- Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122041028
感想・レビュー・書評
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母は学生時代庄司薫の大ファンだったらしい。
文庫版と愛蔵版を揃え、愛蔵版にはサインまで貰っている。
シンパや学生運動という言葉群、女性の服装の描写など昭和全開。
また、当時の恋愛感覚とか、こんな感じだったのかなとリアル。
(当時の)少女マンガの様な展開と文章である。
「ヒューッ、カッコイイ!」とか正気の沙汰じゃ無い。
この作者の大ファンだったらしい母の気持ちが推し量れ過ぎて辛い。
青春小説好きの血は私の中にも流れている気がする。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
薫くんの兄の友人で、東大医学部闘争のメンバーだった山中は、教授の仲人で大病院の娘と結婚することになる。転向、脱落、反革命と、まあそんなところで、かつての同志がなにか騒ぎを起こすのではないかとやや取り越し苦労気味に心配される結婚式に、ふとしたきっかけから薫くんも招待されることになる。
「まあ一部の共闘派がかなりヒステリックになっているのは確かだが、まさかね。ただ、そう考えて緊張した方が、山中にとっては救いになるってな筋はある……。」
兄の友人のひとりである野島のこの言葉を薫くんは理解しかねるのだけれど、それは仕方ない。まだ撤退に至る闘いを彼は経験していないのだから。
真に耐えられないのは、撤退に至ることを痛罵されることよりも、撤退を無視されること、取りざたされる価値も無いように扱われることだ。
撤退を等閑に付されるということは、撤退に至るまでの闘いをも無価値だったと断じられることだ。自ら選んで闘いから去る身にすら、それはなお受け入れがたいことである。
結婚式そのものの雰囲気もまた異様であり、
「明らかにそんな拍手ならしない方がましだと言いたくなるような拍手」
「明らかな敵意とか憎しみというものならまだいいと思いたくなるような、なんとも言えない冷淡で皮肉な」周囲の反応に包まれている。
山中の友人たちのスピーチもおよそ祝辞というものではなく「実はそこに集まった人々特に医学部関係者に向けて紛争中の自分の立場を説明するものだったから、これはたまらない。つまり、どの事件の時は自分はいなかったが、それはかくかくしかじかのせいだったとか、誰々にどう言われたけどその実情はこうで、それについては誰々がよく知っているとかいないとか」……。
薫くんが驚くのは、そのような反応に、人生という兵学校の英雄である薫くんの兄やその友人たちまでもが列席者として同調していることだ。
薫くんはこうした俗物的な態度に噛み付くが、兄たちの態度は非常に用心深いものである。
「おまえ、やぶへびってのを知ってるだろう?もしヘマやって蛇が暴れてだな、それも自分に向かってくるならいいが、気の毒な花婿にかみついたりしたとしたらこれは困るのではないか」
「たとえばわれわれが山中に同情して、先頭きってセッセと動いたり、派手に拍手をしたりするとねどうとられるかは、これはもう全くのあなたまかせだ」
「でも、そんなこと考えたら、もしかすると何もできない……」
と疑問を呈する薫くんに対して、かれらは「そうなんだ」と肯定する。ここでは薫くんは、何かをしないことよりは、何かをして自らの旗幟を明らかにすることに倫理的に高い評価を与えているように見える。それは自然なことだけれど。
ならばどうすればいいという薫くんの問いに「出来るだけ注意をする、特に自分が誤解されやすい場合にはね。」と答える兄たち。「誤解されやすい」とはなにか。
「やや神経質に言うと、ひとを傷つけやすいっていった方がいいかもしれないな。」と吉田さんが言った。
「え? どういうことですか?」
「さあて、どういうかな。たとえば、何かの力を持つということ……。」
(略)
「たとえば、美人ちゃんはそれだけで他の女性を傷つけるってなことですか?」
(略)
「あのね、すぐそういう例を思いつくってこと自体がちょっと相当猛烈うまくないだろ?薫くん。」と兄貴がぼくの口真似をして言った。
ここでは力を持つことと、その力を振るうことに対して積極的に逡巡するという『赤頭巾ちゃん気をつけて』で薫が達していた結論を兄がたちが述べるという形になっており、薫くん自身の立場はそれ以前の段階というところにとどまっている。
そして、むしろそれは正しいことだ。内田樹が言っているように、あの結論に10代で達するということにはどこかつくりものめいた不自然さがある。(http://booklog.jp/users/sukerut/archives/4122041007)
今回の薫くんは修行時代の徒弟という役回りであり、青臭さを持ちつつも、先行する者たちの苦闘の経験と、その過程で生じたある種の避けがたい頽廃とを映し見ていくことになる。
『赤頭巾ちゃん』において薫くんは、腹話術氏、福田章二の人形として、その人間観を語らされていた。そもそも「あとがき」において「なんだか、ぼくってのは、実は兄貴の書いた小説の主人公なんじゃないかって気もするほどなんだ」とネタを割っているくらいである。
けれど、本作においてはその人間観を託されているのは福田章二本人に年齢的により近い兄たちである。といっても、それは、あくまで庄司 薫というキャラクターの視線を通したものであり、福田章二が福田章二として福田章二の人間観を吐露しているというほどストレートなものではないのだけれど。
それにしても内田樹が言うように、「『薫シリーズ』四つの連作の中で、『兄たち』を隠された主題に擬したこの作品だけがほんとうの意味での『青春』文学なのである。」ことは間違いない。(http://blog.tatsuru.com/archives/001393.php 『内田樹の研究室』)
彼らの語りから薫くんがなにかを学んでいったり、決意したりするという構成は、かなり用心深いというか、よく言えば計算されているとか、構成的だとかいうことになるんだろう。
だから、『赤頭巾ちゃん』における薫くんの軽やかな文体というものが後世に与えた影響というようなものが話題にされるとして、少なくともこのシリーズについてはこうした語りというものは一つの掩蔽物として機能しているということはおさえておいた方がいい。
さて、山中は結婚という降伏の儀式全体のその形式に、完璧に屈服する花婿を演じて撤退のケリをつけようとする。退却にもポーズをつけなければいけないのだから男というのは大変だ。
だが、その露悪的な心理は花嫁には端から読み通されていて、だから「あなたはそうやって、実は自分も馬鹿になったふりをしたいんです。」「あたしはあなたから見れば馬鹿だけど、あなたが考えるほどじゃないわ。」と撃たれることになる。
この作品は、女の子も大変だということからも論じることが出来るのだけれど、それには今回の日記で採用した文体では難しいところがあって、別のキャラクターを立てねばならんという気もする。
『さよなら怪傑黒頭巾』は、『赤頭巾ちゃん気をつけて』と照応するような作品ではあるけれど、より苦い。それでも薫くんは最後にある荒野を幻視しつつ、牛乳配達屋がやってくるのを待ち続ける……。 -
解説:奥野健男
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なんかいいですよね、申し分なく素敵でキレイな女の子に、夢中になる感じ。
夢のあとの二日酔いのリアリティが、やれやれ、参った参った、です。 -
こういう時代もあったんだなと感じた。陽気なようで峻烈で少し悲しい感じ。
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男の子は生きていくのが大変なんだってさ。
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口語体はだからか、読みやすく、感情移入しやすく、おもしろく。思春期の悶々、戸惑い、思考のジレンマ、こうやって大人になっていくのかと読みながら思う。ただ、薫くんには変わってほしくない、僕も変わりたくない。
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7/2
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庄司薫の、赤、黒、白、青シリーズのひとつ。学生運動の時代を生きた若者が社会に組み込まれ、観念して人生の仕切り直しをする。