望みしは何ぞ―王朝・優雅なる野望 (中公文庫)

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著者 : 永井路子
  • 中央公論新社 (1999年4月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (347ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122033924

望みしは何ぞ―王朝・優雅なる野望 (中公文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 藤原絶頂期の終わりの始まり。女の股を覗き込んで政治をしていた時代。前作『この世をば』のストーリーを藤原能信という別視点から眺める。盛上らない面白さ。


     平安時代と言えば藤原摂関家の時代である。しかし、藤原と言えども一枚岩ではなく、藤原四家のなかで強運の持ち主がのし上がっていく権力闘争がある。永井路子の平安三部作の最後。序曲で始まり、ここにFin.

    ________
    p79 三条帝落としのために能信を昇進
     道長と三条帝のパイプ役である蔵人頭だった能信が昇進した。後継には兼綱がなったが、かれでは道長という大物を御しきれない。それに託けて、道長は三条帝との溝を深め、天皇廃位へ追い込んでいった。
     そういうやり方もあるんな。

    p95 飄々たる
     三条帝の子:敦明は、自分より14歳も年下の道長の孫にあたる一条帝の東宮を拒否して、敦良に東宮を譲った。自分がこのまま即位すれば、三条帝vs道長家系の対立は終わらない。そういった現世のしがらみに辟易して、権力に固執することからの開放を求めての東宮辞退を決意したのだろう。そうした飄々とした態度は当時の貴族社会では異常であるが、高尚とも考えられる。
     これを最初に受けたのが東宮のお友達としての能信だった。その事実が、能信が敦明に辞退を促したのではという噂になり、いつのまにか彼の功績になった。事実はどうかわからないが、能信も道長の子でありながら、明子の子供ということで権力闘争から一歩引いた地点から物事に取り組んでいたという点で、敦明同様普通じゃなかったんだろうな。

    p121 この世をば
     「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 虧けたることも なしと思へば」と道長は威子の立后の日の祝宴で歌を詠んだ。
     能信は「父君も囲い込みに失敗したな…」と辛辣に思った。道長はこの歌の返歌を藤原実資に求めたが、丁重に固辞されたため後世に道長の自信過剰な振る舞いの逸話として残ってしまった。
     調子に乗りすぎてしまった事案も、誰かがフォローしてくれれば笑い話になるが、大真面目に採られると揚げ足取りになる。自分の歌に返歌を作らせて、実資にも道長礼賛させようという魂胆が破れ、面目丸潰しになった。道長の勢いが陰り始めたか。

    p158 怨霊
     能信の妹:寛子が危篤に陥った。それに託けて修験者やら祈祷師が寄ってきた。
     顕光と延子の亡霊による怨念だということを演じている。能信は怨霊信仰を冷めた目で見ている。怨霊信仰というものは政治的道具だと考えている永井路子の考えを代弁してくれている。

    p183 法華八講
     道長が後年におこなった苦行。これにより産後に死んだ嬉子の追悼と道長と争った三条帝の怨霊慰撫をした。これを道長は能信に打ち明けた。
     道長は三条帝の怨霊を怖れていたのだ。結局、やましい所があるから怨霊を恐れることになるのだ。
     能信が怨霊など迷信と考えられたのは、恨みを買うことが無かったからだろう。人を呪わば穴二つということだな。

    p236 女の股
     この平安時代の政治というのは「皆がよってたかって女の股を覗きこんでいる」と能信は喩えた。
     確かに、自分の娘を天皇の后に押し込んで、その生まれた子が男の子かどうか、その「引き」を持っているかいないかで政権が決まる。となれば、皆自分たちの娘の股を覗き込んで政治をしているのだ。㌧だ時代だな。

    p238 平忠常の乱
     藤原能信の生きた時代に、平忠常の乱が関東で起き、それを源頼信が鎮圧して関東に武士団を築き上げるようになっていった。
     武士の勢力が大きくなる契機であるが、一方この頃貴族たちはそんなことを気にも留めずに、目先の政治駆け引きに明け暮れていた。

    p336 白河天皇
     能信の娘:茂子は尊仁(御三条帝)に輿入れし、貞仁を産んだ。貞仁はのちの白河天皇である。
     それまで摂関家に牛耳られていた天皇の皇子を産ませるという流れを断ち切った。ある意味革命的である。
     この白河天皇以降、摂関家の力は薄れていく。院政が始まり、権力は外戚から上皇に集中していく。それでもコバンザメのごとく藤原家は権力にまとわりつくが、白河上皇以降、地位を得た藤原氏は茂子の系列、つまり能信の血を引くものであった。

