- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122042490
感想・レビュー・書評
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漂蕩って美しい言葉だなあ。風に吹かれてあちらこちらへ思うがままに世界中さすらうなんてのは、女の身でなくても、今の時代には難しいだろうな。ネットがあれば「明日のことはわからない」なんて言えない。
檀一雄氏が世界中をさすらった思い出の寄せ集め。ニューヨークでは安宿の窓に足を垂らして座り、コーンフレークでバーボン飲んで、おしっこ垂れ流し(爆
まだ貧しく遅れた中国の見聞。
「マラケッシ」の市場での描写がいい。
「アラブの町の迷路は歴史とか時間とかをとろかしつくした、抽象の人間の流れに思われて、切ないほどの空漠が感じられたものだ」
そんな心持ちになってみたいような、なりたくないような。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
なんとなく美食の旅の記録みたいな体裁に誤魔化されてしまうけど、狂った無頼派という補助線を引くと、著者の異常性が浮かび上がってくる。海外に出かけて飛行機降りた途端に市場に特攻して見知らぬキノコを買いまくるとか、どう考えても異常者。どちらかというと海外で異常性が発揮されるので、海外のことが書かれた後半の方がより無頼。
前半は普通にユーモア豊富な無頼派グルメ紀行で、こちらも楽しく読んだ。自国のサツマ汁がおいしそう。 -
うろついてゆくその行先が、自分の居場所である―。韓国へ、台湾へ、リスボンへ、パリへ。マラケシュではメジナの迷路をアテなくさまよい、ニューヨークの木賃宿ではコーンフレークをバーボンで流し込む。世界を股に掛ける「老ヒッピー」檀一雄の旅エッセーをまとめた檀流放浪記。ブックデータベースより
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夫本棚から、男の読み物。
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「私が歩いている所が、世界の真ん中であり、私が止れば、そこがその日の家であり、その日の宿である。」
自らを老ヒッピーと称する筆者に、不良の松尾芭蕉を想像してしまった。もしかしたら今の自分と同年代の頃の作品かなと思うと、そんな気を起こしそうになってしまった。 -
「漂蕩」という言葉は知らなかったのだけれども、PCで入力しても出てこなかったということは、筆者の造語なのだろうか。漂流・漂泊しつつ放蕩する。この本の感じが確かによく出ている。壇一雄というのは、「火宅の人」を書いた人で、ということは知っているけれども、実際に書いたものを読むのははじめて。沢木耕太郎の「壇」(という題名だったと思う)を読んだことがあるので、どういう感じの人だろう、というイメージはあった。この本を読んで、イメージは、あまり違っていなかったな、という感想を持った。しかし、この人は放浪している人だ、あてもなく、先のことは一切考えず。なんとなく、寅さんを思い浮かべたけれども、よく考えると、寅さんはテキヤという「職業」を持っているわけで、日本国中を動き回っているのは、いわば「営業」「行商」であり、放浪とは言わない。壇一雄の旅は、「目的を持たないこと」が唯一の目的であるような旅であり、それはそれはうらやましく感じる。