(ただ洞察力、あるいは感受性が自分に乏しいだけかもしれないが)。でも、人物ポートレイトの写真集には使えないし、報道写真的な記録の意味も稀薄な作品であることは確かだ。特定された目的、使途においては”使いみちのない”写真と分類されてしかるべきかとは思う。それらを用いて文章とアレンジした意図は? 構成を考えたのは誰か? 編集者側の仕事だろうか?

     そう思いながら次に村上春樹の文章を辿る。

    「僕らの中に残っている幾つかの風景、いくつかの鮮烈な風景、でもそれらの風景の使いみちを僕らは知らない。」

     とある。記憶に残る風景についてだけでなく、こちらが本書を手に取った意図を見透かしてか、こんなことも書いてある。

    「ある風景が僕らの心を特別に強く引きつけて、それをずっとあとまで記憶するためにカメラのシャッターを押すこともある。でも残念ながら、僕らの写した写真が、僕らの目にした風景の特別な力を写し取っていることは、極めて稀である。現像されて戻ってきた写真を見て、僕らはこう思う、「いや、ここには何かもっと別のものがあったはずなんだ。これだけじゃないんだ」」

     より見たままに、あるいは見た以上に鮮烈に、そのときの感動を写真にすることは不可能ではない。でも、ここではそうした技術的、技巧的な写真の出来栄えの話をしているのではないのは承知の上で読み進む。 記憶に残る風景、その中でも使いみちのない風景について、村上春樹の答えはこうだ。

    「それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景に―おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に―結びついているのだ。 そしてその結果、それらの風景は僕らの意識を押し広げ、拡大する。僕らの意識の深層にあるものを覚醒させ、揺り動かそうとする。」

     彼はそうして世界各国のさまざまな風景にわが身を包まれながら、覚醒された深層意識を駆使して多くの作品を生み出してきたようだ。本書のもう一つのテーマ「旅」の考察で、それは旅ではなく「住み移り」だと、旅の本質というか、単なる「旅行」と「住み移り」の違いについて考察しながら、それぞれ移り住んだ先で過去7作の長編を書いたと述懐する。 ”使いみちのない風景”は風景そのものとして... 続きを読む

  • 使いみちのない風景

    旅行とはそもそも疲れるものだ。疲れるようにできているものなのだ。
    旅行をするとき、何もかもがうまくいかないといってもいいくらいのものだ。

  • 村上春樹 エッセイ集『使いみちのない風景』
    「旅行」というものと「住み移り」というものの違いについて考察し、旅行というものの本質的な点について、稲越功一氏の写真と共に語っている。
    気に入った文、最後の一文、「僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから」。

  • 旅行している幼なじみのことを思いながら、そしていつだったか同じ場所を旅行して是非行ってみて欲しいと手紙をくれた友だちを思いながら、旅行をしない私が読んだ本。

    僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから。

    ですって。泣ける。

  • 村上春樹のエッセイと稲越功一のスナップ写真の組み合わせがとっても素敵。「写真はそこにあったそのままのものを写し取っているはずなのに、そこからは何か大事なものが決定的に失われている。でも、それもまた悪くはない。僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから。」 ギリシャ島の達人カフェでみんなと一緒に頭を空っぽにして、ぼおおっと海と空を眺めながら、幸福な一生を終えたくなる。。。かどうかはあなた次第。

  • 「僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから。」

    この一文は鮮烈だったのですが、本の構成として、文章と写真の調和、バランスがよくなかったと思います。

  • 写真に添えられたエッセイである。
    すぐに読めてしまうところが、何とももったいないような感じがする。

  • とても簡素でぶっきらぼうに思えるタイトルのついた本を読み終える。

    「使い道のない風景」
    村上春樹 文
    稲越功一 写真

    世界各国にある名所や美しい風景写真を目にすると旅に出たい気持ちを
    掻きたてられるけれども僕は時間の使い方が上手くないので旅をした回数は少ない。

    旅に出るとそこでしか見ることができない風景に出会うことが出来る。

    それらは鮮烈に僕らの中に残っていて
    ふとした瞬間にあの時見た何気ないあの風景が立ち上がってくるけれども
    それらの使い道をぼくらは知らない。

    村上春樹氏はその風景を
    「使い道のない風景」と名づけている。

    無数の旅を重ねてきた作家と写真家が失われた風景と記憶を紡いで仕上がった作品

    僕は今でも何かの折に、そのフランクフルト動物園のアリクイの夫婦のことを思い出す。

    でもその思い出が、思い出された光景が、僕に向かって何かの結論なり、教訓なりあるいは特定の感情なりをもたらすわけではない。
    僕はただこう思うのだ、「あそこにアリクイの夫婦が居たなあ」と。

    ただそれだけだ。

    ひとりの水兵がふと後ろを振り返って空を眺め、水平線を眺めた。彼は一瞬まぶしそうな目をして、
    それからまるで完璧な空白を見るように、水平線の少し上のあたりをじっと見ていた。

    その目の中にある何かが僕をひきつけた。
    僕はそのとき、客室のむっとした空気が嫌になって、風に吹かれるためにデッキに出てきていたのだ。その水平の目には
    二十歳前後の青年だけが浮かべることの出来る漠然とした憧れのようなものがあった。
    少なくとも僕にはそう感じた。

    僕はその水兵の目を良く覚えている。

    そこから何か始まるかも知れないと僕は思う。
    アリクイの夫婦の姿から、あるいはギリシャの若い水平の目から。
    でも、何も始まらない。そこにあるのはただの風景の断片なのだ。
    それはどこにも結びついていない。それは何も語り掛けない。

    僕はそういう風景を「使い道のない風景」と名づけている。
    昔そんな題のアントニオ・カルロス・ジョビンの曲があった。
    原題は"Uselesslandscape"といったと思う。

    http://tokinominoru72.blog.fc2.com/blog-category-11.html

  • エッセイも写真もピカイチですね。

  • 村上春樹の「使いみちのない風景」を読みました。
    写真と村上春樹のエッセイ(テーマは旅です)で構成されている本です。 いつもながらの村上節で楽しめました。

  • 猫は限定された世界観をもつ生き物なのだろう。

    村上春樹の自然な語りは、どうしてこうも憧憬とある種の寂しさを誘うものなのだろう。静かに世界と距離を置きながら、優しい目線。言いたかったけれど自分の視点とユーモアでは限界があって語れないものごと、それらを綺麗に言ってくれる感じ、それが共感作用というものなんでしょうか。諺で、かゆいところに手が届く、というやつです。

  • 図書館所蔵なし
    (笹)

  • 村上春樹よりも稲越功一さんの写真で買いました。夏に寝そべりながら、傍らに冷えた麦茶を置いて、のんびりと読みたい本です。エッセイも写真も余白の取り方が良く、読んでいて心地良い空気が流れて来ます。

  • 私たちから見ると、村上春樹くらい頻繁に旅をし、また住む場所を移動する人はいないように思う。ところが彼はそうでありながらも、本質においては「定着型・農耕型」なのだという。日本の文学史上、名高い旅人を想い浮かべてみると、それは西行であり、宗祇であり、芭蕉である。たしかに彼らの旅のスタイルと春樹のそれとは本質的に違っているだろう。宗祇はいくぶん様相を異にするが、西行と芭蕉においては旅そのものが、すなわち彼らの人生だった。一方、春樹は本質的にはきわめてストイックで、またスタティックな作家なのだとあらためて思う。

  • 図書館でぼーっと読んだ。村上春樹の紀行を読んだのは初めてだなぁ。これは頭を空っぽにして読むのがいい。2011/020

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