    p343 王朝序曲
     永井路子の平安三部作、第一作『王朝序曲』は権威と権力が分割されながらも密着していく過程を綴った。象徴天皇制の祖形を描いた。
     政治大好き桓武天皇で天皇権力は分割されていく。そして象徴天皇のはじまりである嵯峨天皇が出てくる。そこに藤原という家系が登場する。
     藤原摂関家が天皇から権力を奪い、藤原王朝を築いていく、藤原組曲の序曲の部分を描いた。

    p344 この世をば
     第二作『この世をば』では、華やかなイメージの平安時代の現実を描く。政治世界の権謀術数と女性の存在価値を藤原王朝カンパニーを中心に赤裸々に語った。
     道長の謳った「この世をば~」の和歌が体現する藤原絶頂の当時の世を描いた。歌の世界であった平安時代、歌は本当に時代を表した。

    p345 望しは何ぞ
     第三作『望みしは何ぞ』では何が語られたのか。
     道長の息子でも、権力の中枢にある鷹司系ではなく高松系に生まれた能信が、時代から一歩退いて政治に関わり、その後新しい「院政」の時代を開拓することになる物語を描く。
     この物語の読みどころは、「不条理の体現者である能信の軌跡を、産む性としての女の問題に絡めて綴った」という点にあると縄田一男は解説する。
     不条理な政治の世界に身を置く男たち、一見権力を握っているようで、しかしカギを握るのは子を産む女たちなのである。そういう歪んだ平安社会を描いたとこがこの作品の肝である。
     「みんながよってたかって女の股を覗きこんでいる」という一文がすべてである。

     客観性を持つ人間として描かれた能信、彼は自分の父:道長が築いた摂関家の権力を終わらせる契機をつくった。彼が望んだものはなんだったのか。彼の存在は歴史が望んだことだったのか。
     望みしは何ぞだったのか。

    p346 つぶての意味
     解説者曰く「『夜の梅の雪』の章で、しみとおる雪の冷たさも忘れて能信が己の野心を新にするシーンを思い起こしていただきたい。そしてあの時、彼が「ー飛礫か」と、思わず首をすくめたときの後頭部に走った痛みはなんだったのか。あるいは、それを理解することが、本書を真に読んだ、ということになるのかもしれない。」
     p229のシーンである。
     能信は後一条帝の妃:威子の中宮大夫として威子の出産に仕えた。しかし、彼女の産んだのは女児だった。それを知ったコバンザメどもは落胆の空気を隠せなかった。それを能信はうまく払拭するようまとめ、それを頼通に感謝された。権力者に恩を売ったのである。
     もしこのまま鷹司系の血筋が天皇家を後継する男児を産み続ければ…。自分たち高松系の者には政権のお鉢は回ってこない。そのために、この出産は賭けだった。もし男児が生まれれば自分の代で変化は望むべくもない。
     しかし、このまま男児が生まれなければ、道長が死んだ今、頼通を頭とする鷹司系は瓦解する可能性がまだ残る。そして、自分はその女児誕生で頼通に恩を売り、権力の中枢に近づく。

     そういった魂胆が能信の胸の内にあった。まさにその筋書き通りになったその時、能信はその背後に誰とも知れない脅威を感じた。飛礫が投げられたという錯覚とともに。

     この錯覚というのが平安時代に跋扈した怨霊たちなのであろう。自分の肚の底に溜るドス黒い何かが波立つ時、人々はその陰に怨霊を感じる。後ろめたさが産む、ドス黒いそいつが怨霊の正体である。

     怨霊を信じなかった能信にも晴れて怨霊が顔を見せたのである。

    ________

     シリーズ読破。やはり平安時代はどろどろしているから難しくて、戦国時代とかのように熱く盛り上がることはない。だから安定して★は3つくらい。

     しかし、大人になった今だからこの物語の面白さがわかる。これは、大人の歴史読み物である。


     怨霊というものがシリーズを通してよく出てきたが、きちんと最終巻でその点にもまとめが入っている点が素晴らしい。(とはいえ初見ではわからなかった。『悪霊列伝』という永井路子の別著を読んで、改めてこの本を見直して怨霊のことに気付いた。)

     全部読み終わって振り返ると、全部★4つくらいの評価になるな。

  • 永井路子王朝三部作『王朝序曲』、『この世をば』、『望みしは何ぞ』の
    三作目にあたる。

    『望みしは何ぞ』は、藤原道長の息子・能信を主人公に据えた小説。
    『この世をば』の続編として読むことができる作品。

    物語の主軸としては、道長の正室・倫子所生の頼通、教通に対して、
    正室・明子所生の頼宗や能信は出世の面で遅れを取っていることなど、
    同じ道長を父としながら隔たっている2つの血の相剋に焦点をあて、
    中でも能信を主人公として、この時代を描いている。

    個人的には、『王朝序曲』と『この世をば』と比べると、
    面白みが少なかった印象。
    主張したい視点(鷹司殿と高松殿を対比させる)は、
    面白いと思ったのですが、一つの物語として小説としては少し単調で、
    人物にも魅力が少ないように思い、流し読みしてしまった感があります。

  • 「この世をば」の続編。前作ではしっかり者で子供思いの姉さん女房である道長の妻倫子の印象が、がらりと変わる。
    「この世をば」の前作「王朝序曲」もあるけど、短篇集「噂の皇子」もサイドストーリーとしておもしろい。

  •  平安朝三部作の完結編。
     主人公は藤原道長の息子・能信。
     母親の違う鷹司系と高松系の歴然とした差に鬱屈する様が、淡々と語られる。
     “一々の官位の昇進よりも、対立する相手との比較感に、人間がいかに悩まされるか”。
     後三条天皇の背後にある両系統の対比を軸に、平安王朝の藤氏の内部対立に注目する。
     そして、慢心や倣岸とは縁遠い道長の人物像。
     名高い和歌“この世をば~”が独り歩きしてしまう当惑や滑稽さは、実状に近かったのではと思わせる。
     欠け始めた月を眺める能信の憂いも際立つ。
     それでも尚、大器であった父の逝去により、彼は抑圧から解放される。
     人の死が奇妙な活気に満ちた野望の祭りに擦り替わる時代の、洗練された権謀術数と残酷な政治性。
     不条理の体現者として、勝ち目の無い賽子に命運を託す能信の負の情熱は、諦観と粘りの混じり合った賭け。
     そこに、権力の生殺与奪を握る女の性が纏わる。
     古来、政治力の持続を組織体制でなく性の結合で繋ごうとした裏目は、時代を緩やかに変質させる。
     繰り返される近親婚が子供を生まれ難くしたかもしれない指摘。
     宮廷社会から悠々とはみ出す、養女・茂子の異質な個性。
     偶然にあるいは必然に絡み合う背景の下(もと)、摂関家出身でない女性の産んだ皇子が皇位を践む道を開く。
     延いては、院政切っての専制君主・白河帝が誕生する。
     能信は、父に倣いながら結果的に、摂関制の中心に坐る意図を超え、院政期へ移行する橋渡しを果たすことになる。
     歴史の枠組みは、予期されずさりげなく踏み破られてゆくもの。
     血生臭い衝突が無くとも、権力や権威は推移する。
     個人の意志を超えて転回する歴史の不思議さに、感慨に耽る。

  • 藤原道長の時代から白河上皇が誕生するころまでの時代。
    道長の子供である能信が,天皇の座に付くのが難しかろうと思われていた皇子やその母に目をかけ,その皇子が天皇の座に着くまでの権勢の奪い合いを描いた作品。
    ほとんどが,出世とそれに関わり我が娘を皇太子に入内させようとするやりとりに終始した話である。
    天皇や皇太子,皇后などの人の死が,悲しむまもなく次の権力闘争に発展して行く様を,「死はたちまち野望の炎の中にくべられ,やがて忘れ去られる。その後に来るのは非情なまでに賑やかな祭りのざわめきである」と著している。まさに,その情景を言い得ている。

  • 「この世をば」の事実上の続き。
    藤原氏全盛期を経て、やがて院政へ移行していく過渡期の様子を、道長の息子・能信を通して描かれる物語。

    藤原氏にとっては、斜陽期に入っていく物語だからか、購入した当時はそうでもなかったけど、年を経て読み返したら、三部作で一番面白いかも知れないと思った。
    (けど、王朝序曲が特別好きなので、一番の座が素直に譲れない(笑))


    三部作+噂の皇子を、ワンセットにして何処かで出してくれないかしらん。

  • 道長没後の藤原氏。王朝3部作完結。

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